「主観的」を単なる悪口や思考停止のツールにせず、論争可能性や理由づけのレイヤーで捉えるのめちゃくちゃ腑に落ちたわ
客観性は、資本主義社会に於いては「換金性」と言い換えることができる。「それナンボの価値がありますの」たとえばロマンとは、実用の役に立たないものを競って値付けるオークションで、片方が諦めた金額の事である
“アイスのMOWよりもスーパーカップのほうが好きというひとはかなり変だが” なんでや!
"相対主義とは、「何が赤くて何が赤くないかはひとそれぞれだ」という立場" 言葉が発明されて以来の約束事に従わないのなら、一人で別の体系を作ってはいかがだろうか。
物理的特性から識別される"A"という事象が、『赤』とsymbol groundingされているとき、『赤』という表象の指す事象の範囲が主観的だからといって、"A"の物理的特性まで遡及的に主観的になるのではない
それぞれの価値観が完全に独立かつランダムならともかく、けっこう近しいものが多くある。そういう実際の在り方を勘案しようねってことかなあ。
タイトルだけ見て「なにっ?」と思ったけど本文を読んだら納得した。/ちなみにアイスは爽派
軸を揃えれば客観性は問えるようになるが、軸を合わせようという気持ちがない、そもそも軸の分類基準自体が違う、単一軸ではなく多軸で考えていてしかも処理手順が違う、とかのあたりに興味があるな。
最近の文献よりプラトンのイデア論読みなよ
唐突にディスられるスーパーカップ派です。
「客観的・主観的という言葉を使うのをやめてみる」が唐突過ぎ、とつぜん終わり過ぎで腑に落ちない。実例としてこの記事全体を、客観的・主観的という言葉を使わずに書き直してみて欲しい
こういう話って哲学として語られるけど、結局は有機生命体とか神経とかの話ではないの?価値観に大きく影響するだろう快不快の感情も、進化を通じて獲得された普遍性をもつヒトの特性なのでは?
自説に都合よく言葉の定義を取っている様に見える、例えば文中の定義からは「「価値なんてひとそれぞれだ」という判断には客観性がある」と言えてしまう(理由づけのレベルで論争の余地がある事を自身で示している為)
アタクシ的価値観と価値の判断。アタクシは釜揚げシラスが苦手なので100円でも買わないが、家族が好きなら家族の為に1000円出して買う。あと、バニラのスーパーカップは買わんかもしれんが、紅茶やレアチーズのは買う
リーディングリスト、買いに行くリスト入り。最近気になっている方面の話だ。入門していきたい。
「これが赤である」と宣言してある程度の共通見解は得られるのだが、価値としての「赤」は共通定義されない。どこまでいても価値は主観的なものである。
価値はとりあえず金で測るものでは
論証になる例が雑すぎる
赤の定義としての光の波長などと、赤く感じることは別なのではなかったかな。赤い光をセンサーで判定して白黒のモニタで結果を表示させたら、赤さについて何かを語れるか。
客観性だから、一切のブレがない客観という意味ではないんでしょ。だったらある色を見て、「多くの人が赤だと主観で判断する」と赤色という客観性を持つのでは。
色覚多様性をみても、色の例は主観的な経験にも、社会的・物理的な基準を対応させることができる場合があることしか証明していない。価値についていえば、色のように波長は存在しない
色の話になると光学センサーから読み取ってRGBがやれそれホニョホニャでとかから客観性が~とか思ったから誰か理屈捏ねてくれ
そもそも価値観が人それぞれでなければ「客観性とは何か」という問いそのものが発生しない(ひいては価値観という概念すら怪しくなる)のだからあたりまえ。
MOWはアイスクリーム、スーパーカップはラクトアイス(定義で殴る派)
「美に関するな価値判断は理由づけで決まる」というのは、ブルデューが「象徴闘争」と呼んだものであり、これは「同一ルールの中での客観的な論争」ではなく「ゲームのルールの書き換え」による権力掌握である。
最近客観的な情報(ビット数)はありえるか、とか多分似たようなことを考えてた
フッサールに依るならば、真の(主観を超え出た)客観という考え方そのものが背理であり、ただ主観の間に「妥当」が生ずるのみ。そういうものを我々は「客観」と呼んでいるに過ぎない。
主観的主観(俺はこう思う)と主観的客観(俺はみんながこう思っていると思っている)があるんやろね
“多くの場合、これらの不明瞭な言葉を議論で使うことは、すれ違いやマウンティングのない健全な議論には資さないことが多い”
言葉を使って思弁してる時点で。言葉は抽象化されているので主観による差異が生じるが言語体系という基軸化も成している。存在や物理法則の様に差異が少ない物は客観的に扱える。価値は基軸化もするが差異が大きい
金、と書きに来たのに自分より発想が底辺のみなさんに先を越された
「価値観がひとそれぞれだという事実からは、〈価値はひとそれぞれだ〉という主張を導けない」という言明から「価値はひとそれぞれではない」という主張は導けない。
まあ価値は客観の中にしか存在しないといい切っても良いと思う。客観を無視した主観はいずれ子孫を残せず滅ぶのだ。
価値観について客観性のある指標を矛盾なく定義できたところで、価値観がひとそれぞれである以上、あんまり意味がないと思うんだ。それに価値観でしかない問題を客観性っぽいもので強弁する問題の方が深刻だと思う。
なんの留保もなく「客観的」という言葉を使う人には気をつけたほうがいい…のは確かに
まず最初に疑問を持たないな、そこ。価値観と価値は全く別物なのに
それは客観性ではなく、ヒトであるという共通性によって生まれる価値判断。
「価値に客観性がある」というお約束を信じる(信じるふりをする)というのが文明社会の一員になる条件で,それを否定する人ははじき出されてるのでは
単に価値と言っても例えば地球単位で信じられている価値(金とか宝石)からごく一部の人で信じられている価値(コレクターズアイテム)とか個人レベルまでグラデーションがあるから価値という一言で説明はできなそう
いい友達だな
ジャムおぢさん騒動(ヤマトで送った母手製のジャム瓶が破損し「このジャムは世界でただ一つなので俺には最低でも600万円の価値がある」と600万円請求したおじさん)を思い出す。客観性のある価値は市場価格なのよねぇ
「それに価値がある(ない)という信念」を持った人は相手にするのがだるい。客観的価値がある(ない)ということを前提に論理展開してきていて、しかも多くの場合そこに自覚的だが無視して強弁しようとする。
擦り合わせの済んだ価値は客観性がある。例えば紙幣の価値。でも擦り合わせの済んでない物、例えば新発見された鉱物の価値には客観性はない。ダイアモンドより価値が出るかもしれないし何の価値もないかもしれない。
“アイスのMOWよりもスーパーカップのほうが好きというひとはかなり変”
スーパーカップの方が好きな人も多いから、例題としては不適では?
それ以前の問題として「価値観は人それぞれ」という言葉をディスコミュニケーションの言い訳に多用する奴ほど、信じた者に全幅の信頼を寄せ過ぎ(些細な批判も許さない)ていて、その態度が自己矛盾を晒してんだけどな
哲学が言葉遊びに終始する好例。人間社会には、場面場面に客観性がある「ということにする」か「しない」かの微妙なすれ違いがあるだけ。実在性の話を始めると、言葉という不完全なツールを弄ぶだけの陥穽にハマる。
“主観的”に対応させたいのだろうけど、価値というワードには“客観的”ではなく“普遍的”のほうがマッチするのでは。
"あそこに富士山があるかどうかは、ひとそれぞれではないのだ。"お、反カント主義者だな!
カゲロウ山を思い出した
そもそも、人間が価値を決めているのであり、人間が絶滅したら価値を決める主体がなくなるので、価値は存在しなくなります。つまり、客観的な価値は存在しないと思います
*普通は*って、よく言ってしまう自分に、情けないなぁと思うことはある。
牧場しぼり派のワイ、高みの見物。
価値観の相違は逆説的に普遍妥当性を掲げる価値観が存在する条件であるがその相違の事実が価値の妥当性を否定することは不可能である
あとでよむ
客観性のある価値観を作ったから「価値観はそれぞれ」という事象を確認出来るんです
価値とは評価されて成り立つもの。主観的評価と客観的評価は共存する。色の場合は価値の問題ではなく認識。色は共通認識が成立するから情報として用いられる。赤より青は色温度が高い。所謂コンテクスト次第。駄文。
脳が赤シート眼鏡をかけていないという確証はない
「論争が可能だ」を認めるならば、むしろ「価値は人それぞれだ」が導かれると思うのだけれど。論争が可能ならば結論が一意に定まるはずだ、という立場なのか?(哲学者であるにもかかわらず?)
間主観性というタームを使って欲しかった気はする
独立して存在する価値なんてあるか?何者とも関連なく価値のあるものがあると?
あなたも私も存在し、同じ法則に縛られているので何か共通となる価値観を見出せるはずということを出発点にするしかないのであって、それすら疑うことも論理的には可能だがそうなれば一切の議論が始まらないだけの事
例えば日本円は売りたい人もいれば買いたい人もいるからその価値は主観だけど売りたい人のほうが多いと客観的に価値は下がる。哲学は無意味でオナニーみたいな学問だ。
"たとえば、アイスのMOWよりもスーパーカップのほうが好きというひとはかなり変だが"はぁぁぁぁ!?何この根拠ゼロの唐突なdis!?スーパーカップが何をした!?チョコミントが最高に美味しいんだが!?!?!?ばっっ
問いの向きが逆。それと資本主義と貨幣経済を同一視しないように
神経科学的に見れば価値は報酬の予測なのだから、刺激に対して同じ報酬を感じる種の間では共通と言えるでしょう。予測性能はその人の知性と経験によるけどな
友人とこんな問答をしていると思うとゾッとする。これは私の個人的な感想です。
客観性のない価値のことを価値観と表現すると定義すれば、客観性のある価値と見なされたものだけが価値ということになる。とは言え真なる客観性というものは存在するのだろうか。
価値観というものは、地球に住んでるとか、日本で生まれ育ったとか、YouTube見てるとかとかで、ある程度平準化されたものの中の微妙な差異でしかないのだと思うけど、それゆえに大事にすべきものだと思う。
「客観的」は英語で 「objective」で、これはオブジェクトの相互作用で記述するという意味。物理現象は誰にでも同じように働くので Objective には人間の主観は入らない。赤や価値を Objective に言うなら何かで比較してな。
無いよ。
「好き嫌い」と「良し悪し」は別物(として扱われているようだ)→その違いは規範性の有無ではないか→規範性があるならひとそれぞれではないだろう、みたいな話なんだと思っている。
MOWはアイスクリームでスーパーカップはラクトアイスだからな… 『その理由づけで戦っている点だ。価値判断は理由づけできるのであり、そのことによって論争も可能になっている』
複素数の実部を見て実数だと言われているような感覚になる
「価値」っていう概念自体が好きではない
“まず「客観的」という語によって自分が何を意味しているかを明確にするべき” /客観性は資本主義の中では「換金性」これおもしろいなあ
このエントリはおもしろい(主観)
世間的には「価値=自分の価値観尺度に照らしたスコア」みたいな意味だと思うけど、文中でいう「価値」というのは尺度に乗せる前の物理量みたいなもんなのかな?例えば富士山の高さとか光の波長のような
スーパーヴィーニエンスの話をしたほうが楽そう
赤や黄色は危険を想起させて、青や緑は安らぎを想起させて、という快/不快は辿ると人間の原風景や暮らし方に辿り着く気がする。価値観は先天的、後天的にも遺伝してるだろうし、この規模だと客観的とも言えそうね
唐突に「標準」という言葉が出てきて、ぼんやりした例示しかされないのがもやる。それこそが客観の核なんだろうから、きちんと定義すべきでは
妥当性という言葉も復権されてよい
日本人なんて特に同調圧力の国だからそれぞれの価値観どころか個性すらない。
コメントが勉強になる。
そもそも価値とは受け手の感じるもの(主観)。物の売り買いで成立した価格(客観)とは違う。信号の赤色についても牛が相手ならば突進の合図になるだろう。
“さて、本エントリの中心的な主張は以下だ。 価値観がひとそれぞれだという事実からは、〈価値はひとそれぞれだ〉という主張を導けない。”
道徳は正誤をとえるかというと、モノによってはそう簡単ではない。/ある表現は社会的に許されるかといった論点は、SNS上では主として恣意的な解釈や嫌悪感を元に主張される。
「生きる事に価値があるとみなすかどうか」が出発点になる気はする。そこが食い違ったら何の価値も共有できなさそう。
え?哲学者でも人文学者でもそうでない状況で一般論で話すとき、んなこと言われて「フンフン」ってスルーできないと生きづらいで。「真理は我にこそ有り」って言われたら大抵怒られるwwwアイスがそうやwww
なぜ価値観はひとそれぞれなのに価値に客観性があるといえるのか - netenete.
「主観的」を単なる悪口や思考停止のツールにせず、論争可能性や理由づけのレイヤーで捉えるのめちゃくちゃ腑に落ちたわ
客観性は、資本主義社会に於いては「換金性」と言い換えることができる。「それナンボの価値がありますの」たとえばロマンとは、実用の役に立たないものを競って値付けるオークションで、片方が諦めた金額の事である
“アイスのMOWよりもスーパーカップのほうが好きというひとはかなり変だが” なんでや!
"相対主義とは、「何が赤くて何が赤くないかはひとそれぞれだ」という立場" 言葉が発明されて以来の約束事に従わないのなら、一人で別の体系を作ってはいかがだろうか。
物理的特性から識別される"A"という事象が、『赤』とsymbol groundingされているとき、『赤』という表象の指す事象の範囲が主観的だからといって、"A"の物理的特性まで遡及的に主観的になるのではない
それぞれの価値観が完全に独立かつランダムならともかく、けっこう近しいものが多くある。そういう実際の在り方を勘案しようねってことかなあ。
タイトルだけ見て「なにっ?」と思ったけど本文を読んだら納得した。/ちなみにアイスは爽派
軸を揃えれば客観性は問えるようになるが、軸を合わせようという気持ちがない、そもそも軸の分類基準自体が違う、単一軸ではなく多軸で考えていてしかも処理手順が違う、とかのあたりに興味があるな。
最近の文献よりプラトンのイデア論読みなよ
唐突にディスられるスーパーカップ派です。
「客観的・主観的という言葉を使うのをやめてみる」が唐突過ぎ、とつぜん終わり過ぎで腑に落ちない。実例としてこの記事全体を、客観的・主観的という言葉を使わずに書き直してみて欲しい
こういう話って哲学として語られるけど、結局は有機生命体とか神経とかの話ではないの?価値観に大きく影響するだろう快不快の感情も、進化を通じて獲得された普遍性をもつヒトの特性なのでは?
自説に都合よく言葉の定義を取っている様に見える、例えば文中の定義からは「「価値なんてひとそれぞれだ」という判断には客観性がある」と言えてしまう(理由づけのレベルで論争の余地がある事を自身で示している為)
アタクシ的価値観と価値の判断。アタクシは釜揚げシラスが苦手なので100円でも買わないが、家族が好きなら家族の為に1000円出して買う。あと、バニラのスーパーカップは買わんかもしれんが、紅茶やレアチーズのは買う
リーディングリスト、買いに行くリスト入り。最近気になっている方面の話だ。入門していきたい。
「これが赤である」と宣言してある程度の共通見解は得られるのだが、価値としての「赤」は共通定義されない。どこまでいても価値は主観的なものである。
価値はとりあえず金で測るものでは
論証になる例が雑すぎる
赤の定義としての光の波長などと、赤く感じることは別なのではなかったかな。赤い光をセンサーで判定して白黒のモニタで結果を表示させたら、赤さについて何かを語れるか。
客観性だから、一切のブレがない客観という意味ではないんでしょ。だったらある色を見て、「多くの人が赤だと主観で判断する」と赤色という客観性を持つのでは。
色覚多様性をみても、色の例は主観的な経験にも、社会的・物理的な基準を対応させることができる場合があることしか証明していない。価値についていえば、色のように波長は存在しない
色の話になると光学センサーから読み取ってRGBがやれそれホニョホニャでとかから客観性が~とか思ったから誰か理屈捏ねてくれ
そもそも価値観が人それぞれでなければ「客観性とは何か」という問いそのものが発生しない(ひいては価値観という概念すら怪しくなる)のだからあたりまえ。
MOWはアイスクリーム、スーパーカップはラクトアイス(定義で殴る派)
「美に関するな価値判断は理由づけで決まる」というのは、ブルデューが「象徴闘争」と呼んだものであり、これは「同一ルールの中での客観的な論争」ではなく「ゲームのルールの書き換え」による権力掌握である。
最近客観的な情報(ビット数)はありえるか、とか多分似たようなことを考えてた
フッサールに依るならば、真の(主観を超え出た)客観という考え方そのものが背理であり、ただ主観の間に「妥当」が生ずるのみ。そういうものを我々は「客観」と呼んでいるに過ぎない。
主観的主観(俺はこう思う)と主観的客観(俺はみんながこう思っていると思っている)があるんやろね
“多くの場合、これらの不明瞭な言葉を議論で使うことは、すれ違いやマウンティングのない健全な議論には資さないことが多い”
言葉を使って思弁してる時点で。言葉は抽象化されているので主観による差異が生じるが言語体系という基軸化も成している。存在や物理法則の様に差異が少ない物は客観的に扱える。価値は基軸化もするが差異が大きい
金、と書きに来たのに自分より発想が底辺のみなさんに先を越された
「価値観がひとそれぞれだという事実からは、〈価値はひとそれぞれだ〉という主張を導けない」という言明から「価値はひとそれぞれではない」という主張は導けない。
まあ価値は客観の中にしか存在しないといい切っても良いと思う。客観を無視した主観はいずれ子孫を残せず滅ぶのだ。
価値観について客観性のある指標を矛盾なく定義できたところで、価値観がひとそれぞれである以上、あんまり意味がないと思うんだ。それに価値観でしかない問題を客観性っぽいもので強弁する問題の方が深刻だと思う。
なんの留保もなく「客観的」という言葉を使う人には気をつけたほうがいい…のは確かに
まず最初に疑問を持たないな、そこ。価値観と価値は全く別物なのに
それは客観性ではなく、ヒトであるという共通性によって生まれる価値判断。
「価値に客観性がある」というお約束を信じる(信じるふりをする)というのが文明社会の一員になる条件で,それを否定する人ははじき出されてるのでは
単に価値と言っても例えば地球単位で信じられている価値(金とか宝石)からごく一部の人で信じられている価値(コレクターズアイテム)とか個人レベルまでグラデーションがあるから価値という一言で説明はできなそう
いい友達だな
ジャムおぢさん騒動(ヤマトで送った母手製のジャム瓶が破損し「このジャムは世界でただ一つなので俺には最低でも600万円の価値がある」と600万円請求したおじさん)を思い出す。客観性のある価値は市場価格なのよねぇ
「それに価値がある(ない)という信念」を持った人は相手にするのがだるい。客観的価値がある(ない)ということを前提に論理展開してきていて、しかも多くの場合そこに自覚的だが無視して強弁しようとする。
擦り合わせの済んだ価値は客観性がある。例えば紙幣の価値。でも擦り合わせの済んでない物、例えば新発見された鉱物の価値には客観性はない。ダイアモンドより価値が出るかもしれないし何の価値もないかもしれない。
“アイスのMOWよりもスーパーカップのほうが好きというひとはかなり変”
スーパーカップの方が好きな人も多いから、例題としては不適では?
それ以前の問題として「価値観は人それぞれ」という言葉をディスコミュニケーションの言い訳に多用する奴ほど、信じた者に全幅の信頼を寄せ過ぎ(些細な批判も許さない)ていて、その態度が自己矛盾を晒してんだけどな
哲学が言葉遊びに終始する好例。人間社会には、場面場面に客観性がある「ということにする」か「しない」かの微妙なすれ違いがあるだけ。実在性の話を始めると、言葉という不完全なツールを弄ぶだけの陥穽にハマる。
“主観的”に対応させたいのだろうけど、価値というワードには“客観的”ではなく“普遍的”のほうがマッチするのでは。
"あそこに富士山があるかどうかは、ひとそれぞれではないのだ。"お、反カント主義者だな!
カゲロウ山を思い出した
そもそも、人間が価値を決めているのであり、人間が絶滅したら価値を決める主体がなくなるので、価値は存在しなくなります。つまり、客観的な価値は存在しないと思います
*普通は*って、よく言ってしまう自分に、情けないなぁと思うことはある。
牧場しぼり派のワイ、高みの見物。
価値観の相違は逆説的に普遍妥当性を掲げる価値観が存在する条件であるがその相違の事実が価値の妥当性を否定することは不可能である
あとでよむ
客観性のある価値観を作ったから「価値観はそれぞれ」という事象を確認出来るんです
価値とは評価されて成り立つもの。主観的評価と客観的評価は共存する。色の場合は価値の問題ではなく認識。色は共通認識が成立するから情報として用いられる。赤より青は色温度が高い。所謂コンテクスト次第。駄文。
脳が赤シート眼鏡をかけていないという確証はない
「論争が可能だ」を認めるならば、むしろ「価値は人それぞれだ」が導かれると思うのだけれど。論争が可能ならば結論が一意に定まるはずだ、という立場なのか?(哲学者であるにもかかわらず?)
間主観性というタームを使って欲しかった気はする
独立して存在する価値なんてあるか?何者とも関連なく価値のあるものがあると?
あなたも私も存在し、同じ法則に縛られているので何か共通となる価値観を見出せるはずということを出発点にするしかないのであって、それすら疑うことも論理的には可能だがそうなれば一切の議論が始まらないだけの事
例えば日本円は売りたい人もいれば買いたい人もいるからその価値は主観だけど売りたい人のほうが多いと客観的に価値は下がる。哲学は無意味でオナニーみたいな学問だ。
"たとえば、アイスのMOWよりもスーパーカップのほうが好きというひとはかなり変だが"はぁぁぁぁ!?何この根拠ゼロの唐突なdis!?スーパーカップが何をした!?チョコミントが最高に美味しいんだが!?!?!?ばっっ
問いの向きが逆。それと資本主義と貨幣経済を同一視しないように
神経科学的に見れば価値は報酬の予測なのだから、刺激に対して同じ報酬を感じる種の間では共通と言えるでしょう。予測性能はその人の知性と経験によるけどな
友人とこんな問答をしていると思うとゾッとする。これは私の個人的な感想です。
客観性のない価値のことを価値観と表現すると定義すれば、客観性のある価値と見なされたものだけが価値ということになる。とは言え真なる客観性というものは存在するのだろうか。
価値観というものは、地球に住んでるとか、日本で生まれ育ったとか、YouTube見てるとかとかで、ある程度平準化されたものの中の微妙な差異でしかないのだと思うけど、それゆえに大事にすべきものだと思う。
「客観的」は英語で 「objective」で、これはオブジェクトの相互作用で記述するという意味。物理現象は誰にでも同じように働くので Objective には人間の主観は入らない。赤や価値を Objective に言うなら何かで比較してな。
無いよ。
「好き嫌い」と「良し悪し」は別物(として扱われているようだ)→その違いは規範性の有無ではないか→規範性があるならひとそれぞれではないだろう、みたいな話なんだと思っている。
MOWはアイスクリームでスーパーカップはラクトアイスだからな… 『その理由づけで戦っている点だ。価値判断は理由づけできるのであり、そのことによって論争も可能になっている』
複素数の実部を見て実数だと言われているような感覚になる
「価値」っていう概念自体が好きではない
“まず「客観的」という語によって自分が何を意味しているかを明確にするべき” /客観性は資本主義の中では「換金性」これおもしろいなあ
このエントリはおもしろい(主観)
世間的には「価値=自分の価値観尺度に照らしたスコア」みたいな意味だと思うけど、文中でいう「価値」というのは尺度に乗せる前の物理量みたいなもんなのかな?例えば富士山の高さとか光の波長のような
スーパーヴィーニエンスの話をしたほうが楽そう
赤や黄色は危険を想起させて、青や緑は安らぎを想起させて、という快/不快は辿ると人間の原風景や暮らし方に辿り着く気がする。価値観は先天的、後天的にも遺伝してるだろうし、この規模だと客観的とも言えそうね
唐突に「標準」という言葉が出てきて、ぼんやりした例示しかされないのがもやる。それこそが客観の核なんだろうから、きちんと定義すべきでは
妥当性という言葉も復権されてよい
日本人なんて特に同調圧力の国だからそれぞれの価値観どころか個性すらない。
コメントが勉強になる。
そもそも価値とは受け手の感じるもの(主観)。物の売り買いで成立した価格(客観)とは違う。信号の赤色についても牛が相手ならば突進の合図になるだろう。
“さて、本エントリの中心的な主張は以下だ。 価値観がひとそれぞれだという事実からは、〈価値はひとそれぞれだ〉という主張を導けない。”
道徳は正誤をとえるかというと、モノによってはそう簡単ではない。/ある表現は社会的に許されるかといった論点は、SNS上では主として恣意的な解釈や嫌悪感を元に主張される。
「生きる事に価値があるとみなすかどうか」が出発点になる気はする。そこが食い違ったら何の価値も共有できなさそう。
え?哲学者でも人文学者でもそうでない状況で一般論で話すとき、んなこと言われて「フンフン」ってスルーできないと生きづらいで。「真理は我にこそ有り」って言われたら大抵怒られるwwwアイスがそうやwww