行きてし帰る物語
ミステリーの構造を持ったギリシャ悲劇と比較するなら、ソフォクレスの『オイディプス王』ではないかな。真実を暴くことが悲劇となる vs 真実を暴かないままでも最後の悲劇が回避できない。
そういえば、セイレーンは元は鳥人間だった
悪いのは作者と監督
とても素晴らしい感想記事。そうだよな、セイレーンのいる洞窟の暗がりは、神話舞台では死の世界だ。
誰も悪くないというより悪さの帰属ができない、だからどうしようもないんだよな。こういう無力さ・儚さみたいなものがちいかわの根底にあるなあという感想
古典にたとえるならシェイクスピアのロマンス劇風味を感じた。超自然的パワーとか主役一行は最終的に元の生活に戻れてメデタシメデタシ感を出すとことか。
神話が引き合いにされる考察が出る映画は名作よな
セイレーンが"彼女"表記になってるが、ちいかわでキャラの性別意識したことなかったな。メスなんかなあ。
他のブログやら東野先生の論考なんかも見るにつけ、優れた作品はいろいろな(多層的な)読み方ができるものだなあ
わぁ
こういうのが読みたかった…
"人魚が全員揃っている場面ではコーラスのバランスが取れているのに、一人欠けた後の歌は不協和音寄りになっていく。歌が壊れたことが、耳で分かるように作られているのだ" ええぇ、そうだったの??
そういえば来月『オデュッセイア』公開だなあ
ずっと、「不死の二人が劇中に出てくる花火を腹に巻いてセイレーンに突貫自爆エンド」が落とし前の付け方として良かったと思っている。
シンプルかつ現実的にするなら「利害が分かれるセイレーンを討伐出来ない無力、支援の網を届かせない行政、裁けない司法が悪」になるけども。ちいかわ族は定義的に無力なので、「弱い事が罪」と言われると困るよね。
記事は読んでないけど、誰も悪くないではなく、善や悪の二元論に振り切れない、無力や立場や境遇でどちらにも振れる生々しいのが「ちいかわ」の世界観かと
自分が小学生だった頃で思い出したのが「今日の日はさようなら」の最後の「おなら」をみんなで力強く歌っていた純粋無垢な存在だったなあと。
こういうの見ると、やたら誰が悪いって話になるよなぁと
では、現実世界のできごとは "誰かが悪い" とでも言うんだろうか?
物語の型としてゾルトラーク的なんだなと。ナガノさんがどこまで明確に意識していたかによらず、普遍的な盛り上がりポイントを随所に仕込んでるのはさすが。
きっかけはセイレーンだけど、アイツはちいかわ族の法の埒外の超常的存在で災害や神様の類だから、力負けしてお互いの罪が相殺しきれずちいかわ族の罪が重くなる構図になるの理不尽で味わい深い
『唯一、対話を試みたラッコ』確かに、ラッコ先生は対話しようとしていた。あれは対話できるでかつよがいた経験がないとできないと思うし、モモンガのせいで失敗したとはいえ失敗でも生存できる自信があったとわかる
「似ている要素だけ拾って、一致しているように見せる」という解釈のトリック。おそらく『ちいかわ』でなくても成立する。
いや、どう考えてもそれのオマージュでしょ
なんでみんなギリシア神話のこと知ってるの?この人はとても詳しいにしろさぁ。読んだの?!教養ゼロなのでどこから始めればいいの😭
「みんなが悪い」「何が正しかったのかは分からない」。この2つの両立が"悲劇という形式の芯"。事が起きた時点で、 救われる道はどこにもなく、関わる者みんなの不幸に収束する。/神はおらず、怪物はいる神話だね
未読で。"誰も悪くない"は本当か?という問い自体に違和感。ぱっと見た最初の印象がそもそも「みんなそれぞれ悪い」なので…。「誰もが思う通り、みんな悪いのだが」で始めるより納得感ある書き出しなのかな…
いくらなんでも”理屈と軟膏”過ぎなアレ
ギリシャ神話から読み解く「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」“誰も悪くない”は果たして本当か?|かさね
行きてし帰る物語
ミステリーの構造を持ったギリシャ悲劇と比較するなら、ソフォクレスの『オイディプス王』ではないかな。真実を暴くことが悲劇となる vs 真実を暴かないままでも最後の悲劇が回避できない。
そういえば、セイレーンは元は鳥人間だった
悪いのは作者と監督
とても素晴らしい感想記事。そうだよな、セイレーンのいる洞窟の暗がりは、神話舞台では死の世界だ。
誰も悪くないというより悪さの帰属ができない、だからどうしようもないんだよな。こういう無力さ・儚さみたいなものがちいかわの根底にあるなあという感想
古典にたとえるならシェイクスピアのロマンス劇風味を感じた。超自然的パワーとか主役一行は最終的に元の生活に戻れてメデタシメデタシ感を出すとことか。
神話が引き合いにされる考察が出る映画は名作よな
セイレーンが"彼女"表記になってるが、ちいかわでキャラの性別意識したことなかったな。メスなんかなあ。
他のブログやら東野先生の論考なんかも見るにつけ、優れた作品はいろいろな(多層的な)読み方ができるものだなあ
わぁ
こういうのが読みたかった…
"人魚が全員揃っている場面ではコーラスのバランスが取れているのに、一人欠けた後の歌は不協和音寄りになっていく。歌が壊れたことが、耳で分かるように作られているのだ" ええぇ、そうだったの??
そういえば来月『オデュッセイア』公開だなあ
ずっと、「不死の二人が劇中に出てくる花火を腹に巻いてセイレーンに突貫自爆エンド」が落とし前の付け方として良かったと思っている。
シンプルかつ現実的にするなら「利害が分かれるセイレーンを討伐出来ない無力、支援の網を届かせない行政、裁けない司法が悪」になるけども。ちいかわ族は定義的に無力なので、「弱い事が罪」と言われると困るよね。
記事は読んでないけど、誰も悪くないではなく、善や悪の二元論に振り切れない、無力や立場や境遇でどちらにも振れる生々しいのが「ちいかわ」の世界観かと
自分が小学生だった頃で思い出したのが「今日の日はさようなら」の最後の「おなら」をみんなで力強く歌っていた純粋無垢な存在だったなあと。
こういうの見ると、やたら誰が悪いって話になるよなぁと
では、現実世界のできごとは "誰かが悪い" とでも言うんだろうか?
物語の型としてゾルトラーク的なんだなと。ナガノさんがどこまで明確に意識していたかによらず、普遍的な盛り上がりポイントを随所に仕込んでるのはさすが。
きっかけはセイレーンだけど、アイツはちいかわ族の法の埒外の超常的存在で災害や神様の類だから、力負けしてお互いの罪が相殺しきれずちいかわ族の罪が重くなる構図になるの理不尽で味わい深い
『唯一、対話を試みたラッコ』確かに、ラッコ先生は対話しようとしていた。あれは対話できるでかつよがいた経験がないとできないと思うし、モモンガのせいで失敗したとはいえ失敗でも生存できる自信があったとわかる
「似ている要素だけ拾って、一致しているように見せる」という解釈のトリック。おそらく『ちいかわ』でなくても成立する。
いや、どう考えてもそれのオマージュでしょ
なんでみんなギリシア神話のこと知ってるの?この人はとても詳しいにしろさぁ。読んだの?!教養ゼロなのでどこから始めればいいの😭
「みんなが悪い」「何が正しかったのかは分からない」。この2つの両立が"悲劇という形式の芯"。事が起きた時点で、 救われる道はどこにもなく、関わる者みんなの不幸に収束する。/神はおらず、怪物はいる神話だね
未読で。"誰も悪くない"は本当か?という問い自体に違和感。ぱっと見た最初の印象がそもそも「みんなそれぞれ悪い」なので…。「誰もが思う通り、みんな悪いのだが」で始めるより納得感ある書き出しなのかな…
いくらなんでも”理屈と軟膏”過ぎなアレ