カント哲学の中島義道氏(80)。左半身不随。p3まで老哲学者の愚痴w/禅の道元や臨済の吾我、カントの「超越論的統覚」、鈴木大拙「悟りは平凡」、道元「修証一等」、西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」/みんな嘘、無w
遺言は猫のバッキーに託しましたからね
私たちが見ている外界が現実そのものではなく脳で創られたイメージであるのと同じように、「私」という自意識も脳によって創られたイメージなのだと考えれば、いろいろ納得できる。
身体はシンクライアントにすぎず、すべての意識はマトリクスの中に合一で存在する──つまり人類みな大元をたどってゆけばもともと同一の存在なのだよ!!!!!1! な、なんだっt
前段の意欲減退やもともと好きだったことが楽しめない、体重減少など書かれている箇所を読むといわゆる老人性うつの可能性もあるので精神科の医師を信じないなんて言わずに適切な治療を受けてほしい
仏教じゃん
西洋哲学は概念によって世界を記述できるという驕りがあった。/この「私」は「死」を認識できない。また、この一瞬の「私」すら実は虚構。「私」も自然、宇宙の一部、自然の営みの一部である。
相変わらず文句ばっかで草 / あるのは毎瞬の体験や感覚だけで、数多のそれらをまとめる重心として「私」という概念をひねり出してるんだよな。ドーナツの穴みたいな言語上の仮構
ついに悟りを開いた
昔、この人の本は読みまくったっけ
変わってないな。ただ元気とキレは無くなったかね。
心が錯覚だとして、その錯覚の仕組みとか人間のように錯覚を感じる何かをAIなどで再現できるのかといったのはある。
俺みたいな社会不適合者は中島義道の言うことがよくわかる
概ね同意。ただ、こういうのが私にとって「有用」かというと、そうではない。わたしはまだ、嘘の海みたいなところを泳がねばならない。
中島義道氏。
充実した無の感覚をもって、大森荘蔵の心と脳の重ね描きという解法を読み直すと、客観的で数量化された世界記述はそれはそれとして、それぞれの立ち位置からの眺めと質感というか実感は無視しちゃいけないってなる。
般若心経にも以無所得故、もともと得るものなど何もないからと書かれている。得るものがないのだから失うものもないよ
哲学って色んな考え方や捉え方があるよなぁってだけの話。マジでどこまでいってもそう。でも、色んな考え方や捉え方を知っていると生きるのが楽になることもあるので、学ぶ価値はある学問だと思う。
わかったようなわからないような、言葉遊びのようなそうでもないような。前編?https://toyokeizai.net/articles/-/953582?display=b も読むといよいよ。
「私」は虚構だと、言うことは誰にでもできる。だけど、それが「腑に落ちる」かどうかは別。中島さんは恐らくそういうことを言っている。禅も同じ。「『悟った自分』などいない」と思っているのは誰か。
先日、母親を見送って、次は自分の番かなあと。あとの人に迷惑かけないようにいろいろ片付けないと。
中島義道
意識や脳や世界や自分についての仮説を作って死の恐怖を克服したことあるけど、その結果人生どうでも良くなって常に上の空になり危険に無頓着になって雑に奇行や他害をやりそうになるから死の恐怖はあった方がいい
いい顔
「他人というもの自体が嫌いなのです。」「家内が死んだら困るな、姉や妹が死んだら困るな」歳をとっても哲学を極めて悟りに近づいても私は虚構でもこの感じ。人間。
AIの進化見てると、人間の脳もこの体にインストールされたクライアントモデルでしかないんだろうなぁという感じはする。
私も死ぬのは嫌でもないし怖いとかもない。ただ、死にまつわる苦しみとか痛みとか、その他人のしがらみとかお金関連の思惑とかが本当に嫌だ。苦しまずに死ねる方がいい。
それは無価値になった体に期待しなくなったのと精神は気高く永遠だと思いたいから肉から染み出た汁だと思いたくないだけだろ 運動して健康に過ごしてりゃそんな汁毎日下水に流してるだろうよ
自分の場合は、哲学を齧ってみるより、コンピュータやAIについて学んだりSFを読んだ経験が死生観を作っていると感じる。人体はハードウェア、意識はソフトウェア。
"あまり医者を信じていません"/"「私」がなければ、世界そのものがない"/"「私の死後の世界も物自体もわからない」ということ自体が、実は救いでもある"/"「無」で、"ムムム…
(うかつに読むと、こんな〇〇がなにがしか権威をもっているのがこわくなるから、よまないほうがいいですよ……)(たぶんオレの言ってることわかんねえんだろうなって受け取るだろうけど、〇〇男の燻製じゃないの)
途中から話が抽象的で難しくなる。3年前に脳出血になってたのか。
道元の時代から何百年経ってもまだわからん哲学という学問(?)をやれるモチベがわからん。近年になってなにか「わかった」ことはあるのだろうか。そもそもそれも愚問か。
中島義道、相変わらずキレキレ。老いによって「この体の中にいる」幻想から解き放たれるというのは哲学的だけど、理屈でわかっても実感するのは怖すぎるわ
とか言いながらいざ余命告げられると足掻くのよ
仏教で言われてることを実感として得たということだろうか。不変でないものはそれゆえに我ではない。
学生の頃、一般教養で哲学をほんの少し齧ったけど、著名な哲学者達はキリスト教に根付き過ぎではと違和感を覚えた。禅や仏教に近い方からの思想がちゃんと存在してて嬉しい。
80歳なら大往生
(読んでない)無常、無我かな。真の「我」は輪廻を繰り返す常在なのであって、無常なものは「我」ではないという意味だと思っている。なお、上座部仏教は「輪廻から抜けよう」と言う。
正直な感想を言うと、こういう手前勝手に悟りを得たような戯言には苛つくわ。自分を覚者だと思い込んで、支えてくれている家族や介護士を含めて他人を見下してる。他者への関心と感謝のない悟りなど認められない。
相変わらずネガティブなことを言い散らかしておられるから、お元気なのだろうな、と。
哲学うんぬんと言うより単に鬱なんだろうなっていう感想。
母が80代に入ってから「死ぬとは何でしょうね」と良く言うようになった。恐れているというニュアンスではなく。死が現実的に間近に思えてきたからこその疑問なのか。娘としては元気で長生きしてと思うのだけど。
“かつて「死ぬ限り、人生は絶望的だ」と恐れていたこと――それは、客観的な時間を前提にして、心を物みたいに考えて語る、大きな錯覚だった。時間は終わりなく続く帯ではなく全世界も一生も、一瞬かもしれない”
「介護施設の6畳の部屋に何もせずずっといて死ぬのは、やはりきついじゃないですか」今だって働いて帰って寝るだけであんまり変わらん気もする。それが違うのか。
まぁ処方された薬とか使い出すだけでも、自分ってものが信用ならない、分かんなくなるしな
これで哲学者とは聞いて呆れる。道理を悟ったような物言いだが、駄々と屁理屈をこねているだけで、端から見れば利己的で尊大な老人にしか見えない。自分と連なる他者が見えないなら、山の中で独り悟っていればいい。
哲学やってもこんな俗物のまま死んでいくんだから人間はおもしろい
中島氏は永井均の『哲学探究 1』を誤読して『哲学探究 2』で盛大に突っ込まれてたけど、この調子じゃ永井氏の『カントの誤診』シリーズも理解できてないだろうな。せっかくカントに寄せて議論してくれてるのに。
老いとともに禅への意識が強まっていくところは、仏教(禅)の方が西洋哲学よりも身体性のようなものがあるところによるのだろうか? しかし、中島義道のデイサービスというだけで面白くはある
死ぬのがあまり嫌ではなくなった"戦う哲学者"が、じわじわとわかるようになった「私はこの体の中にいる」という幻想
カント哲学の中島義道氏(80)。左半身不随。p3まで老哲学者の愚痴w/禅の道元や臨済の吾我、カントの「超越論的統覚」、鈴木大拙「悟りは平凡」、道元「修証一等」、西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」/みんな嘘、無w
遺言は猫のバッキーに託しましたからね
私たちが見ている外界が現実そのものではなく脳で創られたイメージであるのと同じように、「私」という自意識も脳によって創られたイメージなのだと考えれば、いろいろ納得できる。
身体はシンクライアントにすぎず、すべての意識はマトリクスの中に合一で存在する──つまり人類みな大元をたどってゆけばもともと同一の存在なのだよ!!!!!1! な、なんだっt
前段の意欲減退やもともと好きだったことが楽しめない、体重減少など書かれている箇所を読むといわゆる老人性うつの可能性もあるので精神科の医師を信じないなんて言わずに適切な治療を受けてほしい
仏教じゃん
西洋哲学は概念によって世界を記述できるという驕りがあった。/この「私」は「死」を認識できない。また、この一瞬の「私」すら実は虚構。「私」も自然、宇宙の一部、自然の営みの一部である。
相変わらず文句ばっかで草 / あるのは毎瞬の体験や感覚だけで、数多のそれらをまとめる重心として「私」という概念をひねり出してるんだよな。ドーナツの穴みたいな言語上の仮構
ついに悟りを開いた
昔、この人の本は読みまくったっけ
変わってないな。ただ元気とキレは無くなったかね。
心が錯覚だとして、その錯覚の仕組みとか人間のように錯覚を感じる何かをAIなどで再現できるのかといったのはある。
俺みたいな社会不適合者は中島義道の言うことがよくわかる
概ね同意。ただ、こういうのが私にとって「有用」かというと、そうではない。わたしはまだ、嘘の海みたいなところを泳がねばならない。
中島義道氏。
充実した無の感覚をもって、大森荘蔵の心と脳の重ね描きという解法を読み直すと、客観的で数量化された世界記述はそれはそれとして、それぞれの立ち位置からの眺めと質感というか実感は無視しちゃいけないってなる。
般若心経にも以無所得故、もともと得るものなど何もないからと書かれている。得るものがないのだから失うものもないよ
哲学って色んな考え方や捉え方があるよなぁってだけの話。マジでどこまでいってもそう。でも、色んな考え方や捉え方を知っていると生きるのが楽になることもあるので、学ぶ価値はある学問だと思う。
わかったようなわからないような、言葉遊びのようなそうでもないような。前編?https://toyokeizai.net/articles/-/953582?display=b も読むといよいよ。
「私」は虚構だと、言うことは誰にでもできる。だけど、それが「腑に落ちる」かどうかは別。中島さんは恐らくそういうことを言っている。禅も同じ。「『悟った自分』などいない」と思っているのは誰か。
先日、母親を見送って、次は自分の番かなあと。あとの人に迷惑かけないようにいろいろ片付けないと。
中島義道
意識や脳や世界や自分についての仮説を作って死の恐怖を克服したことあるけど、その結果人生どうでも良くなって常に上の空になり危険に無頓着になって雑に奇行や他害をやりそうになるから死の恐怖はあった方がいい
いい顔
「他人というもの自体が嫌いなのです。」「家内が死んだら困るな、姉や妹が死んだら困るな」歳をとっても哲学を極めて悟りに近づいても私は虚構でもこの感じ。人間。
AIの進化見てると、人間の脳もこの体にインストールされたクライアントモデルでしかないんだろうなぁという感じはする。
私も死ぬのは嫌でもないし怖いとかもない。ただ、死にまつわる苦しみとか痛みとか、その他人のしがらみとかお金関連の思惑とかが本当に嫌だ。苦しまずに死ねる方がいい。
それは無価値になった体に期待しなくなったのと精神は気高く永遠だと思いたいから肉から染み出た汁だと思いたくないだけだろ 運動して健康に過ごしてりゃそんな汁毎日下水に流してるだろうよ
自分の場合は、哲学を齧ってみるより、コンピュータやAIについて学んだりSFを読んだ経験が死生観を作っていると感じる。人体はハードウェア、意識はソフトウェア。
"あまり医者を信じていません"/"「私」がなければ、世界そのものがない"/"「私の死後の世界も物自体もわからない」ということ自体が、実は救いでもある"/"「無」で、"ムムム…
(うかつに読むと、こんな〇〇がなにがしか権威をもっているのがこわくなるから、よまないほうがいいですよ……)(たぶんオレの言ってることわかんねえんだろうなって受け取るだろうけど、〇〇男の燻製じゃないの)
途中から話が抽象的で難しくなる。3年前に脳出血になってたのか。
道元の時代から何百年経ってもまだわからん哲学という学問(?)をやれるモチベがわからん。近年になってなにか「わかった」ことはあるのだろうか。そもそもそれも愚問か。
中島義道、相変わらずキレキレ。老いによって「この体の中にいる」幻想から解き放たれるというのは哲学的だけど、理屈でわかっても実感するのは怖すぎるわ
とか言いながらいざ余命告げられると足掻くのよ
仏教で言われてることを実感として得たということだろうか。不変でないものはそれゆえに我ではない。
学生の頃、一般教養で哲学をほんの少し齧ったけど、著名な哲学者達はキリスト教に根付き過ぎではと違和感を覚えた。禅や仏教に近い方からの思想がちゃんと存在してて嬉しい。
80歳なら大往生
(読んでない)無常、無我かな。真の「我」は輪廻を繰り返す常在なのであって、無常なものは「我」ではないという意味だと思っている。なお、上座部仏教は「輪廻から抜けよう」と言う。
正直な感想を言うと、こういう手前勝手に悟りを得たような戯言には苛つくわ。自分を覚者だと思い込んで、支えてくれている家族や介護士を含めて他人を見下してる。他者への関心と感謝のない悟りなど認められない。
相変わらずネガティブなことを言い散らかしておられるから、お元気なのだろうな、と。
哲学うんぬんと言うより単に鬱なんだろうなっていう感想。
母が80代に入ってから「死ぬとは何でしょうね」と良く言うようになった。恐れているというニュアンスではなく。死が現実的に間近に思えてきたからこその疑問なのか。娘としては元気で長生きしてと思うのだけど。
“かつて「死ぬ限り、人生は絶望的だ」と恐れていたこと――それは、客観的な時間を前提にして、心を物みたいに考えて語る、大きな錯覚だった。時間は終わりなく続く帯ではなく全世界も一生も、一瞬かもしれない”
「介護施設の6畳の部屋に何もせずずっといて死ぬのは、やはりきついじゃないですか」今だって働いて帰って寝るだけであんまり変わらん気もする。それが違うのか。
まぁ処方された薬とか使い出すだけでも、自分ってものが信用ならない、分かんなくなるしな
これで哲学者とは聞いて呆れる。道理を悟ったような物言いだが、駄々と屁理屈をこねているだけで、端から見れば利己的で尊大な老人にしか見えない。自分と連なる他者が見えないなら、山の中で独り悟っていればいい。
哲学やってもこんな俗物のまま死んでいくんだから人間はおもしろい
中島氏は永井均の『哲学探究 1』を誤読して『哲学探究 2』で盛大に突っ込まれてたけど、この調子じゃ永井氏の『カントの誤診』シリーズも理解できてないだろうな。せっかくカントに寄せて議論してくれてるのに。
老いとともに禅への意識が強まっていくところは、仏教(禅)の方が西洋哲学よりも身体性のようなものがあるところによるのだろうか? しかし、中島義道のデイサービスというだけで面白くはある