探してる自分に酔うてる自分、な人が多いんじゃないかな。
皆真面目な事を言ってるのに私の頭には「粗忽長屋」しか出てこない。「探してる自分は確かに俺だが、探されてる自分は一体誰だ?」
地味で陳腐で面白みも斬新さも無いコツコツ積み上げ式の成長を、「本当の自分」とか都合の良いものを見つけるだけでショートカットしたいっていう裏技・チート願望が「自分探し」の正体だったりすんのかな。
キモいな
探しものは何ですか?見つけにくいものですか?カバンの中も 机の中も 探したけれど見つからないのに まだまだ探す気ですか?それより僕と踊りませんか?夢の中へ 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか? Uh-uh-uh~
「自分探しだ!?自分はそこにいるじゃねーか!」っていうなんかの漫画の名言があったな。
うーんん…。「無記」。 アヴィヤーカタ。
公案
完全体の山田と完全体じゃない山田
僧侶なんて宗派によらず金とセックスしか考えてない自分本位の獣ばっかりやで、もっともらしいこと言われて騙されないように
自分探しは比喩であり実際やってるのは自分という存在の地固めだからここでは探している自分=探されてる自分ですねー って返しなよ
「自分探され」っていうジャンル爆誕。
ブートストラップ。
自分探しだと?お前はそこにいるだろうが!! 懐かしいな。
"養老先生が言うような「西洋近代的自我」の枠組みにはまると、固定された“私”を必死で作らなきゃいけないという焦燥が生まれるが、その焦燥そのものが、自我を一枚構造で理解してしまっていることから来ている。"
なんとなく量子力学の話かなと思ったら違った。
寝食を忘れて没頭するようなことはなんですか
じゃあ俺、探される方やりまーす👋
禅宗は問答やるからなぁ。この辺はスキルある坊さん多いだろうな。
意味もわからなかったのに絶句するなよ
自分探しって言葉のあやで、実際やってることは自分の構成要素たりえない全てに違うを突きつけて回った結果で残ったものが自分であろうみたいな話だと思っていたが。
斉藤和義の「幸福な朝食退屈な夕食」の歌詞の一節、「探している人探されてる人このままではこのままですでもそのままが1番かもよ」って禅的な思想だったのか。
それではその屏風から出してください
よくそんな恥ずかしい相談できたな
禅僧も深いことを言ってるようで実際には役に立たないクソバイス飛ばすもんなんだな
突然自分と全く同じ造形の人物から探してたんだと言われる方の身にもなってほしい
「そんなものは無い」の方が8文字で済んでお得だよ
現状に不満があるんだろう。
シュレディンガーの猫みたいなもので、なんでその2択なのっていう(´・_・`)そもそも箱に入れておらず別のところにいたりする
( ゚д゚)ハッ!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どゆこと?
たかが言葉遊びにひっかかってハッとしてんじゃねーよ。本でも読んでた方がいいぞ。娯楽だから面白いし、その中から教訓を探す方がまだ楽しい。
そりゃ探してるんだから探されてるほうが本物だろ普通に。
探している自分は今の自分で探されている自分は未来の自分でしょう。今日の自分と明日の自分はどちらが本当の自分なのかな?
20歳は自分を探し、80歳は自分を探されている、的な高齢者の自虐ネタの話かと思ったら真面目な話だった。
禅僧の言葉はすごくいい言葉だと思ったけど、ピンときてない人が多いのが意外。要するに「自分とは何?」と考えることなく、どこかにいる幻想の自分と希薄化した今の自分がすべて自分だと気づくことから始まる
この構造を崩してみたらどうなるんだろう...?
わたしがわたしをみつめてました。なんで?なんで?ふたりいる?うそ!
拙僧が殺めたのだ。
探している自分になりたいんであって、どっちも俺じゃ
作麼生!説破!
自分探しの自分とはそういう意味じゃないんで。
FAIRCHILD「探してるのにぃ」の歌詞に「探されたいわたし」が出てくるのはそういうことかYOU…!
自分と国家・権威を一体化するのがネトウヨ
ちょっと何言ってるかわからない
“川の流れを見ながら、同時に川の中にいる感覚というか。”
「自分探し」って基本的に探しているのは「理想の自分」であって、探している自分=認めたくない欠点を含んだ自分自身で、探している自分=理想像。シンプルに向上心があって善きかなと思う。
ドッペルゲンガーの話?それとも世界には自分のそっくりさんが3人いるらしいという話?私はまだどちらとも出会っていないのよね。でもドッペルゲンガーの話を聞くと、明らか向こうは探しに来てるよね。
諸法無我
ここに未だ還らない彼が僕自身だと気付いたのは今更になってだった…ってコト?!(全然違う)
探されている「本当の自分」という客体があるのではなく、「本当の自分」を探している主体こそがすなわち「本当の自分」なのではないか。カメラは自らを捉えることができない。
「夢の中へ」の歌詞を書こうと思ったら、すでにブコメで書かれてたので省略。僕は斉藤由貴verが好きです
感覚や記憶を束ねるラベル、ドーナツの穴とか円の中心のような便宜上の仮構であって、それだけ取り出せるような実体があるわけじゃない、というのがいまの考え
つまり「絶句している自分」もいるということに気付いたってわけだ。これ、エンドレス
探してる対象の理想の自分と現在の自分が一致したのが本当の自分と思いたいのだろうけど、実際そううまく行くとは限らず。人間は当人の自我だけでなく人間関係や環境(何なら先祖や故郷)も含めて成立してるのだなあ
探すのはねこです。探してもらえる喜びがあります。選ぶのもねこです。
「粗忽長屋」か☺️
自分探しってなにも無いからなにかに成りたくて探すものでしょ。小さい頃のプロ選手に成りたいと同じ。だから基本は探してる自分だけど稀に探されて自分の人がいる。
アカウント「ねる子」は絵が上手い友人二人のエピソードで昨日バズり、今日は禅僧との対話でバズるのか。 https://posfie.com/@taimport/p/aGkeoaz
私は「自分探し」をしたいと思ったこともなかったので、探されている自分、というのがよく分かりません。
カウンセリングでも、「悩んでいる自分」を否定せず、それも含めて自分だと受容する考え方があるよね。人気ブコメに「自分探しは愚か」みたいなことを言いたげなコメントがいくつかあるけど、それもまた違うのよ。
探されている自分が本当の自分なら、それは誰を探しているか知らない、出会えたとしても本当の自分だと分からないということなので見つけられる日は来ない。探している自分が本当の自分なら既にそこにいる。
自分探しって「自分のあるべき姿・ありたい姿」を探してるんだから、それはまだ自分ではない。坊主の頓知に絶句してる暇があったら探そうぜ自分。
「僧侶なんて」云々にスターついてるけど、現代の僧侶の腐敗と禅宗の教え関係なくね?
自我が強く主張してくるタイプだからか、「自分探し」って何をするのか分からなかったけど、『ぼくをさがしに』って絵本で何となく分かったような気がした。けど、何も分かってない気もする。何なんだ「自分探し」。
禅僧の問いは示唆的で良いんだがそれで迷いが晴れるわけもなく、太宰治の「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」みたいな不誠実な誤魔化しじゃねえのか…?と訝しみたくなる。
多分仏教は"確固たる自我"の存在に否定的立場だと思う。諸行無常、諸法無我。
これは必要としている人だけに届けばいいのだと思う。届かなかった人がことさらに腐すものではない
十牛図については山田無文老大師の一般有志向け講義がお勧め。しかし残念ながら一、二図の録音が無い。できればそこからじっくりお話を伺いたいところ。臨済録講義もいいけど難しい。https://bit.ly/47XwrXM
ここではないどこかへ行きたいのよ〜
言うてあるはないと同じなんだから探してる自分も探されてる自分も同じと見えるだろ。そこに境界はない。ポリエステル三斤か
その実 両方がかけがえのない自分♪
坊主がくだらねえ説教してんじゃねえ
いつか自分が迎えにきてくれる
自分探しとか、何者かになりたいとか、そういうこと言う人間しょうもなくて嫌いなんだよな
それが禅問答の成果ですかしょうもな
「日本を取り戻す」と言ってる貴方が住んでいるのは何という国ですか?
私以外私じゃないの 当たり前だけどね
我思う、故に我あり。なりたい自分も私で有り、探す自分も私で有る。何処に居て何で有ったとしても自分。普遍であり、変化し続ける存在でも有る。
公案出されてるやん
中身がないからこそ自分探しという行為に取り憑かれるのだから、探されている自分など存在しないわけです。また、探すという行為自体には自我の痕跡が認められる。則ち探す方が本当の自分であろう。
絶句のとこがわかんないでござる、、、
そんなん探してる方で即答やろ。探されてる自分などいない。自分探しってのは人間を探すことやない、自分のあり方を見つけることやぞ。
本来の日本の仏教は宗論をバチバチやって問答を繰り返して結論にたどり着いたら新宗派を立ち上げて世に問う、そういう物だったんだよなあ。葬式仏教にしがみついてないで、もっとコーチングとかやろうよ。
今どき素で自分探しなんて言葉使うやつおんのかね。20年前くらいに流行った用語やろ。当時世代以外意味不明やと思うぞ。
みんな納得してるけど、これって禅ではなくて、荘子の胡蝶の夢というやつでは?
絶句したのに意味がわかってないってところで笑ってしまた
そいつはこんにゃく屋じゃなかろうか?
メノンのパラドクス。探しているものを知っているなら探す必要はないし、探しているものが何か知らなかったら、それを見つけてもそれを探していたとは分からない。自分なんてものは出会ってきた人の束でしかない。
自分が考えることを止めるのは別にいいとして、他人にも止めさせようとする人のなんと多いことか
自分探しは青い鳥が思い浮かぶけど、正直答えを提示されても納得できるかが問題なので……
僕は僕を探し当てたから、そりゃ当然「探されている自分」が本当の自分だったよ。
どんな日常を過ごしていると禅僧に相談する機会に恵まれるのだろうか。そんな人生を歩みたかった。
自分探しなんて変な言葉だと前から思ってた。その迷走している自分こそが、そのまま探している自分だろう、と。
元ネタは禅宗の公案として最も有名な「隻手音声(せきしゅおんじょう)」。両手を打ち合わせると音がするが、片手ではどんな音がするか?という問い。
「主語としての私」と「述語としての私」について語るミステリー作品があったこと、それを読んだ当時の自分もまた絶句したことを思い出す。人生の一時期に「私」のついての言葉を必要とする人は、やはり居るのです。
ある意味羨ましい。そんな事言われたら「本当のあなたって何?」って聞き返したくなる。
粗忽長屋のコメント、ズラしても外してもいないのでは。まさにそれってことで良いと思います。
青アカウント
探しているといっているのに言い換えて頓知にするのは底意地が悪い。自分の足跡を追うような田植えの作業のような、成果を認識する事で功績の少なさから来る不安を解消したいものだろうと想像できるものだろうに。
なんかめんどくせーな。風呂入って寝ろ!
いつも思うし同じことを言う。探さなきゃいけないほど自分を見失ってるなら他にやることあんだろ。単に暇で何もやる事がないのを言葉遊びで誤魔化してるんだろ。
タイムレス篠塚の(友達の)ギャグ「自分を見失ったサッカーファン オーレ〜オレオレ誰〜」じゃん
愛されるよりも愛したいマジで
観察できるもの知る事ができるものは私ではない。私の右目で私の右目を見ることができないように。徹底的に観察して私でないものを外していくと何が残る?私は在る事は確実だけど体も感覚も思考も感情も私ではない。
自分探しは「自分」を探す事じゃない事すら分からずに探してるのなら、そらこんな浅いコメントでハッとするだろうよ
どちらも自分です。つまりは新しい自分を探しておりますれば、より正確には、自分の可能性を探しているのです。
トップブコメのここで粗忽長屋と言う単語が出てくる教養に嫉妬
逆向きのオリエンタリズムというべきか、東洋の神秘こそ西洋の間違いを解決できるという偏見ですよね。デカルトの時代から、その問題は西洋で問われ続けてますよね。
結局、安定よな。どこに重心おくと自分が安定するか。安定すると俯瞰できるようになる不思議。
ボク、そんな難しいこと考えてないにゃ〜。でも、自分探しは楽しいおやつ探しみたいにゃ?見つかるかな?わくわくするにゃ!
俺はどちらかというとヒンドゥー教の真我に惹かれる。
「探しているのは5年後の自分で、両方とも本当の自分です。」って答えはどう?
ビッグコミックで載ってたフォルトゥーナ(全2巻で完結)を読んで欲しすぎる。2巻がまさにそんな哲学ターン。めっちゃ面白かった。神羊弱虫さんの作品。(一緒に乗ってる 読み切りも面白い)
知らず知らず歩いてきた細く長いこの道
俺は生まれて50年以上一度も「自分探し」をしたことがないが、多分それは俺が比較的恵まれた環境で比較的に自由に生きてきて今の自分がまさに自分そのものだと感じているからなのかもしれない。
「自分探し」って要は別の生き方を模索してるということ。「どっちが本当の自分か」なんてただの言葉遊びだと思う。
自分探し=あてもなく海外を放浪すること、という認識だった時に面接で「この空白期間は自分探しをしていたんですね」「いいえ違います(日本にいました)」みたいな妙なやりとりがあって困ったことある
本当の自分は無い。
彼(旅人)が僕自身だと気づいたのは今更になってだった話?
一応、西田幾多郎の哲学(主客未分がどうのとか純粋経験がどうのとか西洋哲学の主観と客観との対立前提を批判がどうのとか)は禅がルーツとされているというのはこういうところらしいけど、でもさっぱり理解できない
深いですね。おれはモテモテのヤリチンの自分をずっと探しててすっかり迷子なんですが。
この「自分探しという戯言」、昔から「なに言ってんだ、自分は自分だろうが、今ここにいてあれこれ考えたり感じたりしてる俺以外に俺なんかいるかよ、多重人格かよ」と思ってる。自分探しとか言うやつは皆オカシイ。
自分なんて周りとの関係性で規定されるものじゃないのと思ってる それ以外は好き嫌いと快不快
チルチルミチルの青い鳥。内部噴出か外部誘引、または共鳴
いい形で公案飛んできたんやなと思った。まとめ後半のピンと来てない人の中に最初から解ってたり、先に行ってる人がいる。
漫画家、島本和彦センセイが絵を担当したゲームで「自分探しだと? オマエはそこにいるだろうが!」ってフレーズあったなー
自分の夢を見ている時の自分は自分であるが、自分が蝶になった夢を見た時の自分は蝶なのか人間なのか?と荘子みを出したい
「自分」など存在しない、関係性で発光する信号にようなもの。動くニューロンとシナプス的な。それでも位置は測量して方向性はアジャストしないといけない。
自分探しをしている自分が大好きな承認欲求マシマシな自分こそが本当の自分。
誰が言ったかなんて関係なく考えたいものですな
禅宗の「倩女離魂」の問答を思い出させるエピソードやね。
ポルノグラフィティのアゲハ蝶のやつ
どちらかというと探している自分は外側にいるのですか、あるいは内側にいるのですかと問うている気がする。じつはどちらにも自分という虚像は実在しないというのが禅では。
なるほど
探してもしょうがないということに気づくには、一回探してみるのも有効だろうから、否定するようなもんでもない。
何言ってんだよ
若い頃に自分探しするほど余裕があるか?詐欺師が「見えます。アナタ、自分探ししてますね」って具合に使うもんだろ?
昔、ある禅僧に「自分探しをしている」と相談したら、「探している自分と、探されている自分、どっちが本当のあなたですか?」と問われて絶句したことがある
探してる自分に酔うてる自分、な人が多いんじゃないかな。
皆真面目な事を言ってるのに私の頭には「粗忽長屋」しか出てこない。「探してる自分は確かに俺だが、探されてる自分は一体誰だ?」
地味で陳腐で面白みも斬新さも無いコツコツ積み上げ式の成長を、「本当の自分」とか都合の良いものを見つけるだけでショートカットしたいっていう裏技・チート願望が「自分探し」の正体だったりすんのかな。
キモいな
探しものは何ですか?見つけにくいものですか?カバンの中も 机の中も 探したけれど見つからないのに まだまだ探す気ですか?それより僕と踊りませんか?夢の中へ 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか? Uh-uh-uh~
「自分探しだ!?自分はそこにいるじゃねーか!」っていうなんかの漫画の名言があったな。
うーんん…。「無記」。 アヴィヤーカタ。
公案
完全体の山田と完全体じゃない山田
僧侶なんて宗派によらず金とセックスしか考えてない自分本位の獣ばっかりやで、もっともらしいこと言われて騙されないように
自分探しは比喩であり実際やってるのは自分という存在の地固めだからここでは探している自分=探されてる自分ですねー って返しなよ
「自分探され」っていうジャンル爆誕。
ブートストラップ。
自分探しだと?お前はそこにいるだろうが!! 懐かしいな。
"養老先生が言うような「西洋近代的自我」の枠組みにはまると、固定された“私”を必死で作らなきゃいけないという焦燥が生まれるが、その焦燥そのものが、自我を一枚構造で理解してしまっていることから来ている。"
なんとなく量子力学の話かなと思ったら違った。
寝食を忘れて没頭するようなことはなんですか
じゃあ俺、探される方やりまーす👋
禅宗は問答やるからなぁ。この辺はスキルある坊さん多いだろうな。
意味もわからなかったのに絶句するなよ
自分探しって言葉のあやで、実際やってることは自分の構成要素たりえない全てに違うを突きつけて回った結果で残ったものが自分であろうみたいな話だと思っていたが。
斉藤和義の「幸福な朝食退屈な夕食」の歌詞の一節、「探している人探されてる人このままではこのままですでもそのままが1番かもよ」って禅的な思想だったのか。
それではその屏風から出してください
よくそんな恥ずかしい相談できたな
禅僧も深いことを言ってるようで実際には役に立たないクソバイス飛ばすもんなんだな
突然自分と全く同じ造形の人物から探してたんだと言われる方の身にもなってほしい
「そんなものは無い」の方が8文字で済んでお得だよ
現状に不満があるんだろう。
シュレディンガーの猫みたいなもので、なんでその2択なのっていう(´・_・`)そもそも箱に入れておらず別のところにいたりする
( ゚д゚)ハッ!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どゆこと?
たかが言葉遊びにひっかかってハッとしてんじゃねーよ。本でも読んでた方がいいぞ。娯楽だから面白いし、その中から教訓を探す方がまだ楽しい。
そりゃ探してるんだから探されてるほうが本物だろ普通に。
探している自分は今の自分で探されている自分は未来の自分でしょう。今日の自分と明日の自分はどちらが本当の自分なのかな?
20歳は自分を探し、80歳は自分を探されている、的な高齢者の自虐ネタの話かと思ったら真面目な話だった。
禅僧の言葉はすごくいい言葉だと思ったけど、ピンときてない人が多いのが意外。要するに「自分とは何?」と考えることなく、どこかにいる幻想の自分と希薄化した今の自分がすべて自分だと気づくことから始まる
この構造を崩してみたらどうなるんだろう...?
わたしがわたしをみつめてました。なんで?なんで?ふたりいる?うそ!
拙僧が殺めたのだ。
探している自分になりたいんであって、どっちも俺じゃ
作麼生!説破!
自分探しの自分とはそういう意味じゃないんで。
FAIRCHILD「探してるのにぃ」の歌詞に「探されたいわたし」が出てくるのはそういうことかYOU…!
自分と国家・権威を一体化するのがネトウヨ
ちょっと何言ってるかわからない
“川の流れを見ながら、同時に川の中にいる感覚というか。”
「自分探し」って基本的に探しているのは「理想の自分」であって、探している自分=認めたくない欠点を含んだ自分自身で、探している自分=理想像。シンプルに向上心があって善きかなと思う。
ドッペルゲンガーの話?それとも世界には自分のそっくりさんが3人いるらしいという話?私はまだどちらとも出会っていないのよね。でもドッペルゲンガーの話を聞くと、明らか向こうは探しに来てるよね。
諸法無我
ここに未だ還らない彼が僕自身だと気付いたのは今更になってだった…ってコト?!(全然違う)
探されている「本当の自分」という客体があるのではなく、「本当の自分」を探している主体こそがすなわち「本当の自分」なのではないか。カメラは自らを捉えることができない。
「夢の中へ」の歌詞を書こうと思ったら、すでにブコメで書かれてたので省略。僕は斉藤由貴verが好きです
感覚や記憶を束ねるラベル、ドーナツの穴とか円の中心のような便宜上の仮構であって、それだけ取り出せるような実体があるわけじゃない、というのがいまの考え
つまり「絶句している自分」もいるということに気付いたってわけだ。これ、エンドレス
探してる対象の理想の自分と現在の自分が一致したのが本当の自分と思いたいのだろうけど、実際そううまく行くとは限らず。人間は当人の自我だけでなく人間関係や環境(何なら先祖や故郷)も含めて成立してるのだなあ
探すのはねこです。探してもらえる喜びがあります。選ぶのもねこです。
「粗忽長屋」か☺️
公案
自分探しってなにも無いからなにかに成りたくて探すものでしょ。小さい頃のプロ選手に成りたいと同じ。だから基本は探してる自分だけど稀に探されて自分の人がいる。
アカウント「ねる子」は絵が上手い友人二人のエピソードで昨日バズり、今日は禅僧との対話でバズるのか。 https://posfie.com/@taimport/p/aGkeoaz
私は「自分探し」をしたいと思ったこともなかったので、探されている自分、というのがよく分かりません。
カウンセリングでも、「悩んでいる自分」を否定せず、それも含めて自分だと受容する考え方があるよね。人気ブコメに「自分探しは愚か」みたいなことを言いたげなコメントがいくつかあるけど、それもまた違うのよ。
探されている自分が本当の自分なら、それは誰を探しているか知らない、出会えたとしても本当の自分だと分からないということなので見つけられる日は来ない。探している自分が本当の自分なら既にそこにいる。
自分探しって「自分のあるべき姿・ありたい姿」を探してるんだから、それはまだ自分ではない。坊主の頓知に絶句してる暇があったら探そうぜ自分。
「僧侶なんて」云々にスターついてるけど、現代の僧侶の腐敗と禅宗の教え関係なくね?
自我が強く主張してくるタイプだからか、「自分探し」って何をするのか分からなかったけど、『ぼくをさがしに』って絵本で何となく分かったような気がした。けど、何も分かってない気もする。何なんだ「自分探し」。
禅僧の問いは示唆的で良いんだがそれで迷いが晴れるわけもなく、太宰治の「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」みたいな不誠実な誤魔化しじゃねえのか…?と訝しみたくなる。
多分仏教は"確固たる自我"の存在に否定的立場だと思う。諸行無常、諸法無我。
これは必要としている人だけに届けばいいのだと思う。届かなかった人がことさらに腐すものではない
十牛図については山田無文老大師の一般有志向け講義がお勧め。しかし残念ながら一、二図の録音が無い。できればそこからじっくりお話を伺いたいところ。臨済録講義もいいけど難しい。https://bit.ly/47XwrXM
ここではないどこかへ行きたいのよ〜
言うてあるはないと同じなんだから探してる自分も探されてる自分も同じと見えるだろ。そこに境界はない。ポリエステル三斤か
その実 両方がかけがえのない自分♪
坊主がくだらねえ説教してんじゃねえ
いつか自分が迎えにきてくれる
自分探しとか、何者かになりたいとか、そういうこと言う人間しょうもなくて嫌いなんだよな
それが禅問答の成果ですかしょうもな
「日本を取り戻す」と言ってる貴方が住んでいるのは何という国ですか?
私以外私じゃないの 当たり前だけどね
我思う、故に我あり。なりたい自分も私で有り、探す自分も私で有る。何処に居て何で有ったとしても自分。普遍であり、変化し続ける存在でも有る。
公案出されてるやん
中身がないからこそ自分探しという行為に取り憑かれるのだから、探されている自分など存在しないわけです。また、探すという行為自体には自我の痕跡が認められる。則ち探す方が本当の自分であろう。
絶句のとこがわかんないでござる、、、
そんなん探してる方で即答やろ。探されてる自分などいない。自分探しってのは人間を探すことやない、自分のあり方を見つけることやぞ。
本来の日本の仏教は宗論をバチバチやって問答を繰り返して結論にたどり着いたら新宗派を立ち上げて世に問う、そういう物だったんだよなあ。葬式仏教にしがみついてないで、もっとコーチングとかやろうよ。
今どき素で自分探しなんて言葉使うやつおんのかね。20年前くらいに流行った用語やろ。当時世代以外意味不明やと思うぞ。
みんな納得してるけど、これって禅ではなくて、荘子の胡蝶の夢というやつでは?
絶句したのに意味がわかってないってところで笑ってしまた
そいつはこんにゃく屋じゃなかろうか?
メノンのパラドクス。探しているものを知っているなら探す必要はないし、探しているものが何か知らなかったら、それを見つけてもそれを探していたとは分からない。自分なんてものは出会ってきた人の束でしかない。
自分が考えることを止めるのは別にいいとして、他人にも止めさせようとする人のなんと多いことか
自分探しは青い鳥が思い浮かぶけど、正直答えを提示されても納得できるかが問題なので……
僕は僕を探し当てたから、そりゃ当然「探されている自分」が本当の自分だったよ。
どんな日常を過ごしていると禅僧に相談する機会に恵まれるのだろうか。そんな人生を歩みたかった。
自分探しなんて変な言葉だと前から思ってた。その迷走している自分こそが、そのまま探している自分だろう、と。
元ネタは禅宗の公案として最も有名な「隻手音声(せきしゅおんじょう)」。両手を打ち合わせると音がするが、片手ではどんな音がするか?という問い。
「主語としての私」と「述語としての私」について語るミステリー作品があったこと、それを読んだ当時の自分もまた絶句したことを思い出す。人生の一時期に「私」のついての言葉を必要とする人は、やはり居るのです。
ある意味羨ましい。そんな事言われたら「本当のあなたって何?」って聞き返したくなる。
粗忽長屋のコメント、ズラしても外してもいないのでは。まさにそれってことで良いと思います。
青アカウント
探しているといっているのに言い換えて頓知にするのは底意地が悪い。自分の足跡を追うような田植えの作業のような、成果を認識する事で功績の少なさから来る不安を解消したいものだろうと想像できるものだろうに。
なんかめんどくせーな。風呂入って寝ろ!
いつも思うし同じことを言う。探さなきゃいけないほど自分を見失ってるなら他にやることあんだろ。単に暇で何もやる事がないのを言葉遊びで誤魔化してるんだろ。
タイムレス篠塚の(友達の)ギャグ「自分を見失ったサッカーファン オーレ〜オレオレ誰〜」じゃん
愛されるよりも愛したいマジで
観察できるもの知る事ができるものは私ではない。私の右目で私の右目を見ることができないように。徹底的に観察して私でないものを外していくと何が残る?私は在る事は確実だけど体も感覚も思考も感情も私ではない。
自分探しは「自分」を探す事じゃない事すら分からずに探してるのなら、そらこんな浅いコメントでハッとするだろうよ
どちらも自分です。つまりは新しい自分を探しておりますれば、より正確には、自分の可能性を探しているのです。
トップブコメのここで粗忽長屋と言う単語が出てくる教養に嫉妬
逆向きのオリエンタリズムというべきか、東洋の神秘こそ西洋の間違いを解決できるという偏見ですよね。デカルトの時代から、その問題は西洋で問われ続けてますよね。
結局、安定よな。どこに重心おくと自分が安定するか。安定すると俯瞰できるようになる不思議。
ボク、そんな難しいこと考えてないにゃ〜。でも、自分探しは楽しいおやつ探しみたいにゃ?見つかるかな?わくわくするにゃ!
俺はどちらかというとヒンドゥー教の真我に惹かれる。
「探しているのは5年後の自分で、両方とも本当の自分です。」って答えはどう?
ビッグコミックで載ってたフォルトゥーナ(全2巻で完結)を読んで欲しすぎる。2巻がまさにそんな哲学ターン。めっちゃ面白かった。神羊弱虫さんの作品。(一緒に乗ってる 読み切りも面白い)
知らず知らず歩いてきた細く長いこの道
俺は生まれて50年以上一度も「自分探し」をしたことがないが、多分それは俺が比較的恵まれた環境で比較的に自由に生きてきて今の自分がまさに自分そのものだと感じているからなのかもしれない。
「自分探し」って要は別の生き方を模索してるということ。「どっちが本当の自分か」なんてただの言葉遊びだと思う。
自分探し=あてもなく海外を放浪すること、という認識だった時に面接で「この空白期間は自分探しをしていたんですね」「いいえ違います(日本にいました)」みたいな妙なやりとりがあって困ったことある
本当の自分は無い。
彼(旅人)が僕自身だと気づいたのは今更になってだった話?
一応、西田幾多郎の哲学(主客未分がどうのとか純粋経験がどうのとか西洋哲学の主観と客観との対立前提を批判がどうのとか)は禅がルーツとされているというのはこういうところらしいけど、でもさっぱり理解できない
深いですね。おれはモテモテのヤリチンの自分をずっと探しててすっかり迷子なんですが。
この「自分探しという戯言」、昔から「なに言ってんだ、自分は自分だろうが、今ここにいてあれこれ考えたり感じたりしてる俺以外に俺なんかいるかよ、多重人格かよ」と思ってる。自分探しとか言うやつは皆オカシイ。
自分なんて周りとの関係性で規定されるものじゃないのと思ってる それ以外は好き嫌いと快不快
チルチルミチルの青い鳥。内部噴出か外部誘引、または共鳴
いい形で公案飛んできたんやなと思った。まとめ後半のピンと来てない人の中に最初から解ってたり、先に行ってる人がいる。
漫画家、島本和彦センセイが絵を担当したゲームで「自分探しだと? オマエはそこにいるだろうが!」ってフレーズあったなー
自分の夢を見ている時の自分は自分であるが、自分が蝶になった夢を見た時の自分は蝶なのか人間なのか?と荘子みを出したい
「自分」など存在しない、関係性で発光する信号にようなもの。動くニューロンとシナプス的な。それでも位置は測量して方向性はアジャストしないといけない。
自分探しをしている自分が大好きな承認欲求マシマシな自分こそが本当の自分。
誰が言ったかなんて関係なく考えたいものですな
禅宗の「倩女離魂」の問答を思い出させるエピソードやね。
ポルノグラフィティのアゲハ蝶のやつ
どちらかというと探している自分は外側にいるのですか、あるいは内側にいるのですかと問うている気がする。じつはどちらにも自分という虚像は実在しないというのが禅では。
なるほど
探してもしょうがないということに気づくには、一回探してみるのも有効だろうから、否定するようなもんでもない。
何言ってんだよ
若い頃に自分探しするほど余裕があるか?詐欺師が「見えます。アナタ、自分探ししてますね」って具合に使うもんだろ?