“「愛は飾らない」のキャッチコピーが印象的でしたよね。今でもパッケージには華美なデザインはなくシンプルがイメージです。”
最近の白黒パッケージとも少し似ていて、余計なものを省いてる。
ちゃんとしたものがお値打ちでってのが無印だったけど今では無印よりもちゃんとした出来のメーカーブランド品のほうが質が担保できる雰囲気。スーツケースなんかデカいやつはふにゃふにゃのペラペラだし。
堤清二はむしろ反資本主義の皮で資本主義をやりたかっただけなんじゃないかなと思う。そういう意味で斎藤幸平が着るべきはマルジェラじゃなくて無印
使用価値のみ云々ではなく消費者からしたら単にアホみたいに高くないシンプル路線が欲しかっただけのように思われる
カレー屋さんじゃないの?
ブランドを打破しようとした存在がブランドとして確立していくケースはたまに見られる。
無印がブランド化してしまったって話題、今年に入ってからもう何回も見たような気がする
無印良品は商品にブランドロゴを入れないいわゆるノーブランドの草分けで20年以上のロングセラー商品多数と普遍性があるのも嬉しい。今の状況だけで優劣を判断するのはどうかなと思う
都心部で飽きられたからガンガン地方に進出してるんやで
アンチブランドとして始まった無印が、いまや一大ブランドとして記号消費されてるの皮肉
無印よりスタプロのほうがよっぽど良いもの
無印良品が苦しくなるのは無印的なるものが上にも下にも伝播してってるってことなので、むしろ望むところなのでは
80年代の「思想」なんてそれ自体が "ファッション" 的だった気はしますがね。無意味にシリアスでなかったというべきか
思想強めな家だとてきめんに合うんだよなあ
思想がつよいというより思想の結晶だから
無印なのにパクリが現れるほどブランド化するのは皮肉を感じるよね。でも主張しないシンプルデザインは好き。
初期の無印(90年代前半)については「サクサク魚肉ソーセージ」と言う商品が超絶不味かった事しか覚えてない。
無印良品の家とかまさにブランド化のイメージ。気に入ってる商品もあります。でも昔買ったサーキュレーターはファンの軸がブレてて本体が微妙に振動するぐらいのクオリティだったので得意不得意はあるなと。
最初行ったとき、透明袋に単色商品説明だけ書いて「不要なデコレーションして価格上げるな!」って思想強めな感じだったな。変な感じだったけど、今じゃそれが普通になったんだからイイことだと思うよ。
記号論やボードリヤールをちゃんと理解していたら「使用価値」や「無印」がブランドに転化することは必然だと分かるはず。最初から反資本の衣を纏った資本主義の貫徹だと思っていたが
近年の出店姿勢は反資本主義を感じるよ、資本効率考えれば無理目な地方都市にも出店してて好感がもてる
セゾン系は郊外店がダメなイメージ。無印も練馬店は潰れたが、地方行くと意外にある。でも、何か中途半端。根本的にはこういう都市部の言葉遊びが関係していると思う。
当初は西友で細々と売られていたくらいだから。対抗したのかだいぶ遅れて私鉄系スーパーが集まって八社会というのを立ち上げて、今でも各社のPBとして続いてるわな。
堤清二は日テレ会長にもなった氏家とともにバリバリの共産党員だったんだよな。
ある程度ブランド化して独立した企業になった初期(の西友の役員さんがやってた頃)と比べても、今は別次元だよね。。
反資本主義はロングセラーの売れ筋商品だからな
APCもマルジェラも似たようなものだと認識してる。
たいていの商品は、使用価値のみで売れるだろ?装飾とか、ストイックな消費という価値も、使用価値ではないですか?イメージで、言葉を破壊しないでほしいなあ。それは資本の論理そのものだと思うけど。
まあまあ高級ブランドになってるのは、違和感あるのよね。
西友の店頭に並んだ当初は、「わけあって、安い」みたいなキャッチコピーがついてた記憶。今でも文房具は安くて良い品が多いと思う。
80年代というのは“ニューアカ(ニューアカデミズム)”なんて言葉が生まれ、小難しげな思想がファッションのように消費された時代かと。一方、糸井重里が“おいしい生活”なんて西武百貨店のコピー作ったのが82年
「思想が強い」ってネガティブな文脈で使われがち?どんなプロダクトでも思想はあるし、成功したプロダクトはどれも「思想」は強いよね。
無印は「印」を無くしたメーカー型落ち品があるので家電など専門的な技術が必要な商品はあまりオススメしない。それでも印を無くしたから「全て揃えると簡単に統一感がでる」のは無印だけの強みだよね
堤清二は共産党の広告の応援メッセージの常連。資本主義の権化だった親父からの反動である。宮中歌会の召人でもある。貴族左派。無印は「品質的にも価格的にもエコロジー的にも無難なもの」という安心感の記号
言葉に釣られ、0か1かで、現在のみを見てるとこういう誤解に陥る。1980年当時の「ブランド」と、現在の「ブランド」はまったく文脈として異なる。無印は大して変わらず、客や競合他社が変わり無印に寄っただけでは。
無印って昔は質が良かったけど最近は質が下がってる気がする
ブランド化は自覚的にやってるように見えるけどなぁ
「使用価値」ユニクロも当初はフリースやエアリズム等でそんな感じだった。あらゆる経済行為は資本主義に飲み込まれていくのだよ。
系列からは離れたファミマが似たようなことしてうまくいってるのも面白い。
スパークリングジュースは粉末が沈殿してる。
記号消費や結局は巡って記号消費になる反・記号消費が思想だとすると、いまどき流行りの「コスパ」や「タイパ」も思想。自分の中で当たり前になって意識していないだけ。とにかく気に入ったものを買えばいいよ。
“しかし皮肉なことにそれ自体がブランド化してしまった” でも、今は違う(ギュってこと?
マルジェラも同じ
今の無印のブランド価値とか商品の出来やコスパはともかく、「それなら無印にある」を一手に引き受けてくれるのは無印で買わない人にとってもいいことだと思う。
子供の頃、文通に使うレターセットが頻繁にはお小遣いで買えず。無印は質素でおしゃれなのに安価で、無駄を省いたとのアピールは安物だから使ってるのではないという自尊心を心地よく煽ってくれて、愛用してた。
無印良品がはじまった1980年12月ってダイエーの「セービング」もはじまったんだよね。片や親から独立して発展し、かたや早々に消えやがて親も滅びるという対照的な結果に
ヴェルサーチの対極って感じだったけどこれも恋愛のアナロジーだけどな。交換価値を考えるほうが卑怯だけど。
この枠は100円ショップが担っている。 しかしそれですら価値付けしようとしているが。まあスリコはすっかりブランド化したしね。
“無印は良品だと思ってたが、得意分野は家具であって衣類は苦手だとか。80年代後半から90年代の半ばでは西友でも取り扱ってました。”
昔、妻が無印を「西友のPB」と呼んでいて、いい人と結婚したなと思った。
無印良品は1980年、西武百貨店の堤清二が「反『資本』の論理」として使用価値のみで売れる商品を作ろうと誕生させた…しかし皮肉なことにそれ自体がブランド化してしまった
“「愛は飾らない」のキャッチコピーが印象的でしたよね。今でもパッケージには華美なデザインはなくシンプルがイメージです。”
最近の白黒パッケージとも少し似ていて、余計なものを省いてる。
ちゃんとしたものがお値打ちでってのが無印だったけど今では無印よりもちゃんとした出来のメーカーブランド品のほうが質が担保できる雰囲気。スーツケースなんかデカいやつはふにゃふにゃのペラペラだし。
堤清二はむしろ反資本主義の皮で資本主義をやりたかっただけなんじゃないかなと思う。そういう意味で斎藤幸平が着るべきはマルジェラじゃなくて無印
使用価値のみ云々ではなく消費者からしたら単にアホみたいに高くないシンプル路線が欲しかっただけのように思われる
カレー屋さんじゃないの?
ブランドを打破しようとした存在がブランドとして確立していくケースはたまに見られる。
無印がブランド化してしまったって話題、今年に入ってからもう何回も見たような気がする
無印良品は商品にブランドロゴを入れないいわゆるノーブランドの草分けで20年以上のロングセラー商品多数と普遍性があるのも嬉しい。今の状況だけで優劣を判断するのはどうかなと思う
都心部で飽きられたからガンガン地方に進出してるんやで
アンチブランドとして始まった無印が、いまや一大ブランドとして記号消費されてるの皮肉
無印よりスタプロのほうがよっぽど良いもの
無印良品が苦しくなるのは無印的なるものが上にも下にも伝播してってるってことなので、むしろ望むところなのでは
80年代の「思想」なんてそれ自体が "ファッション" 的だった気はしますがね。無意味にシリアスでなかったというべきか
思想強めな家だとてきめんに合うんだよなあ
思想がつよいというより思想の結晶だから
無印なのにパクリが現れるほどブランド化するのは皮肉を感じるよね。でも主張しないシンプルデザインは好き。
初期の無印(90年代前半)については「サクサク魚肉ソーセージ」と言う商品が超絶不味かった事しか覚えてない。
無印良品の家とかまさにブランド化のイメージ。気に入ってる商品もあります。でも昔買ったサーキュレーターはファンの軸がブレてて本体が微妙に振動するぐらいのクオリティだったので得意不得意はあるなと。
最初行ったとき、透明袋に単色商品説明だけ書いて「不要なデコレーションして価格上げるな!」って思想強めな感じだったな。変な感じだったけど、今じゃそれが普通になったんだからイイことだと思うよ。
記号論やボードリヤールをちゃんと理解していたら「使用価値」や「無印」がブランドに転化することは必然だと分かるはず。最初から反資本の衣を纏った資本主義の貫徹だと思っていたが
近年の出店姿勢は反資本主義を感じるよ、資本効率考えれば無理目な地方都市にも出店してて好感がもてる
セゾン系は郊外店がダメなイメージ。無印も練馬店は潰れたが、地方行くと意外にある。でも、何か中途半端。根本的にはこういう都市部の言葉遊びが関係していると思う。
当初は西友で細々と売られていたくらいだから。対抗したのかだいぶ遅れて私鉄系スーパーが集まって八社会というのを立ち上げて、今でも各社のPBとして続いてるわな。
堤清二は日テレ会長にもなった氏家とともにバリバリの共産党員だったんだよな。
ある程度ブランド化して独立した企業になった初期(の西友の役員さんがやってた頃)と比べても、今は別次元だよね。。
反資本主義はロングセラーの売れ筋商品だからな
APCもマルジェラも似たようなものだと認識してる。
たいていの商品は、使用価値のみで売れるだろ?装飾とか、ストイックな消費という価値も、使用価値ではないですか?イメージで、言葉を破壊しないでほしいなあ。それは資本の論理そのものだと思うけど。
まあまあ高級ブランドになってるのは、違和感あるのよね。
西友の店頭に並んだ当初は、「わけあって、安い」みたいなキャッチコピーがついてた記憶。今でも文房具は安くて良い品が多いと思う。
80年代というのは“ニューアカ(ニューアカデミズム)”なんて言葉が生まれ、小難しげな思想がファッションのように消費された時代かと。一方、糸井重里が“おいしい生活”なんて西武百貨店のコピー作ったのが82年
「思想が強い」ってネガティブな文脈で使われがち?どんなプロダクトでも思想はあるし、成功したプロダクトはどれも「思想」は強いよね。
無印は「印」を無くしたメーカー型落ち品があるので家電など専門的な技術が必要な商品はあまりオススメしない。それでも印を無くしたから「全て揃えると簡単に統一感がでる」のは無印だけの強みだよね
堤清二は共産党の広告の応援メッセージの常連。資本主義の権化だった親父からの反動である。宮中歌会の召人でもある。貴族左派。無印は「品質的にも価格的にもエコロジー的にも無難なもの」という安心感の記号
言葉に釣られ、0か1かで、現在のみを見てるとこういう誤解に陥る。1980年当時の「ブランド」と、現在の「ブランド」はまったく文脈として異なる。無印は大して変わらず、客や競合他社が変わり無印に寄っただけでは。
無印って昔は質が良かったけど最近は質が下がってる気がする
ブランド化は自覚的にやってるように見えるけどなぁ
「使用価値」ユニクロも当初はフリースやエアリズム等でそんな感じだった。あらゆる経済行為は資本主義に飲み込まれていくのだよ。
系列からは離れたファミマが似たようなことしてうまくいってるのも面白い。
スパークリングジュースは粉末が沈殿してる。
記号消費や結局は巡って記号消費になる反・記号消費が思想だとすると、いまどき流行りの「コスパ」や「タイパ」も思想。自分の中で当たり前になって意識していないだけ。とにかく気に入ったものを買えばいいよ。
“しかし皮肉なことにそれ自体がブランド化してしまった” でも、今は違う(ギュってこと?
マルジェラも同じ
今の無印のブランド価値とか商品の出来やコスパはともかく、「それなら無印にある」を一手に引き受けてくれるのは無印で買わない人にとってもいいことだと思う。
子供の頃、文通に使うレターセットが頻繁にはお小遣いで買えず。無印は質素でおしゃれなのに安価で、無駄を省いたとのアピールは安物だから使ってるのではないという自尊心を心地よく煽ってくれて、愛用してた。
無印良品がはじまった1980年12月ってダイエーの「セービング」もはじまったんだよね。片や親から独立して発展し、かたや早々に消えやがて親も滅びるという対照的な結果に
ヴェルサーチの対極って感じだったけどこれも恋愛のアナロジーだけどな。交換価値を考えるほうが卑怯だけど。
この枠は100円ショップが担っている。 しかしそれですら価値付けしようとしているが。まあスリコはすっかりブランド化したしね。
“無印は良品だと思ってたが、得意分野は家具であって衣類は苦手だとか。80年代後半から90年代の半ばでは西友でも取り扱ってました。”
昔、妻が無印を「西友のPB」と呼んでいて、いい人と結婚したなと思った。