脳出血を患われたとのことだが、中島義道らしさは健在。”「私」と世界はまったく違うのだけれども、同一なのです[…]「私」はない。けれど、意識という目に見えない作用が確かに働いている。”
哲学者でも死に対する恐怖って人並みにあるのかと意味不明な事を考えてしまった
グロテスクにもたれあい、慰めあう人を見なければ、寿命を全うする終末に向かって言葉を失っていく自分との向き合いに統合失調に向かい、その偏屈ジジィを眺める介護者に、皮肉な微笑みを与えることができるだろう。
中島先生ぽいと思ったら本人だった。もう80歳か
「私」という普遍の制度を通じて,世界と繋がっている。
死が不可逆だからこそ人間には倫理的な重みが発生する。AIには肉体・死・時間(不可逆性)が無いから、内在的な倫理を持つことができない。/西洋哲学、資本主義も従来の思想の限界が露呈し転換し始めている。
自分の意識や存在、自分を通して見る世界の認識もすべてが不確かな錯覚というのは多分そうなんだと思う。その年齢になれば絶望ではなく慰めになるんだろうか
身体性や社会性が加齢とともに離れていってすごく禅っぽい考え方によってきたね。
“そして、この「私の死後の世界も物自体もわからない」ということ自体が、実は救いでもあるのです。”わからないことが怖いのに歳を取るうちに死を許容し受け入れていけるのか……
“私自身、脳出血を患って身体が不自由になったことで、人間はいかに脳に依存しているかを痛感させられました。”
こんな人もデイサービスで支援しなければいけないとは、福祉とは実に大変だな。とはいえ身体は不自由でも頭がしっかりしているなら、まだ救いかもしれない。逆は恐ろしい/ 心が普遍的内在とするのは西洋独自とはね
中島義道節が炸裂してる。身体が不自由になって「私は体の中にいる」が錯覚と気づく境地。老いと絶望のリアリティが凄まじいな
生きとったんか。まだまだ生きて欲しいなこの人には
心の構造はかなりわかっている。「私」は行動の決定者ではなく,体や脳で起きている出来事の「観察者」である。私は私の脳の中にいて,自分の行動と感情を観察している存在だ。
脳出血で倒れたのは知っていたが、思考はちゃんとできるみたいだ。まだまだ、あんたの語りを読みたいので、もうちょっとでいいから頑張ってくれよな。
心は不在で身体性と同一化するという、別な議論もある。ただ年老いて身体性が失われるとその精神性はどこから来るのかと問い、無や空やなんとかかんとかとりあえず何も分からずに我々は一生を終えるのだ。
なんとなく、死の距離が近くなってくる頃には、成熟してそれを受け入れるイメージだったけど、普通にニヒリズムに陥ることもあるんだ。ってことを我々に突きつけているんじゃないかなと予想。
にわかだけどインド哲学もだいたい同じような考え。私たち脳みそでただ定義、意味づけしてるだけの世界
方法的懐疑のデカルトもこの人も、言葉を疑わないあたり片手落ちだよなって思った
ぎどう先生ももう80か。
なるほど / それはそれとして薬が効くなら薬は貰ったほうが良いと思うし、対話して治る程度のメンタルなら対話した方が良きかなと
“ただ、家内が死んだら困るな、姉や妹が死んだら困るな、という心配だけはある。” 自分の面倒をみてくれる人がいなくなるからね。やれやれだぜ。
死んだら無、この虚無感。FF6ケフカのセリフ「死ぬとわかっていてなぜ生きようとする?死ねばすべて無になってしまうのに」と響き合う。日野原重明が診た、死に近づく鈴木大拙の最期のエピソードでふわりと軽くなった
死ぬのがあまり嫌ではなくなった"戦う哲学者"が、じわじわとわかるようになった「私はこの体の中にいる」という幻想
脳出血を患われたとのことだが、中島義道らしさは健在。”「私」と世界はまったく違うのだけれども、同一なのです[…]「私」はない。けれど、意識という目に見えない作用が確かに働いている。”
哲学者でも死に対する恐怖って人並みにあるのかと意味不明な事を考えてしまった
グロテスクにもたれあい、慰めあう人を見なければ、寿命を全うする終末に向かって言葉を失っていく自分との向き合いに統合失調に向かい、その偏屈ジジィを眺める介護者に、皮肉な微笑みを与えることができるだろう。
中島先生ぽいと思ったら本人だった。もう80歳か
「私」という普遍の制度を通じて,世界と繋がっている。
死が不可逆だからこそ人間には倫理的な重みが発生する。AIには肉体・死・時間(不可逆性)が無いから、内在的な倫理を持つことができない。/西洋哲学、資本主義も従来の思想の限界が露呈し転換し始めている。
自分の意識や存在、自分を通して見る世界の認識もすべてが不確かな錯覚というのは多分そうなんだと思う。その年齢になれば絶望ではなく慰めになるんだろうか
身体性や社会性が加齢とともに離れていってすごく禅っぽい考え方によってきたね。
“そして、この「私の死後の世界も物自体もわからない」ということ自体が、実は救いでもあるのです。”わからないことが怖いのに歳を取るうちに死を許容し受け入れていけるのか……
“私自身、脳出血を患って身体が不自由になったことで、人間はいかに脳に依存しているかを痛感させられました。”
こんな人もデイサービスで支援しなければいけないとは、福祉とは実に大変だな。とはいえ身体は不自由でも頭がしっかりしているなら、まだ救いかもしれない。逆は恐ろしい/ 心が普遍的内在とするのは西洋独自とはね
中島義道節が炸裂してる。身体が不自由になって「私は体の中にいる」が錯覚と気づく境地。老いと絶望のリアリティが凄まじいな
生きとったんか。まだまだ生きて欲しいなこの人には
心の構造はかなりわかっている。「私」は行動の決定者ではなく,体や脳で起きている出来事の「観察者」である。私は私の脳の中にいて,自分の行動と感情を観察している存在だ。
脳出血で倒れたのは知っていたが、思考はちゃんとできるみたいだ。まだまだ、あんたの語りを読みたいので、もうちょっとでいいから頑張ってくれよな。
心は不在で身体性と同一化するという、別な議論もある。ただ年老いて身体性が失われるとその精神性はどこから来るのかと問い、無や空やなんとかかんとかとりあえず何も分からずに我々は一生を終えるのだ。
なんとなく、死の距離が近くなってくる頃には、成熟してそれを受け入れるイメージだったけど、普通にニヒリズムに陥ることもあるんだ。ってことを我々に突きつけているんじゃないかなと予想。
にわかだけどインド哲学もだいたい同じような考え。私たち脳みそでただ定義、意味づけしてるだけの世界
方法的懐疑のデカルトもこの人も、言葉を疑わないあたり片手落ちだよなって思った
ぎどう先生ももう80か。
なるほど / それはそれとして薬が効くなら薬は貰ったほうが良いと思うし、対話して治る程度のメンタルなら対話した方が良きかなと
“ただ、家内が死んだら困るな、姉や妹が死んだら困るな、という心配だけはある。” 自分の面倒をみてくれる人がいなくなるからね。やれやれだぜ。
死んだら無、この虚無感。FF6ケフカのセリフ「死ぬとわかっていてなぜ生きようとする?死ねばすべて無になってしまうのに」と響き合う。日野原重明が診た、死に近づく鈴木大拙の最期のエピソードでふわりと軽くなった