転の意味がわからんと常々思っている
「文化圏」ごとに異なる5つの文章構造
論点ずらしのブコメの達人たちは、なるほど、日本の文化を体現しているわけか
専門家の方からすると、物語としての起承転結と論理性を示さなければならない書き物でも同じ土俵のものとなるのかな?たぶんこの方が体験したエッセイを書くという行為の意義が東洋と西欧で違うとかだったのでは。
起承転結って物語の構造の類例であって論理的文章に適用すべきものではないのでは
エッセイの定義が違うんじゃないかな?。随筆を書いてしまったのだろう。たぶん示されてたのは小論文なのでは
「結論を最初に書け」は英語圏に限らないと思う。相手側の時間は有限だから、読む必要があるか否かをまず確認させなければならない。
論理的思考とは何か 渡邉雅子 という本オススメ 結局人間の弁論は地域ごとのフォーマットに従う必要があるぐらいの最低限の客観性は持っておいたほうがいいと思う
『一方、欧米をはじめとする多くの国では、書き手に責任があるとされます。こうした文化では、コミュニケーションの透明性や明確さが重視され、読み手が迷わずに内容を理解できるようにすることが重要とされます』
起結で、あとはオマケでよい
文学だと英語圏でも起承転結だし、論文だと日本でも直線でしょ…?
論点のある文章に起承転結なんて使えるわけがない。日本流じゃなくて、この人の自己流。(この記事自体がそうだけど)論点のずれた文章を書く人が論点がずれていると言われた、というだけの話。
「理科系の作文技術」を思い出す。二冊も買ったぞ。一回しか読まないのに
この人の年齢だと30数年前の出来事だと思うのでそんなもんでは。日本で英文の論理構造が常識になったのは21世紀になってからなんじゃないか。『理科系の作文技術』は1981年か。他の3類型も興味深い。逸脱的って弁証法か
アメリカの言語学者であり異文化間の文章表現や修辞学の研究で知られるロバート・カプランの文章構造の違いに関する理論は文化ごとに異なる文章の特徴を明らかにし、異文化間のコミュニケーションにおける視点を提供
英語圏の話はたぶんテクニカルライティングのことを話してるのかな?と思った
「論理的思考とは何か」でも、アメリカ型以外に、フランス型、日本型、イラン型…と分類し、それぞれの文化で「論理的」とみなされる型の違いを論じてた。確かに弁証法のスタイルとかはアメリカだとバツになりそう。
″英語圏の文章では、論理が明確で直線的に展開されます″ イギリスとアメリカとシンガポールでは、かなりこの辺が違う気がするが。「言語」ではなく「その国で良しとされる文章構成」ではないか?
エッセイを求められる大学の学部というのがピンと来ないが教授に怒られたってことは求められてたのはエッセイじゃないのでは?理工系ならレポートでも結論アブストから入るのが一般書式だし
まあ日本人は論理というものをあまり信用していないかもしれない。自然科学的な文脈では信用するけど、他の分野でのそれは弁論術の一種にすぎないよね、みたいな。
漢詩書くのとエッセイとはそりゃ別物だわな
多民族で移民も多い英語圏はハイコンテクストな語法は通用しない。接続詞の多義性・用法・頻度やセンテンスの粒度も英語と日本語で差がある気がする。ブクマカの言う「論理的な文章」でも多寡の差はあれど同じでは。
この教授が論理的な文章を書けないという話でしかなさそう。カプランと起承転結は全く別の話だし、起承転結と空気を読むも関係がない。日本語の特殊性はだから何なのかという内容。そして突然に文章が終わっている。
この人の起承転結が何を指しているのか分からなかったけど英語圏の言葉は自分の主張を伝えることを目的として発達してるはずなのでそれと比べると日本語は意味不明かもしれない
物語と論文を混同しているなら、そら論点がずれてると評価されるだろうよ。
物語を語るならば起承転結のカタチとなるだろうが、仕事でのやりとりなど論理的に話すべき場面でそれを語る、PREP法で話さないなら、そりゃ論点がズレていると評されるのも当然ですよ。
起承転結は螺旋じゃないし、日本の学校の作文指導だって起承転結なんて言わないぞ。小学校では「はじめ(問題提起)」「なか(具体例・論証)」「おわり(結論)」の構成で書けと教える。
小論文なら序論本論結論
ちなみにエッセイも本来は論説文で日本の随筆ではない。随筆は平安時代って言う世界でも稀有な長期平和が生んだ特異なジャンル。
英語圏に転とかオチみたいなのは無い気がするけど、途中めっちゃ関係ないジョークが挟まるのが嫌。論点がズレるというより、萎える。
別に論点はずれてなかった
学校では起承転結で文章を書けと散々いわれるのに、社会にでると結論ファーストで書けって言われるんだよね
はてブやTwitter、チャットなどの短文形式が流行っとるからなあ。文化圏で異なる文章構造は収束していきそうな気もする。短文では結論を序盤に書くからねえ
だから毛唐は薄っぺらのバカが多いのか。なるほど。
論文に転は必要なくね?
複数のブコメが触れている渡邉雅子『論理的思考とは何か』を読んだ人には復習的な記事。随分前から、「起承転結」型の文章は理系のレポートやビジネス文書では「無駄に回りくどい」と評されているかと。
この記事ではアメリカでエッセイを書く授業で起承転結構造が理解されなかった事をきっかけに、地域ごとの理解されやすい文章構造の違いを論じているわけで、論理的文章に絞って批判コメントするのは筋が違うのでは。
起承転結は、物語の構造では。
2行目以降読まなくていいと思うんですが >ロバート・カプランの文章構造の違いに関する理論
論理的な作文技術トレーニングを英語圏でやりすぎ、日本でやらなさすぎというギャップだと思う。
じゃあ何すか、いきなり歌い出すディズニー映画といきなり踊り出すインド映画といきなり一句詠んで泣き出す日本の古典は何か違うとでも言うんすか?てか日本では古来より結論が最初なのは普通なんすけど?春はあけぼ
中学で習ったな。
エッセイ≠随筆という話か。訳語としてはそうなってるけど。語義を辿るとエッセイは「論考」で、随筆は「筆にまかせて書いた文章」なのでむしろ逆まである
だれかに説明するための資料に起承転結は相応しくないだろ
なのでアメリカは科学論文に優れ、日本は文学に優れる。向き不向き使い方
序・破・Q・ シンにしてみてはどうか?
モンテーニュのエセーなどは論説文ではないと思う。
何かの宇宙人が「異文化コミュニケーションっちゅーやつやな()」とか言ってる姿が目にうかんだ。
既出だけど渡邉雅子さん著のこれらの本;「論理的思考とは何か岩波新書」 https://calil.jp/book/4004320364 / 「「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル」https://calil.jp/book/4000026097 / ゆる言語ラジオ https://youtu.be/WmVm81unxP4
「日本語が特殊」と言っている時点で、読む価値のない記事。日本語は世界的に見て、全然特殊ではない。https://posfie.com/@CasseCool/p/OYyjjxI
英語5文型は全てS+Vから始まる。否定や肯定など結論から述べるのが英語だから。
アメリカのエッセイは日本の現代文の問題でよくある、筆者の主張と根拠が書かれてるあれでしょう。
どうして「エッセイ」を勘違いして起承転結にしちゃった逸話を出したのよ…。そのせいでこの記事自体も論点がずれてしまっている。その逸話の頃から全く成長してないのでは
ここ[ https://synodos.jp/opinion/society/27360/ ]で扱われてるような話題。変ですか? へー。ブコメに複数ある反発の焦点がいまいちピンとこないままです。
そう考えるとどんでん語は日本語の中でも最も日本語らしい言葉となるなあ。英訳した時ちゃんと「アレ」を「優勝」と訳してくれるのだろうか?
起承転結を論理的では無いと言ってしまうのはさすがにアメリカナイズされすぎじゃないですかね
これに関して名著と呼ばれる本多勝一氏の著書「日本語の作文技術」の方が詳しいかと。なお日本の大学でも、小中学生ならいざ知らず、社会人が論文やレポートで起承転結を使うのはダメだと口を酸っぱくして言われたし
「起承転結」は物語とか読み物の構造であって、日本語で最もベーシックな構造してる判決文はどうなってるかな?
「論理的とはどういうことか」が出ても、それに一言も言及しないで出羽守を気取っているのは万死に値するし、どうも本の切り取りらしいけど、ちゃんとチェックしない東洋経済編集部の担当者責任者は腹を切るべき
ビジネスの場で「起承転結」言い出す人全員バカ判定してるけどほぼ全員バカになってしまって詰んでる弊社
起承「転」結だからむしろ当然。ここはやはり、放送大学滝浦真人先生の起承「論」結ですよ。日本語アカデミックライティング、みんなもやりましょう。
転じてるんだからそりゃずれるだろ
起承転結は漢詩でしょ?どの文章術本読んでも起承転結を否定して序論本論結論で書けと書いてあるよ。三島由紀夫も外山滋比古も近年の受験小論文指導も全部そうだよ。言語の問題じゃなくてこの人の基本の問題だよ。
結承承結で良いのかもな
英語圏の本の前書きに「この本で語っていること」と「この本で語っていないこと」がそれぞれ羅列されているのが好きだ。
筆者は25年も異文化コミュニケーションについて指導してる人なのね。57歳。それでどうしてこんな生煮えに見える話になっちゃったんだろ。
筆者の不備と威勢の良いブコメが多々あるが。とあるアプリへの要望を見ることがあるのだが様々な国の人が書く中で、日本の人が論理を時系列にのせて書いてしまい論点がぼやけているのを、まあまあ見る
そもそも起承転結は、コラムのような文章を書くためのものでは?論理的に書かないといけない論文、レポートで起承転結で書かない。
「オレサマ オマエ マルカジリ」「What?」
英語だけ?そうだろうな。日本語は結論が最後に来る特殊性。それでも物語ストーリーで行くと最初にネタバレしたら面白く無いし、欧米人も日本アニメ等で面白さに気づいて評価されてるんじゃない?
まさに論点がズレてんなという
べつに論点をずらさずに起承転結を設けることはできると思うんだが?
“岡田氏の著書『教養としての「異文化理解」』から、一部を抜粋・編集してお届けします。”
起承転結構成を小論文指導で用いたことは、たとえ昭和でもなかったと思うのだが。螺旋型と起承転結は違う
「起承転結」って漢詩の書き方であって、そもそも日本語でも論理的な文章を書くための形式ではないのでは。
アメリカ人のエッセイが論理的だと思ったことが無い。ドイツ観念論的な定義分類当てはめが無く、唐突に似て非なるものに展開してたら、だいたい米国人の文章。
日本語が主語が不明瞭で述語が最後というのは理解するが、漢文ではそうでは無いので、アジア圏で纏めるのにはかなりの違和感がある。
息子も小6で小論文はOREO構造(意見、理由、例、意見)って習ってきたな
起承転結は4コマ漫画の描き方で知った。
なんか無理やりに「日本語はユニークだ」の結論にしていると思う。例えば語順が自由なのは助詞が単語の役割を決めているからだ。ほかの言葉でも名詞が格変化する言葉は割合語順は自由だと思うよ。
起承転結は詩(漢詩)の創作法やけんね
グローバルを目指すならアメリカ文化なんてローカルなものから距離とらないとダメだと思う。つーかアメリカのアカデミアだってギリシヤ哲学やラテン語の論文がベースのはずなのに。MBAコースとかの傍流エピソード?
中学生の文章みたい
そもそも起承転結は小説の書き方で、それで論文を書けばそりゃこうなります。言語の問題ではありません
“「文化圏」ごとに異なる5つの文章構造 アメリカの言語学者であり、異文化間の文章表現や修辞学の研究で知られるロバート・カプランの文章構造の違いに関する理論は、文化ごとに異なる文章の特徴を明らかにし、異文
日本流の「起承転結」のある文章が、英語圏では"論点がずれている"と評価されてしまう言語的背景
転の意味がわからんと常々思っている
「文化圏」ごとに異なる5つの文章構造
論点ずらしのブコメの達人たちは、なるほど、日本の文化を体現しているわけか
専門家の方からすると、物語としての起承転結と論理性を示さなければならない書き物でも同じ土俵のものとなるのかな?たぶんこの方が体験したエッセイを書くという行為の意義が東洋と西欧で違うとかだったのでは。
起承転結って物語の構造の類例であって論理的文章に適用すべきものではないのでは
エッセイの定義が違うんじゃないかな?。随筆を書いてしまったのだろう。たぶん示されてたのは小論文なのでは
「結論を最初に書け」は英語圏に限らないと思う。相手側の時間は有限だから、読む必要があるか否かをまず確認させなければならない。
論理的思考とは何か 渡邉雅子 という本オススメ 結局人間の弁論は地域ごとのフォーマットに従う必要があるぐらいの最低限の客観性は持っておいたほうがいいと思う
『一方、欧米をはじめとする多くの国では、書き手に責任があるとされます。こうした文化では、コミュニケーションの透明性や明確さが重視され、読み手が迷わずに内容を理解できるようにすることが重要とされます』
起結で、あとはオマケでよい
文学だと英語圏でも起承転結だし、論文だと日本でも直線でしょ…?
論点のある文章に起承転結なんて使えるわけがない。日本流じゃなくて、この人の自己流。(この記事自体がそうだけど)論点のずれた文章を書く人が論点がずれていると言われた、というだけの話。
「理科系の作文技術」を思い出す。二冊も買ったぞ。一回しか読まないのに
この人の年齢だと30数年前の出来事だと思うのでそんなもんでは。日本で英文の論理構造が常識になったのは21世紀になってからなんじゃないか。『理科系の作文技術』は1981年か。他の3類型も興味深い。逸脱的って弁証法か
アメリカの言語学者であり異文化間の文章表現や修辞学の研究で知られるロバート・カプランの文章構造の違いに関する理論は文化ごとに異なる文章の特徴を明らかにし、異文化間のコミュニケーションにおける視点を提供
英語圏の話はたぶんテクニカルライティングのことを話してるのかな?と思った
「論理的思考とは何か」でも、アメリカ型以外に、フランス型、日本型、イラン型…と分類し、それぞれの文化で「論理的」とみなされる型の違いを論じてた。確かに弁証法のスタイルとかはアメリカだとバツになりそう。
″英語圏の文章では、論理が明確で直線的に展開されます″ イギリスとアメリカとシンガポールでは、かなりこの辺が違う気がするが。「言語」ではなく「その国で良しとされる文章構成」ではないか?
エッセイを求められる大学の学部というのがピンと来ないが教授に怒られたってことは求められてたのはエッセイじゃないのでは?理工系ならレポートでも結論アブストから入るのが一般書式だし
まあ日本人は論理というものをあまり信用していないかもしれない。自然科学的な文脈では信用するけど、他の分野でのそれは弁論術の一種にすぎないよね、みたいな。
漢詩書くのとエッセイとはそりゃ別物だわな
多民族で移民も多い英語圏はハイコンテクストな語法は通用しない。接続詞の多義性・用法・頻度やセンテンスの粒度も英語と日本語で差がある気がする。ブクマカの言う「論理的な文章」でも多寡の差はあれど同じでは。
この教授が論理的な文章を書けないという話でしかなさそう。カプランと起承転結は全く別の話だし、起承転結と空気を読むも関係がない。日本語の特殊性はだから何なのかという内容。そして突然に文章が終わっている。
この人の起承転結が何を指しているのか分からなかったけど英語圏の言葉は自分の主張を伝えることを目的として発達してるはずなのでそれと比べると日本語は意味不明かもしれない
物語と論文を混同しているなら、そら論点がずれてると評価されるだろうよ。
物語を語るならば起承転結のカタチとなるだろうが、仕事でのやりとりなど論理的に話すべき場面でそれを語る、PREP法で話さないなら、そりゃ論点がズレていると評されるのも当然ですよ。
起承転結は螺旋じゃないし、日本の学校の作文指導だって起承転結なんて言わないぞ。小学校では「はじめ(問題提起)」「なか(具体例・論証)」「おわり(結論)」の構成で書けと教える。
小論文なら序論本論結論
ちなみにエッセイも本来は論説文で日本の随筆ではない。随筆は平安時代って言う世界でも稀有な長期平和が生んだ特異なジャンル。
英語圏に転とかオチみたいなのは無い気がするけど、途中めっちゃ関係ないジョークが挟まるのが嫌。論点がズレるというより、萎える。
別に論点はずれてなかった
学校では起承転結で文章を書けと散々いわれるのに、社会にでると結論ファーストで書けって言われるんだよね
はてブやTwitter、チャットなどの短文形式が流行っとるからなあ。文化圏で異なる文章構造は収束していきそうな気もする。短文では結論を序盤に書くからねえ
だから毛唐は薄っぺらのバカが多いのか。なるほど。
論文に転は必要なくね?
複数のブコメが触れている渡邉雅子『論理的思考とは何か』を読んだ人には復習的な記事。随分前から、「起承転結」型の文章は理系のレポートやビジネス文書では「無駄に回りくどい」と評されているかと。
この記事ではアメリカでエッセイを書く授業で起承転結構造が理解されなかった事をきっかけに、地域ごとの理解されやすい文章構造の違いを論じているわけで、論理的文章に絞って批判コメントするのは筋が違うのでは。
起承転結は、物語の構造では。
2行目以降読まなくていいと思うんですが >ロバート・カプランの文章構造の違いに関する理論
論理的な作文技術トレーニングを英語圏でやりすぎ、日本でやらなさすぎというギャップだと思う。
じゃあ何すか、いきなり歌い出すディズニー映画といきなり踊り出すインド映画といきなり一句詠んで泣き出す日本の古典は何か違うとでも言うんすか?てか日本では古来より結論が最初なのは普通なんすけど?春はあけぼ
中学で習ったな。
エッセイ≠随筆という話か。訳語としてはそうなってるけど。語義を辿るとエッセイは「論考」で、随筆は「筆にまかせて書いた文章」なのでむしろ逆まである
だれかに説明するための資料に起承転結は相応しくないだろ
なのでアメリカは科学論文に優れ、日本は文学に優れる。向き不向き使い方
序・破・Q・ シンにしてみてはどうか?
モンテーニュのエセーなどは論説文ではないと思う。
何かの宇宙人が「異文化コミュニケーションっちゅーやつやな()」とか言ってる姿が目にうかんだ。
既出だけど渡邉雅子さん著のこれらの本;「論理的思考とは何か岩波新書」 https://calil.jp/book/4004320364 / 「「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル」https://calil.jp/book/4000026097 / ゆる言語ラジオ https://youtu.be/WmVm81unxP4
「日本語が特殊」と言っている時点で、読む価値のない記事。日本語は世界的に見て、全然特殊ではない。https://posfie.com/@CasseCool/p/OYyjjxI
英語5文型は全てS+Vから始まる。否定や肯定など結論から述べるのが英語だから。
アメリカのエッセイは日本の現代文の問題でよくある、筆者の主張と根拠が書かれてるあれでしょう。
どうして「エッセイ」を勘違いして起承転結にしちゃった逸話を出したのよ…。そのせいでこの記事自体も論点がずれてしまっている。その逸話の頃から全く成長してないのでは
ここ[ https://synodos.jp/opinion/society/27360/ ]で扱われてるような話題。変ですか? へー。ブコメに複数ある反発の焦点がいまいちピンとこないままです。
そう考えるとどんでん語は日本語の中でも最も日本語らしい言葉となるなあ。英訳した時ちゃんと「アレ」を「優勝」と訳してくれるのだろうか?
起承転結を論理的では無いと言ってしまうのはさすがにアメリカナイズされすぎじゃないですかね
これに関して名著と呼ばれる本多勝一氏の著書「日本語の作文技術」の方が詳しいかと。なお日本の大学でも、小中学生ならいざ知らず、社会人が論文やレポートで起承転結を使うのはダメだと口を酸っぱくして言われたし
「起承転結」は物語とか読み物の構造であって、日本語で最もベーシックな構造してる判決文はどうなってるかな?
「論理的とはどういうことか」が出ても、それに一言も言及しないで出羽守を気取っているのは万死に値するし、どうも本の切り取りらしいけど、ちゃんとチェックしない東洋経済編集部の担当者責任者は腹を切るべき
ビジネスの場で「起承転結」言い出す人全員バカ判定してるけどほぼ全員バカになってしまって詰んでる弊社
起承「転」結だからむしろ当然。ここはやはり、放送大学滝浦真人先生の起承「論」結ですよ。日本語アカデミックライティング、みんなもやりましょう。
転じてるんだからそりゃずれるだろ
起承転結は漢詩でしょ?どの文章術本読んでも起承転結を否定して序論本論結論で書けと書いてあるよ。三島由紀夫も外山滋比古も近年の受験小論文指導も全部そうだよ。言語の問題じゃなくてこの人の基本の問題だよ。
結承承結で良いのかもな
英語圏の本の前書きに「この本で語っていること」と「この本で語っていないこと」がそれぞれ羅列されているのが好きだ。
筆者は25年も異文化コミュニケーションについて指導してる人なのね。57歳。それでどうしてこんな生煮えに見える話になっちゃったんだろ。
筆者の不備と威勢の良いブコメが多々あるが。とあるアプリへの要望を見ることがあるのだが様々な国の人が書く中で、日本の人が論理を時系列にのせて書いてしまい論点がぼやけているのを、まあまあ見る
そもそも起承転結は、コラムのような文章を書くためのものでは?論理的に書かないといけない論文、レポートで起承転結で書かない。
「オレサマ オマエ マルカジリ」「What?」
英語だけ?そうだろうな。日本語は結論が最後に来る特殊性。それでも物語ストーリーで行くと最初にネタバレしたら面白く無いし、欧米人も日本アニメ等で面白さに気づいて評価されてるんじゃない?
まさに論点がズレてんなという
べつに論点をずらさずに起承転結を設けることはできると思うんだが?
“岡田氏の著書『教養としての「異文化理解」』から、一部を抜粋・編集してお届けします。”
起承転結構成を小論文指導で用いたことは、たとえ昭和でもなかったと思うのだが。螺旋型と起承転結は違う
「起承転結」って漢詩の書き方であって、そもそも日本語でも論理的な文章を書くための形式ではないのでは。
アメリカ人のエッセイが論理的だと思ったことが無い。ドイツ観念論的な定義分類当てはめが無く、唐突に似て非なるものに展開してたら、だいたい米国人の文章。
日本語が主語が不明瞭で述語が最後というのは理解するが、漢文ではそうでは無いので、アジア圏で纏めるのにはかなりの違和感がある。
息子も小6で小論文はOREO構造(意見、理由、例、意見)って習ってきたな
起承転結は4コマ漫画の描き方で知った。
なんか無理やりに「日本語はユニークだ」の結論にしていると思う。例えば語順が自由なのは助詞が単語の役割を決めているからだ。ほかの言葉でも名詞が格変化する言葉は割合語順は自由だと思うよ。
起承転結は詩(漢詩)の創作法やけんね
グローバルを目指すならアメリカ文化なんてローカルなものから距離とらないとダメだと思う。つーかアメリカのアカデミアだってギリシヤ哲学やラテン語の論文がベースのはずなのに。MBAコースとかの傍流エピソード?
中学生の文章みたい
そもそも起承転結は小説の書き方で、それで論文を書けばそりゃこうなります。言語の問題ではありません
“「文化圏」ごとに異なる5つの文章構造 アメリカの言語学者であり、異文化間の文章表現や修辞学の研究で知られるロバート・カプランの文章構造の違いに関する理論は、文化ごとに異なる文章の特徴を明らかにし、異文