“ほんとうは、自分と同じことを相手が思っているわけがない。言語化された言葉を見て、同じことを思っていたような気がするだけです”
“「あなたの言語化能力はすばらしい」は「私も同じことを思っていたが、先にあなたが言葉にした」共感であり、嫉妬でもある。ほんとうは、言葉を見てから、同じことを思っていた気になっただけです”
自分の内面のモヤモヤを掘り下げるための「言語化能力」を磨くことにはならなくて、上手いこと言った人のプレゼン能力に感心し、それを評価できた自分が大事ということなんだろう。
結局は言語という制度の中からしか自分の思いに名前をつけるやりようがないので、そこからこぼれ落ちたものにはせいぜい慈しみや愛おしさを覚えるくらいのことしかできないですものね。
「文章が上手な増田のみが評価される現象」だ。
圧や雰囲気で察しろというやり方よりは,言語という道具を用いた手続きによってコミュニケーションが図られる方がよい。
逆。ある程度単一的な価値観を持つ人達で集まっている場合にのみ言語化を怠っても交流が可能なのよ。言語化ブームなるものがあるのなら、それはつまるところ多様性の社会が根付いたという事に他ならない。
いやほんと、急激に「言語化サンキュー」「この人の言語化能力すごい」的なインスタント謝辞や我田引水が増えてきた。エンタメへの「考察」ブームからの当然の流れではあろうが
“ 「あなたの言語化能力はすばらしいですね」という褒め方は、「私も同じようなことを思っていたんだけど、私よりも先にあなたが言葉にしましたよね」ということ” 違くない?思考の論理的共有であり共感じゃない
「置き配」という表現はうまい言語化だね!
“だからこそ、他人とちがう内面を持つと「思想が強い」と言われてしまう。”そうなんか?その解釈は全然わからんな
そんなこと言われてもおしゃべり相手が自分しかいなかったわけで……
自分がイラついたけど上手く言えなくてモヤモヤしてた事を上手く「言語化してくれて」(スカッと)した。という使い方が多い印象なのである意味「はい論破」のための道具のような気がしている。
「根源は『私も同じようなことを思っていた』と言われたいんじゃないか?」という考察/うーんでも自分はもしや自分だけが感じてそうな事を言語化して「そう言われてみればそうかもね」のいいねが欲しい
「頭の悪い集団が他人に乗っかっって調子に乗ってることにムカついてる人」ってところ
流行ってる「言語化サンキュー」と私のよくやる奴が違うなということが理解できた/皆で言葉を集め捏ね磨き「この仕事をどうしたいか」の共通言語を作るのは楽しい。言葉と一緒に仕事が生まれていく
文章のレトリックには、論理を無視した説得力があったりするのでその辺で他人の言語を理解したような錯覚が起きてそうではある。
日本は長い間、空気を読んだり察することが求められる文化だった。今もそれが変わったとは言い難いが、それらに頼らないコミュニケーションを取るには言語化が必要になるのは当然のこと。
この人も言語でこれを語っているから「同調圧力の表れ」ということになる。クレタ人のパラドックス。「他人と違うことを言いたい」という欲求がこういう屁理屈になる。
考察ブームの成れの果てのような気はしますけどね。最近辟易としていたので、廃れてほしい。
「時間かけてノウハウを言語化してくれてありがとう」的なもの、退屈だが必要とされる仕事であるような言語化とは完全にわけて語ってるの?
「言葉にしにくい正論をズバリ言ってくれた」発言にインプレッションが集まって、それを狙う人間が増えていることの方が問題だと感じる。高市早苗とかもろにその弊害だし。
共感でなくても説明が上手い人への憧れがあるのでは。説明することが苦手な人が多い。私も。すごい人への憧れ。クイズ番組もそんな感じ。
多様化が進んで空気ではどうにもならなくなったのはそう
「言語化能力が高い」みたいな言われ方する人って、大抵腹の中でモヤモヤしてるんじゃないかな。
そんなブームあるんだ。割と近いところにレッテル貼りや創作謎マナー講師がいる気がするけど。
ありがとう、言語化してくれてありがとう。共感できる。
全く同じようなことを思ってる人もそれなりにいるんじゃないかなあ。自分の考えにはそんなにオリジナリティないと思う。同じような考えの人なら分かり合えそうだし。でも言語化してくれてありがとうとまでは思わんね
もうすぐアニメ始まる「正反対の君と僕」は高校生の心の内をまるで憑き物落としのように腑に落ちる言葉にしてくれる。でも「僕もそう思ってた!」とはならんよ、ちょっと捻くれすぎでは?
“相手のことを「あいつらはカルトだ」とか「○○信者だ」とか言って…。逆にいうと、自分が地に足のついた人間だと確認するために、誰かが「カルト」である必要がある”(福尾匠)
前に「俺がやってたことはただのミームカルタだった」って嘆いてる奴の話を聞いたけど、「言語化」も結局カルタ遊び的だよね。枠に収められた方が自由になれるんだけど自分で枠が作れない人が言語化してもらう……
今まで自分で言語化しなかった思いと誰かの言語化とが「本当に同じか?」と考えればおんなじなわけ、同じと言えるわけがない。それまであったのは思考では無いモヤモヤとした思いだ。
私は自身の思考を整理して明確にすることが目的で言語化しているから同じ言葉を見て被ったと思えども、先を越されたと嫉妬することはないし、他人と違っても同調してないから思想が強いのだとか全く思わないですね。
無料部分しか読んでないけど、「郵便的」と対比する形での「置き配」なんだろうね。直接手渡してないって意味で
"「誰かが思っているであろうことを私が真っ先に言葉にしたい」という欲望" そうか? / ワイ的には自分の中のモヤモヤを既知概念の組み合わせで再構成→その出来栄えを愛でたい欲かな
by-kingさんに賛同。言語化とはコンテキストの可視化の側面があるので、これがブームになるということは価値観が多様化して共通のコンテキスト、暗黙の了解が損なわれていっていることを示唆していると思う
言語化ブームなんてあるんですかね。ピンとこないです。
「言語化」ブーム > これ今初めて知った。
最近よく見るこれ私だ…にも似ているところがある
“ほんとうは、自分と同じことを相手が思っているわけがない。言語化された言葉を見て、同じことを思っていたような気がするだけです。”
はてブって構造上「記事を読んでそれについて書く」ことが好きな連中が集うから言語化が上手い奴らが多い。それゆえに言語化が苦手な層の「言語化への感謝」みたいな感覚にピンと来てない人が多いように見える。
「言語化できる」と「言語化できない」の間に「言語化できるけど疲れる」ことがたくさんある
「言語化」ブームの裏側にあるもの 批評家が語る「置き配的」な社会:朝日新聞
“ほんとうは、自分と同じことを相手が思っているわけがない。言語化された言葉を見て、同じことを思っていたような気がするだけです”
“「あなたの言語化能力はすばらしい」は「私も同じことを思っていたが、先にあなたが言葉にした」共感であり、嫉妬でもある。ほんとうは、言葉を見てから、同じことを思っていた気になっただけです”
自分の内面のモヤモヤを掘り下げるための「言語化能力」を磨くことにはならなくて、上手いこと言った人のプレゼン能力に感心し、それを評価できた自分が大事ということなんだろう。
結局は言語という制度の中からしか自分の思いに名前をつけるやりようがないので、そこからこぼれ落ちたものにはせいぜい慈しみや愛おしさを覚えるくらいのことしかできないですものね。
「文章が上手な増田のみが評価される現象」だ。
圧や雰囲気で察しろというやり方よりは,言語という道具を用いた手続きによってコミュニケーションが図られる方がよい。
逆。ある程度単一的な価値観を持つ人達で集まっている場合にのみ言語化を怠っても交流が可能なのよ。言語化ブームなるものがあるのなら、それはつまるところ多様性の社会が根付いたという事に他ならない。
いやほんと、急激に「言語化サンキュー」「この人の言語化能力すごい」的なインスタント謝辞や我田引水が増えてきた。エンタメへの「考察」ブームからの当然の流れではあろうが
“ 「あなたの言語化能力はすばらしいですね」という褒め方は、「私も同じようなことを思っていたんだけど、私よりも先にあなたが言葉にしましたよね」ということ” 違くない?思考の論理的共有であり共感じゃない
「置き配」という表現はうまい言語化だね!
“だからこそ、他人とちがう内面を持つと「思想が強い」と言われてしまう。”そうなんか?その解釈は全然わからんな
そんなこと言われてもおしゃべり相手が自分しかいなかったわけで……
自分がイラついたけど上手く言えなくてモヤモヤしてた事を上手く「言語化してくれて」(スカッと)した。という使い方が多い印象なのである意味「はい論破」のための道具のような気がしている。
「根源は『私も同じようなことを思っていた』と言われたいんじゃないか?」という考察/うーんでも自分はもしや自分だけが感じてそうな事を言語化して「そう言われてみればそうかもね」のいいねが欲しい
「頭の悪い集団が他人に乗っかっって調子に乗ってることにムカついてる人」ってところ
流行ってる「言語化サンキュー」と私のよくやる奴が違うなということが理解できた/皆で言葉を集め捏ね磨き「この仕事をどうしたいか」の共通言語を作るのは楽しい。言葉と一緒に仕事が生まれていく
文章のレトリックには、論理を無視した説得力があったりするのでその辺で他人の言語を理解したような錯覚が起きてそうではある。
日本は長い間、空気を読んだり察することが求められる文化だった。今もそれが変わったとは言い難いが、それらに頼らないコミュニケーションを取るには言語化が必要になるのは当然のこと。
この人も言語でこれを語っているから「同調圧力の表れ」ということになる。クレタ人のパラドックス。「他人と違うことを言いたい」という欲求がこういう屁理屈になる。
考察ブームの成れの果てのような気はしますけどね。最近辟易としていたので、廃れてほしい。
「時間かけてノウハウを言語化してくれてありがとう」的なもの、退屈だが必要とされる仕事であるような言語化とは完全にわけて語ってるの?
「言葉にしにくい正論をズバリ言ってくれた」発言にインプレッションが集まって、それを狙う人間が増えていることの方が問題だと感じる。高市早苗とかもろにその弊害だし。
共感でなくても説明が上手い人への憧れがあるのでは。説明することが苦手な人が多い。私も。すごい人への憧れ。クイズ番組もそんな感じ。
多様化が進んで空気ではどうにもならなくなったのはそう
「言語化能力が高い」みたいな言われ方する人って、大抵腹の中でモヤモヤしてるんじゃないかな。
そんなブームあるんだ。割と近いところにレッテル貼りや創作謎マナー講師がいる気がするけど。
ありがとう、言語化してくれてありがとう。共感できる。
全く同じようなことを思ってる人もそれなりにいるんじゃないかなあ。自分の考えにはそんなにオリジナリティないと思う。同じような考えの人なら分かり合えそうだし。でも言語化してくれてありがとうとまでは思わんね
もうすぐアニメ始まる「正反対の君と僕」は高校生の心の内をまるで憑き物落としのように腑に落ちる言葉にしてくれる。でも「僕もそう思ってた!」とはならんよ、ちょっと捻くれすぎでは?
“相手のことを「あいつらはカルトだ」とか「○○信者だ」とか言って…。逆にいうと、自分が地に足のついた人間だと確認するために、誰かが「カルト」である必要がある”(福尾匠)
前に「俺がやってたことはただのミームカルタだった」って嘆いてる奴の話を聞いたけど、「言語化」も結局カルタ遊び的だよね。枠に収められた方が自由になれるんだけど自分で枠が作れない人が言語化してもらう……
今まで自分で言語化しなかった思いと誰かの言語化とが「本当に同じか?」と考えればおんなじなわけ、同じと言えるわけがない。それまであったのは思考では無いモヤモヤとした思いだ。
私は自身の思考を整理して明確にすることが目的で言語化しているから同じ言葉を見て被ったと思えども、先を越されたと嫉妬することはないし、他人と違っても同調してないから思想が強いのだとか全く思わないですね。
無料部分しか読んでないけど、「郵便的」と対比する形での「置き配」なんだろうね。直接手渡してないって意味で
"「誰かが思っているであろうことを私が真っ先に言葉にしたい」という欲望" そうか? / ワイ的には自分の中のモヤモヤを既知概念の組み合わせで再構成→その出来栄えを愛でたい欲かな
by-kingさんに賛同。言語化とはコンテキストの可視化の側面があるので、これがブームになるということは価値観が多様化して共通のコンテキスト、暗黙の了解が損なわれていっていることを示唆していると思う
言語化ブームなんてあるんですかね。ピンとこないです。
「言語化」ブーム > これ今初めて知った。
最近よく見るこれ私だ…にも似ているところがある
“ほんとうは、自分と同じことを相手が思っているわけがない。言語化された言葉を見て、同じことを思っていたような気がするだけです。”
はてブって構造上「記事を読んでそれについて書く」ことが好きな連中が集うから言語化が上手い奴らが多い。それゆえに言語化が苦手な層の「言語化への感謝」みたいな感覚にピンと来てない人が多いように見える。
「言語化できる」と「言語化できない」の間に「言語化できるけど疲れる」ことがたくさんある