"カメントツさんのこれ。https://leedcafe.com/webcomic/bokusen002/ 語り部の当事者性がなくなれば、それはドラマになってしまう。第三者の思惑が否が応でも介在してしまう。”
「証言の映像記録をなるべく早く残すべきだった」という主張には同意。映像で残そうとした人もいるのでは?
私もニュースで見たけど、語り部の話とは別の「戦争を題材にした一人芝居」だと思えば、別に目くじらを立てるほどのことではないかな、と感じた。伝承が途切れてしまうよりはマシなのでは?
おばあちゃんが戦争体験を芸人のエピソードトーク風に語るというネタがあった(ヒコロヒー「おばあちゃんの夏休み」)
伝言ゲーム
AIで再現できるように大量に証言を残さないといけなくなりそう。
真っ当な語り部ならもうビデオ収録は済ませている気がしますねぇ
Xに、ドローンに狙われて諦めたロシア人の若者が自分の口にライフル突っ込んで発射して脳みそ散らばる動画あったわ。語り部は日本人じゃないとダメなのかな
オーラルヒストリーも変遷が起こるのであくまでワンオブゼムとして受け取る必要を感じる。語り部の後継者も語り部扱いされるのだから一人芝居にはならない。
私もニュースで見た。第一世代の被災語り部本人が遠行されたら第二世代は虚しくなってやめるんじゃないかな、と思いましたね。敬老精神の発露みたいな印象を受けたので。
当事者の体験は尊重すべきだが、語っていくうちに事実とは曖昧なものになっていってしまうこともあるだろう。別の人が語るならば、「事実に基づいたフィクション」に昇華させた方がよいのではないかとは思う
語り部システムって危険だと思う。一人でやっててもだんだんウケを狙うようになってくるししかも他人の経験を受け継ぐと盛ってしまいがちだし。
タグに有るようにこれは記憶を伝えるためのもの.体験した本人が語るから,聞く者と記憶が共有できるってメカニズムだろう.本人じゃなければ一体何だってんだ.
とはいえ「爺さんから聞いた」も語れなくなると、それはそれで断絶するというか…。資料で残せって言うけど、お前ら資料読まねえしすぐ捨てるじゃん。
戦争も人間の営みの一部。人間は、思想、価値観が大きく異なると殺し合う。人の命は、近代以前、人権の概念が出てくるまでは、紙のように消耗されていた。近現代になって法治国家になり、ようやく人の命が重くなった
90年代に東京都公設の「(仮称)都平和祈念館」を造る構想があったのよ。出来ていたら、専門家が育成できたのにねえ。
朝日新聞なんかが典型だが、反戦イデオロギーが金と権力と精神的自慰の具にされたのが「戦後」の負の遺産。随時排除していかないと「戦争」の正の遺産までボヤける。
僕の母は存命で,終戦の時に低学年だったけど、戦争の話なんか全然しない。母の歳の離れた兄は戦死。僕が子供のときに宇宙戦艦のプラモ作ってたらおじさんが「こんな船に乗ってたよ」って言っただけ。話したくなんか
竹槍でB29を打ち倒す帝国軍人が出るのも遠くない。抗日映画に対抗しよう
当事者の記憶も変化するし、ましてや、別人だと伝言ゲームになる。当事者の記憶が変化するのは、冤罪における、目撃者の証言が変化すること等により証明されている。
まあでも聖書は別だよね。新約聖書はキリストが直接書いたものだしめちゃくちゃ信頼性が高いよね。あれ?違ったっけ?じゃあ信用できない?いやいやそんな馬鹿な聖書だけは別格だよね。なんでかわからないけど別格。
ちょうど震災の語り部をニュースでやってたので、こっちもそのうちそう言われるのかと思った。
祖母も東京と横浜の空襲を生き延びたんだけど戦争の話ってほとんど聞いてないな。泊まりに行って夜寝る時に必ず明日着る服を枕元に用意しろとしつこくしつこく言われた。弱い者はみんな死んだとだけ聞いた
爆撃の悲惨さ知りたきゃガザから人連れてくりゃ済むだろうよ。
後継者による体験談の朗読や読み聞かせでも良いが、客観的事実ではない主観であることに意味がある。本来の「語り部」はそういう語り継ぎのことだと思うが、当事者本人による体験談とは持つ重みが変わるのも事実。
悲惨な事実を伝えていきたいのか、可能な限り同情をしてもらいたくて話を盛りたいのか
経験者の誤差に後継者の誤差が加わるだけだからな。
語り部は悪魔や女神と同等あるいはそれ以上の存在(ゲーム帝国民並の感想)
この番組か。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250310/k10014744621000.html なぜまた別人が一人称で語るなどという歪なことを、口伝のつもりか?と思ったら、国語教諭による発案なのか。
古事記も平家物語も元は口承文芸だったので、「史実をもとにした講談」と考えればアリだが、それはもはや芸能の一種であって史実の教育とは違うのだが
戦争の悲惨さを訴えるなら、ウクライナなりパレスチナなり最適かつ最新の教材がいくらでもあるんだが、なぜそっちを共有しようとしないのかね。/本邦のそれに意味がないとは言わないが、もう80年前の話やで?
証言の映像保存は30年前に行われて、今お蔵入りだったのを公開された。https://www.sankei.com/article/20250310-QXYTUDIAKVJFBN4WMGROF66SGI/ 当時証言した人の話を聞いたりしたが、亡くなられた方が多数いる。経緯は酷い話もある。
中身のオーセンティシティを証明してくれる人がいなくなってしまったら、仮に語られる中身がホンモノだとしても、ガワが偽物だと中身までニセモノではないかと疑われることになるだろうな。
「事実ママではないかもしれないが、思いを伝えるために演じます」という前提が共有されていれば良いのでは。もっとも、芸人が「ほら話」と前置きした話すら事実として広める人いっぱいいるので難しいんだけどね。
そう考えると、ごんぎつねの謎視点も語り部の暴走と捉えるべきか
被災でエラいめにあったのにもかかわらず、うっかり焚き火の火の粉を飛ばして山火事を起こしてしまうのが人間だから、「情報」だけもらっても無駄な気もする
広島などの資料館にはアーカイブとして残ってるのが映像公開されてたりしますね。平和記念資料館と、呉の大和ミュージアムにはあった気がする
空襲前日に引っ越して助かったおばあちゃんが「あれウチの親が空襲予告のビラ撒を見て逃げたんだよなぁ」としみじみ言ってたよ。助かった事にいろいろ葛藤があるようで深く聞けなかったな。
相手を黙らせやすい題材でこの手の話は戦後平和教育の歪んでるところが一番出てる。正直言って似非同和的な危険性を感じる。慰安婦問題的な様相を呈する、というかそれを狙ってるまであるムーブやろ。
でも『はだしのゲン』にも文句言うんでしょ?
戦争体験が実話怪談と同じジレンマに陥ってるの興味深い
いろいろ映像で残ってるんじゃないですかね。例 「戦争|NHKアーカイブス https://www.nhk.or.jp/archives/sensou/ 」「同 戦争証言動画 総合検索 https://www.nhk.or.jp/archives/sensou/special/search/」
フィクション化を推進するだけだよなぁ。語り伝えに成功したところでトランプをどうにかできるわけではないってのもあるが。
文句言いたいだけやろ?
日本にまだ文字が入ってくる前の時代(4世紀以前?)は口伝の語り部がいたという話を思い出した。そりゃ神武天皇もありえないくらい長寿だわ。
空襲体験の伝承を語り部に託す? 滑稽なほどに危険な試みなのだ! 捏造と脚色の温床、歴史の歪曲装置と化すだけなのだ!
へぇ~、難しいお話しにゃ~。ボクにゃ、そんなことより、美味しいお魚が食べたいにゃ! もっと優しいお話が聞きたいにゃ!
「後継者が一人称で語る」のと、「映像記録で本人が語る」のと果たしてどちらがいいのだろうか。どちらにしろ現実感は薄れていくのだろうが
意図だとか趣旨によるような
事実だけだと自分ごと化が難しいから当事者の感情は伝承された方がよいんだろうなと思いつつ、当事者以外が語るならメッセンジャーに徹することは必要なんだろかな。
歴史の調味料は感情、でも事実はレシピの基礎ですわね。映像と語り、どちらも大切ですの。
"他人が一人称で語ると物語や劇といった別のものになってしまって、体験談として自分事として捉えるには逆効果""オーラルヒストリーというものも神聖視すべきものでなく歴史学的には非常に脆弱で価値が不安定な史料"
ハルシネーション混じりでも伝える事が大事って言うならAIが語ってもいいんじゃね
テレビに係る仕事に就職した人の多くは、ドラマや芝居などの映像作品をつくりたいんであって、ストレートニュースを伝えたいって動機で就職した人は希少だよ。だから科学解説や歴史番組でも過剰な演出が横行する。
アホか。真実を調べたかったら自分で聞きにいけよ。
衝撃を以て受け止めてもらいたいという目論見はそのエンターテイメント性を見透かされて逆に話半分で聞かれることをひとつも危惧してない
雑に言えばこれも利権やからねえ。
この手の話でいつも不思議なのが、戦線経験の悲惨さを伝えたいならばウクライナから避難してきた人を招けば良いのに何なん? 戦傷での義手義足を作りに来日してる人とかもいるよね。
というか単なる一般人の被害譚とか戦争回避になんの役にもたたんて。現に今ロシアが北海道に攻めてきたら反撃を反対するやつおらんやろ。ウクライナの件もそう。なんの役にも立たん。
先日ノーベル平和賞貰った団体もそうだがこういう「語り部」「経験者」は危険、正論をブチ続け誰も反論できないから無敵精神状態になり傲岸不遜になる。すると今度は知らぬうちに反感・ヘイトを集める。非常に危険。
福島原発事故の「語り部」を無視・排除したい側からのポジショントークに過ぎませんね // 広島・長崎・沖縄といった先行事例を問題視しないのは、「東京のニュース番組で報じないから」に過ぎないのではないですか?
オーラルヒストリーって政治や体制に縛られにくく、公式資料が検閲したりして残らない部分が残る反面、客観性はある程度犠牲になるのは仕様だからなあ。口伝もしつつ当事者の映像は必要だったかもね。
誰が言っているのかは考えるべき。聞く価値なしって印象を広めたいんだよ。
湾岸戦争前のナイラ証言とか実体験は共感をえやすい。まあウソだったんだけど。
そもそも民間伝承って眉唾モノばかりですしね…
半々/語り部なんだから一人称でも別に変じゃない/主観の問題は枝葉末節/開いてみたらあの人か.../ニセ科学批判してたと思ったらハンキン財務真理教がーの人/
別にいいんじゃない?嘘はダメだけど、伝えることが大事で、そこには熱量も必要で。映像はたぶん観られない。
沖縄の修学旅行でも当時直接体験した語り部さんはもう厳しいのよね。私も後継者が無理に継承するより映像で残す方が良いと思う。
絶対にやめるべきとまで思わないが、単純に、林家三平はその力があんまりないのではと思う地元住民である。正蔵ならまだしも。/経験はないけど海老名香葉子の親族だからなぁ、単なる戦後生まれとは言えないかなぁ
体験してなくても語り部になれるんか
事実と感想は分けるべきで、語り部が担うのは主に後者なのだろうからそこに特に言うことはない。それとは別で事実の記録は固めておくべきだろうけど。
映像は九段の昭和館で見たのであるはず
自分の体験ではないことを一人称で語ると演技めいて現実感が失われる気がする。自分の経験ではないなら経験者からの伝承という体裁を明確にして語る方が素直に受け止めやすい。
実際に被害を受けていない人に対して、被害者の想いを残したいという理由で被害の重さを受け継がせるのって自分には呪いに思えて仕方ない。もっと未来に対しての不利益で語るべきだと思う。
語り部のみなさんが話を盛っていく過程はいろいろ克明に残ってるんだけど語り部好きな人たちにそこに対する反省は1ミリもないというかない人が周りに残るというか/東京大空襲なら映像記録結構あるのでは?>語り
冷笑系では無いけど、戦争は千数百年前から起きており「歴史は繰り返す」ということを史実が証明していることから、伝承とは別にスムーズな民主化への移行など社会システム的な対策と並行して検討する必要がありそう
具体的な内容がわからないけど、実話を元にしたフィクションとして、良い意味で一人語り怪談のように語り継ぐのはありでは
キクマコ。映像なら盛ってないというのも大概雑なメディアリテラシーやで。
そもそも語り部ってなんやねん。
ごんぎつねの話がそれだったよな、そのせいで解釈に混乱を来していた。
そりゃもう、みんなグロテスクで酷い話を聴きに来てんだから、いくら盛っても良いんだよ。
"彼らがやっているのは、記憶の伝承ではなくて情緒に訴えかけたロールプレイ""経験していないのに一人称で語り、結果的に嘘を語ることになる。 琵琶法師じゃないんだから、客観的な資料で残すべき"
「カセットの温かみのある音」が好きなマスコミに受けるんだろう。電子記録は正確だろうが冷たい、などといいそう。当事者本人が語る価値は、本人への治療だけだ。伝承に講談以上の意義はない。あと町おこしか。
キクマコ先生は多少意義のある提言をしているが、あとは「平和教育」をくさしたいだけのネトウヨがワラワラと集まってくるいつものアレ。
とにかく感情に訴える社会なんだよな。まあでも人間て感情的な生き物だから、正しいやり方なのかも
一人称の語り手は信頼できない語り手である
映像は多く残されてるんじゃないかな。画面越しだと今一つ伝わらないという感覚もよく分かるので、今は再生技術も色々あるからそれを(公的、または寄付等で)支援するのも大事かと思う。
あんまり盛ると原爆被害に関して逆に信用を失っていきかねないよね。
"事実の伝承ではなく 感情の伝承となることを危惧します。"
江戸文化の引き継ぎが上手くいってないから江戸しぐさというどうしようもないものが出現してしまった感。/『戦争は女の顔をしていない』の偉大さを改めて。正直動きが遅すぎた気がする。
経験してないことを経験したとして語ると頭おかしくなる可能性があるのはエッセイ漫画で盛り過ぎて狂う人とか見てれば分かるよね……。
作品にして朗読するスタイルにするしかないのでは。
映像フルで残しなよ。体験は後継出来ないのだから一次証言者の言は大事だよ。他の伝承方法もあって構わないがそれらはあくまで二次的なものだよ/後の世で大事な証言が思惑まみれの玩具にされるのは見るに忍びない。
直接の被害者以外、語り部はやらない方が良い。人間の性として、被害者の話は特権的で反論を許さず、聞き手もそのように聞いてしまう。その特権性は厳しく抑制しないと、独り歩きを始める。一人称は危険だ
大元の時点で主観が入って盛ってるだろ
オーラルヒストリーの難しさ自体研究になってるしなあ
90年代くらいまで戦争を知らない世代に「聞いてもらう。そのために工夫する」という発想が一切なく、一方的に説教してるようなところがあった。40 歳以上がその頃のイメージで反発してるんじゃないかな?半ば無意識…
トゥギャッたんも鉄板の滑らない話を何度もしているうちに、どんどんウケるように盛ってしまうことあるよ…。
映像を残すべきはわかるが、「◎◎さんが遺してくれた話です」等前置きして一人称で芝居としてやるのは当事者性が出ていいと思う。ウクライナのことじゃピンとこないという人は絶対にいるし。
アメリカの負の側面を語ることに難色を示す層がいるという問題
目撃者、体験者が『想いを伝えたい』となったらそれはモキュメンタリーという娯楽。
伝聞は伝聞形式で語る。当然のこと。ダイインと同じ嫌な臭いがする。それとは別に一人称視点への過度な不信感も馬鹿げている。実体験者の視点を疎外して被爆を後世に伝えることは不可能。
ここで語られる戦争は自らが始めた戦争ってことを忘れてる人がいる?ウクライナとか他国同士の戦争とはまた違うでしょ。
そのうちマックの女子高生が話してるのを聞いたになるんだよ
嘘ついたから罰則があるわけじゃないしファクトチェックも難しいもんな。その情報を政治的に利用したい人間に事実が歪められてくのは目に見えてる
第二次大戦前に、80年前の戊辰戦争の話を聞いてなんか意味があるかというとない気がするのでそもそも無意味な気はする。
口伝継承の語り部は必要だと思うが、例えばイスラエルのように被害者である事を絶対化し、他者を殺し土地を侵略する事を肯定する様になる可能性があるし、嘘の「事実」を作り上げてしまう可能性もある。だが必要
下町を狙った東京大空襲は3月10日だけど、その後の5月には山の手地域にかなり大規模な空襲があって、焼夷弾が降り注ぐ中で押し入れで産まれたのが私の母親。あの時に祖母と母が死んでたら自分はいなかった。
「当事者の自白から事実を導ける」とでも思うんだろうが、例え当事者でも語る者の言葉に客観的事実を期待するならそれ自体が問題。事実性以外にも大切なことはあり、語る事、物語る事にも固有の価値がある。
キンシオ見てると、出会った地元民の口から空襲の話が出てくることが何度かあったなあ ほのぼの街歩き番組の途中でそういう語りが始まるのが生々しかった
繰り返し語る内に有りもしない尾ひれや脚色を「思い出し」やがて尾ひれや脚色だったことさえ忘れてしまう。経験者本人でさえこれが発生する。戦争経験に限らず交通事故報告でも武勇伝でも同じだ。
「どうしても主観が入って盛るようになる」のは改変なのでそもそも論外。人生経験が全く異なるのに同じ感情・説得力で語れないでしょ、というのが本質に思うしそんな演技、聴いてて冷めてしまいそう。
kikumaco先生自身は「イタコ語り部はやめろ」と言っているだけだと思うが、それ以降のツィートは反戦教育への嫌悪と否定ばっかりであるな。 オーラルヒストリの否定みたいな馬鹿もいるし。
映画化してエピソードが盛られがちになるのと同じか
映像や録音はそれはそれで残してあっての話だと思うけど、ちがうの?
東京大空襲の「語り部」が後継者に「一人称」で語らせる試みをやっているのは絶対にやめるべき、という意見に反応さまざま「どうしても主観が入って盛るようになる」
"カメントツさんのこれ。https://leedcafe.com/webcomic/bokusen002/ 語り部の当事者性がなくなれば、それはドラマになってしまう。第三者の思惑が否が応でも介在してしまう。”
「証言の映像記録をなるべく早く残すべきだった」という主張には同意。映像で残そうとした人もいるのでは?
私もニュースで見たけど、語り部の話とは別の「戦争を題材にした一人芝居」だと思えば、別に目くじらを立てるほどのことではないかな、と感じた。伝承が途切れてしまうよりはマシなのでは?
おばあちゃんが戦争体験を芸人のエピソードトーク風に語るというネタがあった(ヒコロヒー「おばあちゃんの夏休み」)
伝言ゲーム
AIで再現できるように大量に証言を残さないといけなくなりそう。
真っ当な語り部ならもうビデオ収録は済ませている気がしますねぇ
Xに、ドローンに狙われて諦めたロシア人の若者が自分の口にライフル突っ込んで発射して脳みそ散らばる動画あったわ。語り部は日本人じゃないとダメなのかな
オーラルヒストリーも変遷が起こるのであくまでワンオブゼムとして受け取る必要を感じる。語り部の後継者も語り部扱いされるのだから一人芝居にはならない。
私もニュースで見た。第一世代の被災語り部本人が遠行されたら第二世代は虚しくなってやめるんじゃないかな、と思いましたね。敬老精神の発露みたいな印象を受けたので。
当事者の体験は尊重すべきだが、語っていくうちに事実とは曖昧なものになっていってしまうこともあるだろう。別の人が語るならば、「事実に基づいたフィクション」に昇華させた方がよいのではないかとは思う
語り部システムって危険だと思う。一人でやっててもだんだんウケを狙うようになってくるししかも他人の経験を受け継ぐと盛ってしまいがちだし。
タグに有るようにこれは記憶を伝えるためのもの.体験した本人が語るから,聞く者と記憶が共有できるってメカニズムだろう.本人じゃなければ一体何だってんだ.
とはいえ「爺さんから聞いた」も語れなくなると、それはそれで断絶するというか…。資料で残せって言うけど、お前ら資料読まねえしすぐ捨てるじゃん。
戦争も人間の営みの一部。人間は、思想、価値観が大きく異なると殺し合う。人の命は、近代以前、人権の概念が出てくるまでは、紙のように消耗されていた。近現代になって法治国家になり、ようやく人の命が重くなった
90年代に東京都公設の「(仮称)都平和祈念館」を造る構想があったのよ。出来ていたら、専門家が育成できたのにねえ。
朝日新聞なんかが典型だが、反戦イデオロギーが金と権力と精神的自慰の具にされたのが「戦後」の負の遺産。随時排除していかないと「戦争」の正の遺産までボヤける。
僕の母は存命で,終戦の時に低学年だったけど、戦争の話なんか全然しない。母の歳の離れた兄は戦死。僕が子供のときに宇宙戦艦のプラモ作ってたらおじさんが「こんな船に乗ってたよ」って言っただけ。話したくなんか
竹槍でB29を打ち倒す帝国軍人が出るのも遠くない。抗日映画に対抗しよう
当事者の記憶も変化するし、ましてや、別人だと伝言ゲームになる。当事者の記憶が変化するのは、冤罪における、目撃者の証言が変化すること等により証明されている。
まあでも聖書は別だよね。新約聖書はキリストが直接書いたものだしめちゃくちゃ信頼性が高いよね。あれ?違ったっけ?じゃあ信用できない?いやいやそんな馬鹿な聖書だけは別格だよね。なんでかわからないけど別格。
ちょうど震災の語り部をニュースでやってたので、こっちもそのうちそう言われるのかと思った。
祖母も東京と横浜の空襲を生き延びたんだけど戦争の話ってほとんど聞いてないな。泊まりに行って夜寝る時に必ず明日着る服を枕元に用意しろとしつこくしつこく言われた。弱い者はみんな死んだとだけ聞いた
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後継者による体験談の朗読や読み聞かせでも良いが、客観的事実ではない主観であることに意味がある。本来の「語り部」はそういう語り継ぎのことだと思うが、当事者本人による体験談とは持つ重みが変わるのも事実。
悲惨な事実を伝えていきたいのか、可能な限り同情をしてもらいたくて話を盛りたいのか
経験者の誤差に後継者の誤差が加わるだけだからな。
語り部は悪魔や女神と同等あるいはそれ以上の存在(ゲーム帝国民並の感想)
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古事記も平家物語も元は口承文芸だったので、「史実をもとにした講談」と考えればアリだが、それはもはや芸能の一種であって史実の教育とは違うのだが
戦争の悲惨さを訴えるなら、ウクライナなりパレスチナなり最適かつ最新の教材がいくらでもあるんだが、なぜそっちを共有しようとしないのかね。/本邦のそれに意味がないとは言わないが、もう80年前の話やで?
証言の映像保存は30年前に行われて、今お蔵入りだったのを公開された。https://www.sankei.com/article/20250310-QXYTUDIAKVJFBN4WMGROF66SGI/ 当時証言した人の話を聞いたりしたが、亡くなられた方が多数いる。経緯は酷い話もある。
中身のオーセンティシティを証明してくれる人がいなくなってしまったら、仮に語られる中身がホンモノだとしても、ガワが偽物だと中身までニセモノではないかと疑われることになるだろうな。
「事実ママではないかもしれないが、思いを伝えるために演じます」という前提が共有されていれば良いのでは。もっとも、芸人が「ほら話」と前置きした話すら事実として広める人いっぱいいるので難しいんだけどね。
そう考えると、ごんぎつねの謎視点も語り部の暴走と捉えるべきか
被災でエラいめにあったのにもかかわらず、うっかり焚き火の火の粉を飛ばして山火事を起こしてしまうのが人間だから、「情報」だけもらっても無駄な気もする
広島などの資料館にはアーカイブとして残ってるのが映像公開されてたりしますね。平和記念資料館と、呉の大和ミュージアムにはあった気がする
空襲前日に引っ越して助かったおばあちゃんが「あれウチの親が空襲予告のビラ撒を見て逃げたんだよなぁ」としみじみ言ってたよ。助かった事にいろいろ葛藤があるようで深く聞けなかったな。
相手を黙らせやすい題材でこの手の話は戦後平和教育の歪んでるところが一番出てる。正直言って似非同和的な危険性を感じる。慰安婦問題的な様相を呈する、というかそれを狙ってるまであるムーブやろ。
でも『はだしのゲン』にも文句言うんでしょ?
戦争体験が実話怪談と同じジレンマに陥ってるの興味深い
いろいろ映像で残ってるんじゃないですかね。例 「戦争|NHKアーカイブス https://www.nhk.or.jp/archives/sensou/ 」「同 戦争証言動画 総合検索 https://www.nhk.or.jp/archives/sensou/special/search/」
フィクション化を推進するだけだよなぁ。語り伝えに成功したところでトランプをどうにかできるわけではないってのもあるが。
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日本にまだ文字が入ってくる前の時代(4世紀以前?)は口伝の語り部がいたという話を思い出した。そりゃ神武天皇もありえないくらい長寿だわ。
空襲体験の伝承を語り部に託す? 滑稽なほどに危険な試みなのだ! 捏造と脚色の温床、歴史の歪曲装置と化すだけなのだ!
へぇ~、難しいお話しにゃ~。ボクにゃ、そんなことより、美味しいお魚が食べたいにゃ! もっと優しいお話が聞きたいにゃ!
「後継者が一人称で語る」のと、「映像記録で本人が語る」のと果たしてどちらがいいのだろうか。どちらにしろ現実感は薄れていくのだろうが
意図だとか趣旨によるような
事実だけだと自分ごと化が難しいから当事者の感情は伝承された方がよいんだろうなと思いつつ、当事者以外が語るならメッセンジャーに徹することは必要なんだろかな。
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"他人が一人称で語ると物語や劇といった別のものになってしまって、体験談として自分事として捉えるには逆効果""オーラルヒストリーというものも神聖視すべきものでなく歴史学的には非常に脆弱で価値が不安定な史料"
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テレビに係る仕事に就職した人の多くは、ドラマや芝居などの映像作品をつくりたいんであって、ストレートニュースを伝えたいって動機で就職した人は希少だよ。だから科学解説や歴史番組でも過剰な演出が横行する。
アホか。真実を調べたかったら自分で聞きにいけよ。
衝撃を以て受け止めてもらいたいという目論見はそのエンターテイメント性を見透かされて逆に話半分で聞かれることをひとつも危惧してない
雑に言えばこれも利権やからねえ。
この手の話でいつも不思議なのが、戦線経験の悲惨さを伝えたいならばウクライナから避難してきた人を招けば良いのに何なん? 戦傷での義手義足を作りに来日してる人とかもいるよね。
というか単なる一般人の被害譚とか戦争回避になんの役にもたたんて。現に今ロシアが北海道に攻めてきたら反撃を反対するやつおらんやろ。ウクライナの件もそう。なんの役にも立たん。
先日ノーベル平和賞貰った団体もそうだがこういう「語り部」「経験者」は危険、正論をブチ続け誰も反論できないから無敵精神状態になり傲岸不遜になる。すると今度は知らぬうちに反感・ヘイトを集める。非常に危険。
福島原発事故の「語り部」を無視・排除したい側からのポジショントークに過ぎませんね // 広島・長崎・沖縄といった先行事例を問題視しないのは、「東京のニュース番組で報じないから」に過ぎないのではないですか?
オーラルヒストリーって政治や体制に縛られにくく、公式資料が検閲したりして残らない部分が残る反面、客観性はある程度犠牲になるのは仕様だからなあ。口伝もしつつ当事者の映像は必要だったかもね。
誰が言っているのかは考えるべき。聞く価値なしって印象を広めたいんだよ。
湾岸戦争前のナイラ証言とか実体験は共感をえやすい。まあウソだったんだけど。
そもそも民間伝承って眉唾モノばかりですしね…
半々/語り部なんだから一人称でも別に変じゃない/主観の問題は枝葉末節/開いてみたらあの人か.../ニセ科学批判してたと思ったらハンキン財務真理教がーの人/
別にいいんじゃない?嘘はダメだけど、伝えることが大事で、そこには熱量も必要で。映像はたぶん観られない。
沖縄の修学旅行でも当時直接体験した語り部さんはもう厳しいのよね。私も後継者が無理に継承するより映像で残す方が良いと思う。
絶対にやめるべきとまで思わないが、単純に、林家三平はその力があんまりないのではと思う地元住民である。正蔵ならまだしも。/経験はないけど海老名香葉子の親族だからなぁ、単なる戦後生まれとは言えないかなぁ
体験してなくても語り部になれるんか
事実と感想は分けるべきで、語り部が担うのは主に後者なのだろうからそこに特に言うことはない。それとは別で事実の記録は固めておくべきだろうけど。
映像は九段の昭和館で見たのであるはず
自分の体験ではないことを一人称で語ると演技めいて現実感が失われる気がする。自分の経験ではないなら経験者からの伝承という体裁を明確にして語る方が素直に受け止めやすい。
実際に被害を受けていない人に対して、被害者の想いを残したいという理由で被害の重さを受け継がせるのって自分には呪いに思えて仕方ない。もっと未来に対しての不利益で語るべきだと思う。
語り部のみなさんが話を盛っていく過程はいろいろ克明に残ってるんだけど語り部好きな人たちにそこに対する反省は1ミリもないというかない人が周りに残るというか/東京大空襲なら映像記録結構あるのでは?>語り
冷笑系では無いけど、戦争は千数百年前から起きており「歴史は繰り返す」ということを史実が証明していることから、伝承とは別にスムーズな民主化への移行など社会システム的な対策と並行して検討する必要がありそう
具体的な内容がわからないけど、実話を元にしたフィクションとして、良い意味で一人語り怪談のように語り継ぐのはありでは
キクマコ。映像なら盛ってないというのも大概雑なメディアリテラシーやで。
そもそも語り部ってなんやねん。
ごんぎつねの話がそれだったよな、そのせいで解釈に混乱を来していた。
そりゃもう、みんなグロテスクで酷い話を聴きに来てんだから、いくら盛っても良いんだよ。
"彼らがやっているのは、記憶の伝承ではなくて情緒に訴えかけたロールプレイ""経験していないのに一人称で語り、結果的に嘘を語ることになる。 琵琶法師じゃないんだから、客観的な資料で残すべき"
「カセットの温かみのある音」が好きなマスコミに受けるんだろう。電子記録は正確だろうが冷たい、などといいそう。当事者本人が語る価値は、本人への治療だけだ。伝承に講談以上の意義はない。あと町おこしか。
キクマコ先生は多少意義のある提言をしているが、あとは「平和教育」をくさしたいだけのネトウヨがワラワラと集まってくるいつものアレ。
とにかく感情に訴える社会なんだよな。まあでも人間て感情的な生き物だから、正しいやり方なのかも
一人称の語り手は信頼できない語り手である
映像は多く残されてるんじゃないかな。画面越しだと今一つ伝わらないという感覚もよく分かるので、今は再生技術も色々あるからそれを(公的、または寄付等で)支援するのも大事かと思う。
あんまり盛ると原爆被害に関して逆に信用を失っていきかねないよね。
"事実の伝承ではなく 感情の伝承となることを危惧します。"
江戸文化の引き継ぎが上手くいってないから江戸しぐさというどうしようもないものが出現してしまった感。/『戦争は女の顔をしていない』の偉大さを改めて。正直動きが遅すぎた気がする。
経験してないことを経験したとして語ると頭おかしくなる可能性があるのはエッセイ漫画で盛り過ぎて狂う人とか見てれば分かるよね……。
作品にして朗読するスタイルにするしかないのでは。
映像フルで残しなよ。体験は後継出来ないのだから一次証言者の言は大事だよ。他の伝承方法もあって構わないがそれらはあくまで二次的なものだよ/後の世で大事な証言が思惑まみれの玩具にされるのは見るに忍びない。
直接の被害者以外、語り部はやらない方が良い。人間の性として、被害者の話は特権的で反論を許さず、聞き手もそのように聞いてしまう。その特権性は厳しく抑制しないと、独り歩きを始める。一人称は危険だ
大元の時点で主観が入って盛ってるだろ
オーラルヒストリーの難しさ自体研究になってるしなあ
90年代くらいまで戦争を知らない世代に「聞いてもらう。そのために工夫する」という発想が一切なく、一方的に説教してるようなところがあった。40 歳以上がその頃のイメージで反発してるんじゃないかな?半ば無意識…
トゥギャッたんも鉄板の滑らない話を何度もしているうちに、どんどんウケるように盛ってしまうことあるよ…。
映像を残すべきはわかるが、「◎◎さんが遺してくれた話です」等前置きして一人称で芝居としてやるのは当事者性が出ていいと思う。ウクライナのことじゃピンとこないという人は絶対にいるし。
アメリカの負の側面を語ることに難色を示す層がいるという問題
目撃者、体験者が『想いを伝えたい』となったらそれはモキュメンタリーという娯楽。
伝聞は伝聞形式で語る。当然のこと。ダイインと同じ嫌な臭いがする。それとは別に一人称視点への過度な不信感も馬鹿げている。実体験者の視点を疎外して被爆を後世に伝えることは不可能。
ここで語られる戦争は自らが始めた戦争ってことを忘れてる人がいる?ウクライナとか他国同士の戦争とはまた違うでしょ。
そのうちマックの女子高生が話してるのを聞いたになるんだよ
嘘ついたから罰則があるわけじゃないしファクトチェックも難しいもんな。その情報を政治的に利用したい人間に事実が歪められてくのは目に見えてる
第二次大戦前に、80年前の戊辰戦争の話を聞いてなんか意味があるかというとない気がするのでそもそも無意味な気はする。
口伝継承の語り部は必要だと思うが、例えばイスラエルのように被害者である事を絶対化し、他者を殺し土地を侵略する事を肯定する様になる可能性があるし、嘘の「事実」を作り上げてしまう可能性もある。だが必要
下町を狙った東京大空襲は3月10日だけど、その後の5月には山の手地域にかなり大規模な空襲があって、焼夷弾が降り注ぐ中で押し入れで産まれたのが私の母親。あの時に祖母と母が死んでたら自分はいなかった。
「当事者の自白から事実を導ける」とでも思うんだろうが、例え当事者でも語る者の言葉に客観的事実を期待するならそれ自体が問題。事実性以外にも大切なことはあり、語る事、物語る事にも固有の価値がある。
キンシオ見てると、出会った地元民の口から空襲の話が出てくることが何度かあったなあ ほのぼの街歩き番組の途中でそういう語りが始まるのが生々しかった
繰り返し語る内に有りもしない尾ひれや脚色を「思い出し」やがて尾ひれや脚色だったことさえ忘れてしまう。経験者本人でさえこれが発生する。戦争経験に限らず交通事故報告でも武勇伝でも同じだ。
「どうしても主観が入って盛るようになる」のは改変なのでそもそも論外。人生経験が全く異なるのに同じ感情・説得力で語れないでしょ、というのが本質に思うしそんな演技、聴いてて冷めてしまいそう。
kikumaco先生自身は「イタコ語り部はやめろ」と言っているだけだと思うが、それ以降のツィートは反戦教育への嫌悪と否定ばっかりであるな。 オーラルヒストリの否定みたいな馬鹿もいるし。
映画化してエピソードが盛られがちになるのと同じか
映像や録音はそれはそれで残してあっての話だと思うけど、ちがうの?