「反出生主義に、美学で対抗したい。須藤輝彦✕難波優輝」『異常論文』では反出生主義寄りだったが今は美学で対抗しようとしている(倫理学での対抗は無理と)/須藤さんは「始まり」に着目。個人的にはこちらに共感
「反出生主義に対する抵抗として美学をやっているのだと思うように」「クンデラの『無意味の祝祭』を読んでいて、ぼくが個人的に考えたことを言うと、やはり「始まり」というものの強さ」
「何者かになる」は誰かに覚えていて欲しい。と言う願望なので「子の親」になりさえすればできる。それ以上を望むのが謎ではある。川端康成が反出生故に堕胎させるのが謎だった。そもそも行為をするなと。
「反出生主義に、美学で対抗したい。須藤輝彦✕難波優輝」
独身でも、家庭、会社以外の共同体に所属すれば、誰かが覚えてくれる。地方出身者にとって、創価学会、共産党がそういう受け皿だった。現代はそれに代わる中間共同体が必要。/この点がリベラリズムの限界。
タイトルにあることはこの前半では特に語ってない。そして知識豊富なのは分かるが自分的には本質的に大して面白い内容でなく真新しい知見を得られる話はなかった
始まりというものの強さと其処から来るあまりにもおぞましいとも言えるエネルギーを肯定できるのか。俺はそれを否定した上で生をやってる。生まれてしまったので世界に少し爪痕を。このおぞましい世界に子はいらん。
何で何者かになる必要があるんですか(豊前)
俺はやたらに他人の記憶に残るらしく、何者かであるらしいが何者なのか自分ではわからない。能力は周囲のほうが明らかに上だと思うのだが
私や私の周囲の人間は子供を生んでなおロトの剣を子に譲らず自分で振るっているので、トプコメは正直腑に落ちない。世界をどれだけ恨んでいるかや、その人が持つスキル次第で執着の度合いが変わるのかもしれない。
タイトルと内容が合っていない。肩透かし感がすごい。
共同体はsnsが果たすと思ってたけど結局名ばかりで、まだ双方向のコミュニティの場としてはうまく作れていない
“一般的に「美」は、ミロのヴィーナスとかモナリザとか、均整がとれたものだけ指すと思われている。でも現代の美学者は「美的な経験」を重要視。ギャンブルに賭けてヒリヒリも、菓子を食べてサクサク感も美的経験”
失礼ながら美学者って実在したんだ。漱石の猫に出てくる迷亭が勝手に名乗ってるものかと。
タイトル全然違わない?
何者かになりたいという感覚がよくわからないんだよな…だって俺は天上天下にただ一人の俺だし
タイトル詐欺によって編集記者の存在の耐えられない軽さが露わにされる良記事
川端康成は若くして親族全員亡くし、婚約相手が(おそらく)強姦されて一方的に婚約破棄され、となかなかベビーなんよね
若い頃は何者かになりたかったし、業界では名の知られた人物になりたかった。挫折、帰郷、転職を経て収入上がって自信がついたら見事にどうでも良くなった。むしろ無名が心地良い
子どもいても承認欲求のバケモノなんていくらでもいるだろ
“アーレントなどを介して考えていることですが、「始まり」というのは一つ次元の違うもの、「可能性」それ自体を生み出すものという感じがするんです。誰かが生まれるというのも「始まり」ですし”
ニーチェの焼き直し。「私たちの魂がたった一回だけでも、弦のごとくに、幸福のあまりふるえて響きをたてるなら…全永遠は…このたった一つの瞬間において、認可され、救済され、是認され、肯定されていたのである」
何者かになりたくないし死んだら忘れてほしい
いくら物語批判をやった所で結局は、カントとニーチェのあいだで、ふらふらするしか無いんよな。子供は物語から逃れる為の道具ではないし、宇宙という存在の謎、無意味さはなかなかこれが手ごわい
『「危害を避けること」をもっとも重要視するのであれば、功利主義的にも義務論的にも徳倫理的にも、人類は絶滅したほうがいいという結論にならざるを得ない気がしています』FGOの各部ラスボス戦みたいな会話やな
カテトップ見て「タイトル詐欺の予感…!」とwktkしながらブコメ読みに来て大満足。記事本文は1文字も読んでないというか一生読まないと思うけど
数千年の人類文明史では、自力だけで個人としての何者かにならねばならない近代の方が例外(たった200年)。昔の大多数の人は、代々の武士なり農民なり一族の一部としての立場で存在を肯定されて充足してた
何者かになりたいというより人の記憶に永遠に残りたかったがそんな機会はありそうにないし生きてる間が最悪なことになりそうなので今は避けられるならむしろ避けたいと思う
何者かになろうが、そうならずに一生を終えようが、人が生きて死ぬ。それは単なる現象だからなあ、と最近は強く思う。地震とか台風と一緒。意味を求めるのはナンセンス、という立場です
出てくる名前が古めかしい人間の名前だってだけで美少女アニメを語り合ってるオタクとなんらかわらん内容やな
何者かになりたい欲がまったくないのでよくわからない。
本質的にはやはり「父権制の衰退(男女平等」が「父にさえなれれば(たとえそれが托卵であっても)『何者かになれた』実感を得れる」を破壊し始終「何者かになりたい」不安を現代人に植え付けたのは間違いないので
何者にもなれないお前たちに告ぐ
何者かになりたいというのはつまり、訳わからんことだらけの人生を貫いて要約出来る名前・ストーリー・説明がほしいという認識 / 仏教系の本読んだりしてそんなもんに実体はないという考えに至り楽になった
むしろ「結局人は物語を作ることでしか人生を生きられないのだ」という哲学を学んできた。
「何者かになりたい」という願いには強烈な「副作用」があった..
「反出生主義に、美学で対抗したい。須藤輝彦✕難波優輝」『異常論文』では反出生主義寄りだったが今は美学で対抗しようとしている(倫理学での対抗は無理と)/須藤さんは「始まり」に着目。個人的にはこちらに共感
「反出生主義に対する抵抗として美学をやっているのだと思うように」「クンデラの『無意味の祝祭』を読んでいて、ぼくが個人的に考えたことを言うと、やはり「始まり」というものの強さ」
「何者かになる」は誰かに覚えていて欲しい。と言う願望なので「子の親」になりさえすればできる。それ以上を望むのが謎ではある。川端康成が反出生故に堕胎させるのが謎だった。そもそも行為をするなと。
「反出生主義に、美学で対抗したい。須藤輝彦✕難波優輝」
独身でも、家庭、会社以外の共同体に所属すれば、誰かが覚えてくれる。地方出身者にとって、創価学会、共産党がそういう受け皿だった。現代はそれに代わる中間共同体が必要。/この点がリベラリズムの限界。
タイトルにあることはこの前半では特に語ってない。そして知識豊富なのは分かるが自分的には本質的に大して面白い内容でなく真新しい知見を得られる話はなかった
始まりというものの強さと其処から来るあまりにもおぞましいとも言えるエネルギーを肯定できるのか。俺はそれを否定した上で生をやってる。生まれてしまったので世界に少し爪痕を。このおぞましい世界に子はいらん。
何で何者かになる必要があるんですか(豊前)
俺はやたらに他人の記憶に残るらしく、何者かであるらしいが何者なのか自分ではわからない。能力は周囲のほうが明らかに上だと思うのだが
私や私の周囲の人間は子供を生んでなおロトの剣を子に譲らず自分で振るっているので、トプコメは正直腑に落ちない。世界をどれだけ恨んでいるかや、その人が持つスキル次第で執着の度合いが変わるのかもしれない。
タイトルと内容が合っていない。肩透かし感がすごい。
共同体はsnsが果たすと思ってたけど結局名ばかりで、まだ双方向のコミュニティの場としてはうまく作れていない
“一般的に「美」は、ミロのヴィーナスとかモナリザとか、均整がとれたものだけ指すと思われている。でも現代の美学者は「美的な経験」を重要視。ギャンブルに賭けてヒリヒリも、菓子を食べてサクサク感も美的経験”
失礼ながら美学者って実在したんだ。漱石の猫に出てくる迷亭が勝手に名乗ってるものかと。
タイトル全然違わない?
何者かになりたいという感覚がよくわからないんだよな…だって俺は天上天下にただ一人の俺だし
タイトル詐欺によって編集記者の存在の耐えられない軽さが露わにされる良記事
川端康成は若くして親族全員亡くし、婚約相手が(おそらく)強姦されて一方的に婚約破棄され、となかなかベビーなんよね
若い頃は何者かになりたかったし、業界では名の知られた人物になりたかった。挫折、帰郷、転職を経て収入上がって自信がついたら見事にどうでも良くなった。むしろ無名が心地良い
子どもいても承認欲求のバケモノなんていくらでもいるだろ
“アーレントなどを介して考えていることですが、「始まり」というのは一つ次元の違うもの、「可能性」それ自体を生み出すものという感じがするんです。誰かが生まれるというのも「始まり」ですし”
ニーチェの焼き直し。「私たちの魂がたった一回だけでも、弦のごとくに、幸福のあまりふるえて響きをたてるなら…全永遠は…このたった一つの瞬間において、認可され、救済され、是認され、肯定されていたのである」
何者かになりたくないし死んだら忘れてほしい
いくら物語批判をやった所で結局は、カントとニーチェのあいだで、ふらふらするしか無いんよな。子供は物語から逃れる為の道具ではないし、宇宙という存在の謎、無意味さはなかなかこれが手ごわい
『「危害を避けること」をもっとも重要視するのであれば、功利主義的にも義務論的にも徳倫理的にも、人類は絶滅したほうがいいという結論にならざるを得ない気がしています』FGOの各部ラスボス戦みたいな会話やな
カテトップ見て「タイトル詐欺の予感…!」とwktkしながらブコメ読みに来て大満足。記事本文は1文字も読んでないというか一生読まないと思うけど
数千年の人類文明史では、自力だけで個人としての何者かにならねばならない近代の方が例外(たった200年)。昔の大多数の人は、代々の武士なり農民なり一族の一部としての立場で存在を肯定されて充足してた
何者かになりたいというより人の記憶に永遠に残りたかったがそんな機会はありそうにないし生きてる間が最悪なことになりそうなので今は避けられるならむしろ避けたいと思う
何者かになろうが、そうならずに一生を終えようが、人が生きて死ぬ。それは単なる現象だからなあ、と最近は強く思う。地震とか台風と一緒。意味を求めるのはナンセンス、という立場です
出てくる名前が古めかしい人間の名前だってだけで美少女アニメを語り合ってるオタクとなんらかわらん内容やな
何者かになりたい欲がまったくないのでよくわからない。
本質的にはやはり「父権制の衰退(男女平等」が「父にさえなれれば(たとえそれが托卵であっても)『何者かになれた』実感を得れる」を破壊し始終「何者かになりたい」不安を現代人に植え付けたのは間違いないので
何者にもなれないお前たちに告ぐ
何者かになりたいというのはつまり、訳わからんことだらけの人生を貫いて要約出来る名前・ストーリー・説明がほしいという認識 / 仏教系の本読んだりしてそんなもんに実体はないという考えに至り楽になった
むしろ「結局人は物語を作ることでしか人生を生きられないのだ」という哲学を学んできた。