"ヴァレリー・ザルジニー:我々にとって、戦争は2014年に始まりました"→https://x.com/CinC_AFU/status/1587187595708080133 "私たちは8カ月ではなく、8年と8カ月の戦争を続けてきました"/ストルテンベルグ→https://tinyurl.com/bdf2f59u
それを「民のための権力」という詭弁で無効化して監視社会を築いた共産主義の風味を感じるから、字面の整合性を理解できても民の信用が集まらないのですよ。
何が批判すべき権力かという命題は明快ではない。/権力の中枢近くに長くいた森本首相は「女性がいると会議が長い」と放言して表舞台を追われた訳ですが、先日の某本田由紀の発言はなぜ許されてしまうのでしょうね。
「誰かが哲学は何の役に立つのかと尋ねるとき、その質問は皮肉と痛烈さを意図しているため、答えは攻撃的でなければならない。」さすがニーチェ、キレッキレである
ちょっと雑かな。「権力批判してるから私たちは正しい」と思い込むリベラルまで告発に入ってない限界を感じる。およそ半世紀ほど前の他人の意見と記事のコピペが中心で、筆者本人の思考が乏しい。
哲学を学ぶ人たちの自意識過剰な話だと思う。我々細民は税金を余計にふんだくられる、昨日まで出来たことが許されなくなる話に敏感なので、些細な命令にも鋭敏に逆らうので
西洋哲学は世界を言語によって概念化・記述する能力を極限まで発達させた。その成功ゆえに言語によって把握された世界を「世界そのもの」と取り違える危険がある。西洋哲学そのものの認識論的限界の自覚が必要。
id:circled まさに権力の具現化である「中国によるウイグル政策」を批判してる者を「ネトウヨ」と揶揄する日本リベラルは、まさしく「権力の道具」に他ならない訳だな。
厨二病患者の愛玩品たるニーチェの箴言は今もって我々に快く響く
ええと…簡単な話を難しく混ぜっ返して話し合いを停滞させろと言ってる?
哲学の重要な役割の一つは言葉を定義すること。つまり、オントロジー工学をやってるんだよ。
歴史的には哲学が権力の走狗であったことも多い。だが哲学なき権力批判も不可能でありまたそのような世界に対する摩擦から析出されるものが哲学ではないのか
「誰も悲しませず、誰も動揺させない哲学は哲学ではない。哲学は愚かさを傷つけるためにある。愚かさを恥ずべきものにするためにある。」
『意味の論理学』など。重要
1970年代にはJGバラードが制御不可能な仮想現実が現実を吞み込んでいくと予想していたけど、個人的には哲学の役割はあると思いたい。
”もっとも私はいわゆる「リベラル左翼」とレッテルを貼られている「党派人」たちを嫌悪する人たちの心持ちはわからないではないがね。” 党派内のあれこれを批判できない党派人が、大きい権力を批判できるわけない
哲学は、自分への適用がハマったとき、自分の認知が絶対ではないことがわかってありがたい
「だからこそリベラルざまあ!」「サナ活ぴょんぴょん!」となってるのが日本の病理。
"誰かが哲学は何の役に立つのかと尋ねるとき、その質問は皮肉と痛烈さを意図しているため、答えは攻撃的でなければならない" 良いわ…
アホくさとしか言いようがないw哲学を大学でやる意味はまったくないですw
親露派の人の主張。ちなみにウクライナ応援団は被告席に立って欲しいらしいよ。 pokute8さんと気が合いそう>ウクライナ応援団名簿ーー東京裁判Ⅱのためにhttps://kaie14.blogspot.com/2026/01/blog-post_10.html
哲学は役に立たないってヤスおじが言ってた
すごい名古屋弁の人かと思った
左派には「自分は骨の髄まで反権力なので絶対的に正しい」とか思ってるヤツが多い。ニーチェだのフーコーだのは、そういう連中が自らを甘やかす道具となっている(攻撃的に書いてみました)
哲学は自分が幸せになるために使いな~。権力を(略)告発したときに幸せを感じるならそのために使ってもよし。でもそんなんで幸せを感じるタイプの人とはあまり付き合いたくないな!がはは。
そうであるならばリベラル左翼は哲学者であり、あらゆる権力(自分を含む!)に懐疑的であるべきでは。権力を批判したいがために別の権力を代弁する輩をリベラルとは呼べないだろ
自由に考えること だからこそこうして資本主義を教条的考える仕方に抵抗すること それってドゥルーズやフーコーがやってきたことだよ
反権力であらねばならないという考え方もまた独善を生む、という相対主義が、左翼のスターリン化・連合赤軍化を反省したポストモダン思想だったはずなんだけどなあ…
(国家資本主義や不換紙幣は国家との分離が不十分、というのが柄谷なんとかさんの主張だったのでは)アイン・ランドやグリーンスパンの「新自由主義」は構造的権力
哲学の役割ーー権力の道具となっている連中を告発すること
"ヴァレリー・ザルジニー:我々にとって、戦争は2014年に始まりました"→https://x.com/CinC_AFU/status/1587187595708080133 "私たちは8カ月ではなく、8年と8カ月の戦争を続けてきました"/ストルテンベルグ→https://tinyurl.com/bdf2f59u
それを「民のための権力」という詭弁で無効化して監視社会を築いた共産主義の風味を感じるから、字面の整合性を理解できても民の信用が集まらないのですよ。
何が批判すべき権力かという命題は明快ではない。/権力の中枢近くに長くいた森本首相は「女性がいると会議が長い」と放言して表舞台を追われた訳ですが、先日の某本田由紀の発言はなぜ許されてしまうのでしょうね。
「誰かが哲学は何の役に立つのかと尋ねるとき、その質問は皮肉と痛烈さを意図しているため、答えは攻撃的でなければならない。」さすがニーチェ、キレッキレである
ちょっと雑かな。「権力批判してるから私たちは正しい」と思い込むリベラルまで告発に入ってない限界を感じる。およそ半世紀ほど前の他人の意見と記事のコピペが中心で、筆者本人の思考が乏しい。
哲学を学ぶ人たちの自意識過剰な話だと思う。我々細民は税金を余計にふんだくられる、昨日まで出来たことが許されなくなる話に敏感なので、些細な命令にも鋭敏に逆らうので
西洋哲学は世界を言語によって概念化・記述する能力を極限まで発達させた。その成功ゆえに言語によって把握された世界を「世界そのもの」と取り違える危険がある。西洋哲学そのものの認識論的限界の自覚が必要。
id:circled まさに権力の具現化である「中国によるウイグル政策」を批判してる者を「ネトウヨ」と揶揄する日本リベラルは、まさしく「権力の道具」に他ならない訳だな。
厨二病患者の愛玩品たるニーチェの箴言は今もって我々に快く響く
ええと…簡単な話を難しく混ぜっ返して話し合いを停滞させろと言ってる?
哲学の重要な役割の一つは言葉を定義すること。つまり、オントロジー工学をやってるんだよ。
歴史的には哲学が権力の走狗であったことも多い。だが哲学なき権力批判も不可能でありまたそのような世界に対する摩擦から析出されるものが哲学ではないのか
「誰も悲しませず、誰も動揺させない哲学は哲学ではない。哲学は愚かさを傷つけるためにある。愚かさを恥ずべきものにするためにある。」
『意味の論理学』など。重要
1970年代にはJGバラードが制御不可能な仮想現実が現実を吞み込んでいくと予想していたけど、個人的には哲学の役割はあると思いたい。
”もっとも私はいわゆる「リベラル左翼」とレッテルを貼られている「党派人」たちを嫌悪する人たちの心持ちはわからないではないがね。” 党派内のあれこれを批判できない党派人が、大きい権力を批判できるわけない
哲学は、自分への適用がハマったとき、自分の認知が絶対ではないことがわかってありがたい
「だからこそリベラルざまあ!」「サナ活ぴょんぴょん!」となってるのが日本の病理。
"誰かが哲学は何の役に立つのかと尋ねるとき、その質問は皮肉と痛烈さを意図しているため、答えは攻撃的でなければならない" 良いわ…
アホくさとしか言いようがないw哲学を大学でやる意味はまったくないですw
親露派の人の主張。ちなみにウクライナ応援団は被告席に立って欲しいらしいよ。 pokute8さんと気が合いそう>ウクライナ応援団名簿ーー東京裁判Ⅱのためにhttps://kaie14.blogspot.com/2026/01/blog-post_10.html
哲学は役に立たないってヤスおじが言ってた
すごい名古屋弁の人かと思った
左派には「自分は骨の髄まで反権力なので絶対的に正しい」とか思ってるヤツが多い。ニーチェだのフーコーだのは、そういう連中が自らを甘やかす道具となっている(攻撃的に書いてみました)
哲学は自分が幸せになるために使いな~。権力を(略)告発したときに幸せを感じるならそのために使ってもよし。でもそんなんで幸せを感じるタイプの人とはあまり付き合いたくないな!がはは。
そうであるならばリベラル左翼は哲学者であり、あらゆる権力(自分を含む!)に懐疑的であるべきでは。権力を批判したいがために別の権力を代弁する輩をリベラルとは呼べないだろ
自由に考えること だからこそこうして資本主義を教条的考える仕方に抵抗すること それってドゥルーズやフーコーがやってきたことだよ
反権力であらねばならないという考え方もまた独善を生む、という相対主義が、左翼のスターリン化・連合赤軍化を反省したポストモダン思想だったはずなんだけどなあ…
(国家資本主義や不換紙幣は国家との分離が不十分、というのが柄谷なんとかさんの主張だったのでは)アイン・ランドやグリーンスパンの「新自由主義」は構造的権力