“原田””がギャラリーフェイクのこのエピソードを知らなかったことが興味深い”篠田はラッセンブームリアタイ勢なので、当時の業界で「インテリア絵画」という言葉が使われていたことを””知っている可能性も”
Google booksで検索したら、1992年のフォーサイト誌に「インテリア絵画」についての「カシニョール、ヤマガタなど」「質屋に流れる」という記事があったらしい。ギャラリーフェイクの元ネタはこれかな。
私もラッセンの見られ方は昔から有名だったような…と思ってたけどギャラリーフェイクにあったか
全くそのとおり。集英社が「われわれが必死に止めたにも関わらず原田さんには勝手に書評で事実無根のデマを拡散され誠に遺憾です」と述べてるのは何の疑問の余地なく正しい
然り
“「インテリア絵画」とハワイ日系移民の墓石の向きについて、篠田の小説が原田の本にのみ依拠していると断定することは不可能である”
興味深い。
“SNSで騒いだところでどうにもならないだろう”
原田がXで(集英社は聞かれてないって言ってるが)「直接聞いたら図書館で借りたって”集英社に“言われた、読んでないなんて納得いかねー」とか言うからやで。著作権も剽窃も外野が喚いているだけのもんやな。
まったく馬鹿らしい話だと思うのでこっちにブクマしとくか。
「庶民、俗物が背伸びして意識高くあろうとした結果として行きつく陳腐」という文脈において、クーリッジの『ポーカーをする犬』あたりからさんざん擦られてる概念よね。ラッセンもその延長。キッチュ。
なるほどなるほど。https://togetter.com/li/2617698 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2617698 https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/yuki-harada-Lassen-202510 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.tokyoartbeat.com/articles/-/yuki-harada-Lassen-202510
つまり、125億円のゴッホの絵より、パブロピカソは死ぬまで上り坂だったらしいね、僕はピカソに憧れてるんだ
本件、原田側の炎上商法が無理筋・露骨すぎ、篠田側のアナクロな文壇ムーブに繋がったように見える。「合法ゲス対決」みたいな構図で、正直、両方読む気なくしちゃった。
原田氏本人は推測に過ぎないと認めているのになぜか「悪魔の証明を要求している」ことにされてる。とりわけ著作権の話なんか全くしてないのにいちいち著作権的には問題ないと書く人が次々に出てくるのはなぜ?
どちらも読んでさえない人がなぜか騒いで一方的に非難してるよね、アイデアの問題と言われてるのに「共通の部分」とか「コピぺ」とか言ってる人もいたし
そう言われると、アート側に概念はなくても百貨店やインテリアショップで「インテリア用」として売られてるタイプの絵画は昔からあるし、「インテリア絵画」って世間では普通に通用してた気はする。
身内との会話から着想したとしても、同じテーマの出版物は読んでおかないと、追求する思考の変遷などが同じになる虞があるだろう。自分もこれを書いたときは洋書なども取り寄せた。https://kakuyomu.jp/works/4852201425154950783
ラッセンのタペストリー持ってた。ブラインド代わりに何年も窓に掛けてたのに、焼けたり色褪せたりしなかったのがすごい。
これもまた憎悪を煽ると金になるプラットフォームに根源がある問題のひとつの現れかと。こうして識者が論拠の正当性を検証した結果をすぐに提示できる機能も併せ持つのだが、憎悪と違って簡単には拡散しない。
犬笛型のデマを起点にした名誉毀損の判例も出たし、書評の本人も名誉毀損食らってもしゃーないんじゃない
最近こういう話の落とし所がわからなくなってきた。
これは無理があるわね。先行研究不足 / “ラッセンやヒロ・ヤマガタなど一般層への販売に重きを置いた作品群を指す言葉がなかったため、〜『インテリア・アート』という言葉を意識的に使い始めました”
よいまとめ
“研究論文が注をうち出典を示すのは、「この論文ではこの文献に示された内容を事実として扱う」、つまり論証のアウトソーシングをするからだ。小説は事実を組み合わせて論証を行う文章ではないので、このような論証
自分で読み比べての意見ならともかく、伝聞に依拠した批判はいつでも梯子を外されうるからなぁ。
ラッセンといえばスナックのトイレとバニングカー
推測に過ぎないが、読んではいたんじゃないか。ただ、がっつり参考図書にするなら図書館で済ませずに買うだろうから、たくさん読んだ中の一冊で、ラッセンの名前は出せないという事情が(今でも)ありそう。
最近Braveで見れないサイトが増えてて困りますね…。
昔はミニスカスーツの女性がラッセン専用ギャラリーの呼び込みやってた。友人は「自分への投資ですよ」とか言ってローンを勧められたらしい(購入はしてない)。
むしろ「ギャラリーフェイク」が参考文献に入ってるべきね
ビリー・ワイルダーをモデルにした主人公の小説があってその参考文献に和田誠の著作がなかったとしても和田さんから何かアクションがある訳がない。そもそも書評を依頼した共同通信から間違っている。
北条裕子『美しい顔』の騒動を思い出す。
この推測が正しければ「ご指摘は当たらない」で全ツッパできたはずなのに、「図書館で借りたけど読んでない」と釈明したのは意味あった?という話にしかならないと思うが。
1990年頃、『美術の窓』誌がインテリア版画・インテリア絵画としてホックニー等の版画を紹介、誌上頒布した辺りが始まりだと思っていた。当時は売り文句だった。
さんざん盗用だ物語の収奪だと騒いでおいて旗色が悪くなったら推測の話だしとか、著作権の話はしてないしみたいなブコメに星が集まるのはなんだかなぁ。件のまとめでは今も作者を「姑息」と評するブコメがトップだよ
“現在のXの論調は篠田に「原田裕規の本を読んでいないことの明証を要求する」という悪魔の証明の要求になっている。” 原田本人が悪魔の証明要求しているなんてどこにも書いてないよ。読解力大丈夫か?
“必要なのは原田が「篠田は間違いなく自分の編著書を読んだ」という動かぬ証拠を提示すること” 読んでなくても書けそうだと言った通り https://b.hatena.ne.jp/entry/4777959350922294625/comment/WinterMute
ラッセンはエウリアンの商売道具オタクの敵
“一人では自分が確証バイアスに陥っていることに気づけないことも多く、多様な人と意見交換することも確証バイアスに気づく助けになる”
"フィクション作品のプロット(ry)のレベルならば、現行の著作権法とその判例では保護対象にならない"
「学術論文だったらこのリサーチ見落とし一発でアウト」「アイデアは著作権法で保護されない」「図書館で借りはしたけど読まずに返したというのは、私もちょくちょくやる」/集英社が全面反論してるからなあ。
「ギャラリーフェイク」の指摘だけでも価値ある記事と思うが、プラス、小説構想のきっかけがラッセンであり篠田はそれを隠していないことを、リンク先の刊行記念インタビューで初めて知った
ま、昔から掛け軸はアートレベルからインテリア用まで幅広く流通してたよね。
“「ラッセン? ああ、どんどん使って面白いもん作ってよ! いちいち俺たちの了解なんか取りに来なくて良いから。頑張れよ!」くらいの鷹揚な構えでも良いのではなかろうか”
はてブでもパクリだと騒ぎ篠田と集英社悪く言ってたのに実際にギャラリーフェイクで使ってましたねと知ってそうなタイトルで挙げられただけで先日の叩きノリが反転してるの何。読んでないけど悪いに違いない認定?
ndlサーチすると 雑誌 美術の窓 巻号 10(6)(103) (1991-6)に「連載 インテリア絵画」という連載がある。 「絵画・美術品投資入門 第3の財テク」(1990-9) 「版画の買い方 : マイインテリアアート」(1990-12)にも「インテリア絵画」
そもそもホワイトキューブ内ではなく、インテリアとして飾られるのが、本来の絵画のあるべき姿では。(本論とは関係ない。)
普通の編集者なら「原田先生書評ご恵投ありがとうございます!篠田も知らないことばかりでした!ぜひ対談プロモ組みましょう!」と動くはずなのでまあ。文壇とか評論と応答可能性ってそういうものだったでしょ
そう、ラッセンは広く軽視され揶揄されていた。その評価に疑問を抱き、調査研究した美術家の著書を、徹底的な取材で知られる作家がご存じないっていうサスペンスなんょ…
内容よりも読みやすく、頭に入ってきやすい段組みとかデザインとか、洒落てる
依然として蓋然性はある話だとは思うし、どうやってもお互い譲らなければ平行線だとも思うけどね。悪魔の証明って便利だけどさ、「絶対に読んだという証拠を提示せよ」も、悪魔の証明と大して変わらないよね。
ちなみに松本零士氏は裁判で決着ついたあとも「一言謝ってほしかった」って言ってたらしい(ウィキペ)|直近の作を敢えて読まずに作るのは(学術論文ならアウトだが)小説ならありだと思う
インテリア・アートという語彙に既視感があったのだが、そういえばなるほど確かにギャラリーフェイクにあったなあ。それを踏まえて改めて原田氏の当該主張を読むと、ちょっと勇み足というかイキりすぎやなとは思う。
小説に参考文献なんか載せるからこうなるんじゃないか、という気はしてしまったな。//原田の主張はひたすらに因果が逆で、「ラッセンを取り巻く事実を書いたから同じになりました」というだけにしか見えないなあ。
クリスチャン・ラッセンと「インテリア絵画」という語彙(それは1993年には存在していた)
“原田””がギャラリーフェイクのこのエピソードを知らなかったことが興味深い”篠田はラッセンブームリアタイ勢なので、当時の業界で「インテリア絵画」という言葉が使われていたことを””知っている可能性も”
Google booksで検索したら、1992年のフォーサイト誌に「インテリア絵画」についての「カシニョール、ヤマガタなど」「質屋に流れる」という記事があったらしい。ギャラリーフェイクの元ネタはこれかな。
私もラッセンの見られ方は昔から有名だったような…と思ってたけどギャラリーフェイクにあったか
全くそのとおり。集英社が「われわれが必死に止めたにも関わらず原田さんには勝手に書評で事実無根のデマを拡散され誠に遺憾です」と述べてるのは何の疑問の余地なく正しい
然り
“「インテリア絵画」とハワイ日系移民の墓石の向きについて、篠田の小説が原田の本にのみ依拠していると断定することは不可能である”
興味深い。
“SNSで騒いだところでどうにもならないだろう”
原田がXで(集英社は聞かれてないって言ってるが)「直接聞いたら図書館で借りたって”集英社に“言われた、読んでないなんて納得いかねー」とか言うからやで。著作権も剽窃も外野が喚いているだけのもんやな。
まったく馬鹿らしい話だと思うのでこっちにブクマしとくか。
「庶民、俗物が背伸びして意識高くあろうとした結果として行きつく陳腐」という文脈において、クーリッジの『ポーカーをする犬』あたりからさんざん擦られてる概念よね。ラッセンもその延長。キッチュ。
なるほどなるほど。https://togetter.com/li/2617698 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2617698 https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/yuki-harada-Lassen-202510 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.tokyoartbeat.com/articles/-/yuki-harada-Lassen-202510
つまり、125億円のゴッホの絵より、パブロピカソは死ぬまで上り坂だったらしいね、僕はピカソに憧れてるんだ
本件、原田側の炎上商法が無理筋・露骨すぎ、篠田側のアナクロな文壇ムーブに繋がったように見える。「合法ゲス対決」みたいな構図で、正直、両方読む気なくしちゃった。
原田氏本人は推測に過ぎないと認めているのになぜか「悪魔の証明を要求している」ことにされてる。とりわけ著作権の話なんか全くしてないのにいちいち著作権的には問題ないと書く人が次々に出てくるのはなぜ?
どちらも読んでさえない人がなぜか騒いで一方的に非難してるよね、アイデアの問題と言われてるのに「共通の部分」とか「コピぺ」とか言ってる人もいたし
そう言われると、アート側に概念はなくても百貨店やインテリアショップで「インテリア用」として売られてるタイプの絵画は昔からあるし、「インテリア絵画」って世間では普通に通用してた気はする。
身内との会話から着想したとしても、同じテーマの出版物は読んでおかないと、追求する思考の変遷などが同じになる虞があるだろう。自分もこれを書いたときは洋書なども取り寄せた。https://kakuyomu.jp/works/4852201425154950783
ラッセンのタペストリー持ってた。ブラインド代わりに何年も窓に掛けてたのに、焼けたり色褪せたりしなかったのがすごい。
これもまた憎悪を煽ると金になるプラットフォームに根源がある問題のひとつの現れかと。こうして識者が論拠の正当性を検証した結果をすぐに提示できる機能も併せ持つのだが、憎悪と違って簡単には拡散しない。
犬笛型のデマを起点にした名誉毀損の判例も出たし、書評の本人も名誉毀損食らってもしゃーないんじゃない
最近こういう話の落とし所がわからなくなってきた。
これは無理があるわね。先行研究不足 / “ラッセンやヒロ・ヤマガタなど一般層への販売に重きを置いた作品群を指す言葉がなかったため、〜『インテリア・アート』という言葉を意識的に使い始めました”
よいまとめ
“研究論文が注をうち出典を示すのは、「この論文ではこの文献に示された内容を事実として扱う」、つまり論証のアウトソーシングをするからだ。小説は事実を組み合わせて論証を行う文章ではないので、このような論証
自分で読み比べての意見ならともかく、伝聞に依拠した批判はいつでも梯子を外されうるからなぁ。
ラッセンといえばスナックのトイレとバニングカー
推測に過ぎないが、読んではいたんじゃないか。ただ、がっつり参考図書にするなら図書館で済ませずに買うだろうから、たくさん読んだ中の一冊で、ラッセンの名前は出せないという事情が(今でも)ありそう。
最近Braveで見れないサイトが増えてて困りますね…。
昔はミニスカスーツの女性がラッセン専用ギャラリーの呼び込みやってた。友人は「自分への投資ですよ」とか言ってローンを勧められたらしい(購入はしてない)。
むしろ「ギャラリーフェイク」が参考文献に入ってるべきね
ビリー・ワイルダーをモデルにした主人公の小説があってその参考文献に和田誠の著作がなかったとしても和田さんから何かアクションがある訳がない。そもそも書評を依頼した共同通信から間違っている。
北条裕子『美しい顔』の騒動を思い出す。
この推測が正しければ「ご指摘は当たらない」で全ツッパできたはずなのに、「図書館で借りたけど読んでない」と釈明したのは意味あった?という話にしかならないと思うが。
1990年頃、『美術の窓』誌がインテリア版画・インテリア絵画としてホックニー等の版画を紹介、誌上頒布した辺りが始まりだと思っていた。当時は売り文句だった。
さんざん盗用だ物語の収奪だと騒いでおいて旗色が悪くなったら推測の話だしとか、著作権の話はしてないしみたいなブコメに星が集まるのはなんだかなぁ。件のまとめでは今も作者を「姑息」と評するブコメがトップだよ
“現在のXの論調は篠田に「原田裕規の本を読んでいないことの明証を要求する」という悪魔の証明の要求になっている。” 原田本人が悪魔の証明要求しているなんてどこにも書いてないよ。読解力大丈夫か?
“必要なのは原田が「篠田は間違いなく自分の編著書を読んだ」という動かぬ証拠を提示すること” 読んでなくても書けそうだと言った通り https://b.hatena.ne.jp/entry/4777959350922294625/comment/WinterMute
ラッセンはエウリアンの商売道具オタクの敵
“一人では自分が確証バイアスに陥っていることに気づけないことも多く、多様な人と意見交換することも確証バイアスに気づく助けになる”
"フィクション作品のプロット(ry)のレベルならば、現行の著作権法とその判例では保護対象にならない"
「学術論文だったらこのリサーチ見落とし一発でアウト」「アイデアは著作権法で保護されない」「図書館で借りはしたけど読まずに返したというのは、私もちょくちょくやる」/集英社が全面反論してるからなあ。
「ギャラリーフェイク」の指摘だけでも価値ある記事と思うが、プラス、小説構想のきっかけがラッセンであり篠田はそれを隠していないことを、リンク先の刊行記念インタビューで初めて知った
ま、昔から掛け軸はアートレベルからインテリア用まで幅広く流通してたよね。
“「ラッセン? ああ、どんどん使って面白いもん作ってよ! いちいち俺たちの了解なんか取りに来なくて良いから。頑張れよ!」くらいの鷹揚な構えでも良いのではなかろうか”
はてブでもパクリだと騒ぎ篠田と集英社悪く言ってたのに実際にギャラリーフェイクで使ってましたねと知ってそうなタイトルで挙げられただけで先日の叩きノリが反転してるの何。読んでないけど悪いに違いない認定?
ndlサーチすると 雑誌 美術の窓 巻号 10(6)(103) (1991-6)に「連載 インテリア絵画」という連載がある。 「絵画・美術品投資入門 第3の財テク」(1990-9) 「版画の買い方 : マイインテリアアート」(1990-12)にも「インテリア絵画」
そもそもホワイトキューブ内ではなく、インテリアとして飾られるのが、本来の絵画のあるべき姿では。(本論とは関係ない。)
普通の編集者なら「原田先生書評ご恵投ありがとうございます!篠田も知らないことばかりでした!ぜひ対談プロモ組みましょう!」と動くはずなのでまあ。文壇とか評論と応答可能性ってそういうものだったでしょ
そう、ラッセンは広く軽視され揶揄されていた。その評価に疑問を抱き、調査研究した美術家の著書を、徹底的な取材で知られる作家がご存じないっていうサスペンスなんょ…
内容よりも読みやすく、頭に入ってきやすい段組みとかデザインとか、洒落てる
依然として蓋然性はある話だとは思うし、どうやってもお互い譲らなければ平行線だとも思うけどね。悪魔の証明って便利だけどさ、「絶対に読んだという証拠を提示せよ」も、悪魔の証明と大して変わらないよね。
ちなみに松本零士氏は裁判で決着ついたあとも「一言謝ってほしかった」って言ってたらしい(ウィキペ)|直近の作を敢えて読まずに作るのは(学術論文ならアウトだが)小説ならありだと思う
インテリア・アートという語彙に既視感があったのだが、そういえばなるほど確かにギャラリーフェイクにあったなあ。それを踏まえて改めて原田氏の当該主張を読むと、ちょっと勇み足というかイキりすぎやなとは思う。
小説に参考文献なんか載せるからこうなるんじゃないか、という気はしてしまったな。//原田の主張はひたすらに因果が逆で、「ラッセンを取り巻く事実を書いたから同じになりました」というだけにしか見えないなあ。