①地元の首長が倭国で盛んだった古墳の形式を取り入れた説②当時、朝鮮半島に存在していた百済という国に仕えた倭人の有力者の墓という「倭系百済官僚説」。③朝鮮半島に集団で移住した倭人の墓とする「倭人説」
五世紀以前なら北九州では関東より朝鮮半島南部の方が交流ありそう。政略結婚とかもあったかもしれないし、国対国というより都市同士の交流みたいな感じを想像する。
"累計5万部『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』より、第7章「ヤマト王権と朝鮮半島情勢」の冒頭を特別公開" "韓国で近年相次いで発見されている前方後円墳" 今になって新たに見つかるんだ
お墓へのこだわり
“盧亨信ノヒョンシンさんは、倭国や百済に由来する副葬品が出土するのは、権力を象徴する”
ヤマト王権と朝鮮半島のつながり、古代の架け橋ですわね。歴史のロマンを感じますの。
百済遺民がいなければ日本にはなってない説
白村江の戦いで日本が百済を支援して戦ったように交流も多かったわけで前方後円墳もそういった交流の中で日本から伝わったんだろうね
5世紀後半の、百済のソウル失陥→紀大磐の半島での独立宣言→継体期任那四県割譲とほぼ一致する流れで、この勢力はヤマト側としても割と厄介で、最終的には倭済両者の合意として半島への帰化と扱われたのだろうな
前々から気になってるのが半島と日本列島間の航海術なんだよなー。軍勢を送り込めるだけの輸送力。
倭国で人気の前方後円墳やってみた 的なノリだったりして。
海流的に、日本にくるのは簡単だけど、行くのは大変なんだよねぇ。
なるほど
白村江の戦い以降は近代に至るまで(秀吉以外は)朝鮮半島への出兵はなかったんだよね?だから逆になぜ古代には朝鮮半島の国家との強固な同盟があったのかが気になる。支配者層に血縁関係が多かった?
2023年とはまた最近の発見だこと/昔は「半島にも前方後円墳がある」は異端の説とされてた気がするのだが、それは半島起源だとしていたからなのかしら。
ここでも古代骨からの核ゲノム解析を行い、同時期の朝鮮半島や日本の各所のものと比較すべきではないのかなあ
古墳は元々大規模食料貯蔵庫でありその分配の場として権威化し→貴重品の所蔵→遺体安置と発展したと考えてる。中国沿岸部及び渤海は当時の大開発で短期的大規模に海没しそこに住む大量の倭人が四方に散ったと考えて
崇神天皇が渡来人を部下にして何年かよく仕えてくれたから「任那」という名前を与えて帰したみたいな話なかったっけ? ホツマツタエだ 記紀にあるかは知らん https://gejirin.com/src/Mi/mimana.html
卑弥呼の時代から朝鮮半島には人がいったりきたりしていたので、その後の時代も交流や外交があったのは自然なことではないかな。日本書紀にも朝鮮半島の国々との外交の話が出てくるしね。
「白村江の戦い」の文字列久しぶりに見た!!!何年経ってもちゃんと読める不思議
釜山から船に乗って流されれば、なんとなく出雲辺りに到着するって言う気楽さがね
このシリーズが面白過ぎてとうとう単行本を買ってしまったぞ。
さいたまあたりの、ねじり環頭大刀の変遷をみるとだいぶ後期に朝鮮半島に渡った説を推すな。
インドとの関係をまず疑う。前方後円墳の形は、シヴァ・リンガムと、そっくりだし。丸山(メール山)と呼ばれてたりするし。海流もインドから流れ着く。
古墳時代に朝鮮本島から大量の移住者がきて、その移住者が日本で力をつけルーツの半島に介入するって自然なことじゃないの
九州北部と朝鮮半島南部が同一勢力に近かったのでは、みたいに思うことはある。磐井あたりを読んでいて思ったことだけれど
前方後円墳の起源から見えてきたヤマト王権と朝鮮半島のつながり【新・古代史】 | NHK出版デジタルマガジン
①地元の首長が倭国で盛んだった古墳の形式を取り入れた説②当時、朝鮮半島に存在していた百済という国に仕えた倭人の有力者の墓という「倭系百済官僚説」。③朝鮮半島に集団で移住した倭人の墓とする「倭人説」
五世紀以前なら北九州では関東より朝鮮半島南部の方が交流ありそう。政略結婚とかもあったかもしれないし、国対国というより都市同士の交流みたいな感じを想像する。
"累計5万部『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』より、第7章「ヤマト王権と朝鮮半島情勢」の冒頭を特別公開" "韓国で近年相次いで発見されている前方後円墳" 今になって新たに見つかるんだ
お墓へのこだわり
“盧亨信ノヒョンシンさんは、倭国や百済に由来する副葬品が出土するのは、権力を象徴する”
ヤマト王権と朝鮮半島のつながり、古代の架け橋ですわね。歴史のロマンを感じますの。
百済遺民がいなければ日本にはなってない説
白村江の戦いで日本が百済を支援して戦ったように交流も多かったわけで前方後円墳もそういった交流の中で日本から伝わったんだろうね
5世紀後半の、百済のソウル失陥→紀大磐の半島での独立宣言→継体期任那四県割譲とほぼ一致する流れで、この勢力はヤマト側としても割と厄介で、最終的には倭済両者の合意として半島への帰化と扱われたのだろうな
前々から気になってるのが半島と日本列島間の航海術なんだよなー。軍勢を送り込めるだけの輸送力。
倭国で人気の前方後円墳やってみた 的なノリだったりして。
海流的に、日本にくるのは簡単だけど、行くのは大変なんだよねぇ。
なるほど
白村江の戦い以降は近代に至るまで(秀吉以外は)朝鮮半島への出兵はなかったんだよね?だから逆になぜ古代には朝鮮半島の国家との強固な同盟があったのかが気になる。支配者層に血縁関係が多かった?
2023年とはまた最近の発見だこと/昔は「半島にも前方後円墳がある」は異端の説とされてた気がするのだが、それは半島起源だとしていたからなのかしら。
ここでも古代骨からの核ゲノム解析を行い、同時期の朝鮮半島や日本の各所のものと比較すべきではないのかなあ
古墳は元々大規模食料貯蔵庫でありその分配の場として権威化し→貴重品の所蔵→遺体安置と発展したと考えてる。中国沿岸部及び渤海は当時の大開発で短期的大規模に海没しそこに住む大量の倭人が四方に散ったと考えて
崇神天皇が渡来人を部下にして何年かよく仕えてくれたから「任那」という名前を与えて帰したみたいな話なかったっけ? ホツマツタエだ 記紀にあるかは知らん https://gejirin.com/src/Mi/mimana.html
卑弥呼の時代から朝鮮半島には人がいったりきたりしていたので、その後の時代も交流や外交があったのは自然なことではないかな。日本書紀にも朝鮮半島の国々との外交の話が出てくるしね。
「白村江の戦い」の文字列久しぶりに見た!!!何年経ってもちゃんと読める不思議
釜山から船に乗って流されれば、なんとなく出雲辺りに到着するって言う気楽さがね
このシリーズが面白過ぎてとうとう単行本を買ってしまったぞ。
さいたまあたりの、ねじり環頭大刀の変遷をみるとだいぶ後期に朝鮮半島に渡った説を推すな。
インドとの関係をまず疑う。前方後円墳の形は、シヴァ・リンガムと、そっくりだし。丸山(メール山)と呼ばれてたりするし。海流もインドから流れ着く。
古墳時代に朝鮮本島から大量の移住者がきて、その移住者が日本で力をつけルーツの半島に介入するって自然なことじゃないの
九州北部と朝鮮半島南部が同一勢力に近かったのでは、みたいに思うことはある。磐井あたりを読んでいて思ったことだけれど