説明を読む限り『RITUAL(リチュアル)』と同じようなテーマっぽいので、実際に読んで比較してみたいな
現代の儀式はマネタイズされているので(ex.葬式仏教)、醒めてしまい、あまり気が進まない。個人の感想です。
ニンゲンが動物と違うところは「儀式」を行うことなんだよ。儀式(集団内のルール)を行わないのは動物ってこと
「お宮参りやお食い初めにどのような効果があるのか」これらは効果があるからやるのではない。やると楽しいからやるのだ。写真や動画とともに残った思い出は,その後20年以上続く子育てに対する何よりの報酬だ。
明け方の御百度参りは成長ホルモン増強させるし、三蔵が絶賛した真言の詠唱は特定周波数で口内振動させる事で、ネコのゴロゴロの治癒能力向上と類似の効果は期待できる。柏手は虫除け、合掌による末梢神経刺激は…
"儀式の効果を感じたければ、別に既存の宗教や儀式を信じるのではなく、自分で新しく作ったっていいのだと著者は語る" "一日3回決まった時間に誰かを思い浮かべて感謝をするという儀式を勝手に定めたっていい"
儀式をすると信頼残高が高まる。お宮参りや七五三をやると親戚から「あいつはちゃんとしてる」と信頼残高が高まるし、結婚式や葬式をやると知人友人ご近所さんからの信頼残高が高まる。残高があると丁重に扱われる。
やっておけば、やらなかった事に対しては文句を言われないので、別に大金がかかる訳でも犯罪でもないならやった方がいいし、後から、私はやって貰えなかったとか言い出した時のために写真を撮っておいた方がいい。
不安を軽減する効果はあるかも/第一子の時はこの子と家族になっていけるのかみたいな漠とした不安を全員での共通体験を通して解消していったような気がする/二人目以降は全然ウェルカムでしたw
あまりに普通の話をしている。
七五三やったから冬木さんの気持ちがめっちゃわかる
家を建てる時に神主さん呼んで地鎮祭したのはとってもかよったよ。ご近所にこれから家を建てますご迷惑をかけますがよろしくお願いしますと建設会社にも行ってもらってはいたけど。
先日『市民宗教』という言葉を知った
自分のメンタルにもいいけど、ミサみたいな集会の参加って地域社会の関係を円滑にして情報収集にもなるよな。
儀式により節目感というか、自由曲線にアンカーポイントを打つというか、心のエントロピーを捨ててスッキリさせる感じがある
大幣「挨拶が出来ない奴は仕事も出来ないっていうじゃないですか」
つまり一日一万回感謝の正拳突きをしてれば精神的不安からは解消されるということかな・・・
「信仰心を全く持っていない無神論者よりも、「多少の信仰を持っているが、同時に疑念も抱いている人」が最も死への不安を覚える」
大人になって子供もいないと、年中行事的なものを全く知ら取り合わなくなったのは、最近ちょっと気になってた。ちょっと考え直してみようかなあ。
結婚式は小さくても親族だけでやると連絡の手間省けてほんとあとが楽よ。葬式も最低限で良い。やらないのに金の無心する奴はホント最低限になるし助けもしない
子ができて真剣にお祈りするようになった。だって祈るほかないでしょ。無事生まれてくるとは限らないし無事育つとも限らないし無事帰ってくるとも限らない。毎朝「気をつけてね」で子を見送るのは自分なりの儀式。
儀式はルーティーンのようなもので、やると自己催眠で気持ちが鎮まるよ。プラセボ効果や火事場の馬鹿力がある程度信ずるに足るなら、それよりちょっと低いくらいの信頼度で自己催眠と儀式とルーティーンがあると思う
形式が共有されてなかったら信頼なんか貯まらんからな
儀式をなくすと全ての意思決定の責任が個人に帰結するような世界観になるから、たぶんこれは長期で見ると思想が尖って性格がきつくなっていく気がする。信じるものに責任を分散させたほうが世界観が安定する。
既存だけでなく「自分で新しく作ったっていい」と最初から「知ってた」ので自分で御神体の絵描いて祭壇作って祈ってた。当時8歳。それから35年余、御神体や作法は色々追加・変更されたけど基本は我流のまま今に至る。
個人的には、本で読んだ(TVでみた)あの儀式をせっかくだからやってみたいという好奇心要素も捨てきれない。
お宮参りもお食い初めもやったことがない。あれは産後も元気で余裕のある人がやるもの。うちにはそんな余裕はなかったのだ…。
長野県の善光寺のご祈祷で1番多い忘れ物は杖なんだそう。ご祈祷受けただけで気分的に体が軽くなるのかね?
私にとって宗教施設(寺や神社や教会)は、散歩やウォーキングのちょうどいい目印。手を合わせたりする日もあるがお賽銭とかなんか買ったりとかはしない。その場や宗教への敬意は持ちたいからマナーは守る
結局、儀式は行ったほうがいいのか?──『御利益を科学する―宗教の儀式や祈りはなぜ効くのか』 - 基本読書
説明を読む限り『RITUAL(リチュアル)』と同じようなテーマっぽいので、実際に読んで比較してみたいな
現代の儀式はマネタイズされているので(ex.葬式仏教)、醒めてしまい、あまり気が進まない。個人の感想です。
ニンゲンが動物と違うところは「儀式」を行うことなんだよ。儀式(集団内のルール)を行わないのは動物ってこと
「お宮参りやお食い初めにどのような効果があるのか」これらは効果があるからやるのではない。やると楽しいからやるのだ。写真や動画とともに残った思い出は,その後20年以上続く子育てに対する何よりの報酬だ。
明け方の御百度参りは成長ホルモン増強させるし、三蔵が絶賛した真言の詠唱は特定周波数で口内振動させる事で、ネコのゴロゴロの治癒能力向上と類似の効果は期待できる。柏手は虫除け、合掌による末梢神経刺激は…
"儀式の効果を感じたければ、別に既存の宗教や儀式を信じるのではなく、自分で新しく作ったっていいのだと著者は語る" "一日3回決まった時間に誰かを思い浮かべて感謝をするという儀式を勝手に定めたっていい"
儀式をすると信頼残高が高まる。お宮参りや七五三をやると親戚から「あいつはちゃんとしてる」と信頼残高が高まるし、結婚式や葬式をやると知人友人ご近所さんからの信頼残高が高まる。残高があると丁重に扱われる。
やっておけば、やらなかった事に対しては文句を言われないので、別に大金がかかる訳でも犯罪でもないならやった方がいいし、後から、私はやって貰えなかったとか言い出した時のために写真を撮っておいた方がいい。
不安を軽減する効果はあるかも/第一子の時はこの子と家族になっていけるのかみたいな漠とした不安を全員での共通体験を通して解消していったような気がする/二人目以降は全然ウェルカムでしたw
あまりに普通の話をしている。
七五三やったから冬木さんの気持ちがめっちゃわかる
家を建てる時に神主さん呼んで地鎮祭したのはとってもかよったよ。ご近所にこれから家を建てますご迷惑をかけますがよろしくお願いしますと建設会社にも行ってもらってはいたけど。
先日『市民宗教』という言葉を知った
自分のメンタルにもいいけど、ミサみたいな集会の参加って地域社会の関係を円滑にして情報収集にもなるよな。
儀式により節目感というか、自由曲線にアンカーポイントを打つというか、心のエントロピーを捨ててスッキリさせる感じがある
大幣「挨拶が出来ない奴は仕事も出来ないっていうじゃないですか」
つまり一日一万回感謝の正拳突きをしてれば精神的不安からは解消されるということかな・・・
「信仰心を全く持っていない無神論者よりも、「多少の信仰を持っているが、同時に疑念も抱いている人」が最も死への不安を覚える」
大人になって子供もいないと、年中行事的なものを全く知ら取り合わなくなったのは、最近ちょっと気になってた。ちょっと考え直してみようかなあ。
結婚式は小さくても親族だけでやると連絡の手間省けてほんとあとが楽よ。葬式も最低限で良い。やらないのに金の無心する奴はホント最低限になるし助けもしない
子ができて真剣にお祈りするようになった。だって祈るほかないでしょ。無事生まれてくるとは限らないし無事育つとも限らないし無事帰ってくるとも限らない。毎朝「気をつけてね」で子を見送るのは自分なりの儀式。
儀式はルーティーンのようなもので、やると自己催眠で気持ちが鎮まるよ。プラセボ効果や火事場の馬鹿力がある程度信ずるに足るなら、それよりちょっと低いくらいの信頼度で自己催眠と儀式とルーティーンがあると思う
形式が共有されてなかったら信頼なんか貯まらんからな
儀式をなくすと全ての意思決定の責任が個人に帰結するような世界観になるから、たぶんこれは長期で見ると思想が尖って性格がきつくなっていく気がする。信じるものに責任を分散させたほうが世界観が安定する。
既存だけでなく「自分で新しく作ったっていい」と最初から「知ってた」ので自分で御神体の絵描いて祭壇作って祈ってた。当時8歳。それから35年余、御神体や作法は色々追加・変更されたけど基本は我流のまま今に至る。
個人的には、本で読んだ(TVでみた)あの儀式をせっかくだからやってみたいという好奇心要素も捨てきれない。
お宮参りもお食い初めもやったことがない。あれは産後も元気で余裕のある人がやるもの。うちにはそんな余裕はなかったのだ…。
長野県の善光寺のご祈祷で1番多い忘れ物は杖なんだそう。ご祈祷受けただけで気分的に体が軽くなるのかね?
私にとって宗教施設(寺や神社や教会)は、散歩やウォーキングのちょうどいい目印。手を合わせたりする日もあるがお賽銭とかなんか買ったりとかはしない。その場や宗教への敬意は持ちたいからマナーは守る