美しいとかブスとか言わないのがルッキズムの否定だと思ってる
理屈ではルッキズムを否定したとしても、美しい人、グラマーな人とセックスしたいと思うのは、止められない。ルッキズムの全乗っかりは、本能とのギャップデカすぎで無理あるよな。
詳しくないけど「誰がなんと言おうと私は美しい」と「ブスで何が悪い?」はどちらもルッキズム否定にはなっていないと思うがどちらがよりルッキズム否定に近いかと問われたら前者なような気がする…
美しいものは美しいでいいが、清潔感がなくても良い醜くても良いとそう言える事と新しい美を提案するのでは随分と違うよな。俺としては醜美老若の全てを肯定できるのが最も健全ではないかと思っているが。
それも違くね 全部どうでもいいというかそもそも判断しない比較しない話題にしないまでいくべきだろう 意識して無視じゃなくて一切気にとめないまでいかないと本質ではない
みんな紅白のちゃんみなに抱いた嫌悪感をなんとか言語化しようとしててえらいね。わたしはふつうに下品だなと思ったからあんま好きくない。
ポスト主は知らないかも知れないが、美しさは外見だけでなく心や旋律、言葉など目に見えないものを表すのにも使うので/なおブスとかババアとかデブとか自称でも攻撃的な言葉は人を嫌な気持ちにさせる。囚われすぎ
反ルッキズムに詳しくないのでよくわからないけど、「ルッキズム否定の定義」も人それぞれでいいのでは。各人自由に生きるのが良いと思う。
Xの多くの例に漏れず、この人も具体的に何のこと言ってるのかわからないけど、世の中の支配的な価値基準に関係なく、人にはそれぞれ固有の美しさがある、という主張はあってもいいような。
ちゃんみなとかHANAが否定するルッキズムって「努力や才能が容姿で貶められないこと」であって、ありのままに怠惰に生きることと違うように思う。外見至上主義を止めてく新しい美(努力や才能)へってのは矛盾ではない
ルッキズムの否定と美の否定と何らかの美の基準の否定はすべて違う話。印象派とか現代美術とかが大衆化してる時代とは思えん
「ブス」という概念そのものがルッキズムなので、「ブスで何が悪い」とは言えないらしい。
見た目で貶められない事とプラスにも働かないことって別だよね。どっちがいいかは知らない
美しさが自分基準なのはルッキズムじゃない、美学であり、スタイル。誰に何と思われようと構わん、は脱ルッキズムだよ。スジの通った(他人にとっての)ダサさも極めれば美学だよ。
”ブスは悪いし損をすると思ってるから言えねえんだろうな。みんな心の中でうっすらブスを見下してる”
逆に他人のブスという評価にどうせそうですよと自分を当てはめ委ねてる方がルッキズムを許容してないか? あとまとめには無いがポスト主が私は昔から可愛いと言われてて〜とブスじゃないと言い訳連ねていて醜悪
そもそも、人の外形を評価する事自体を「ルッキズム」と呼称するのはおかしい。外形とは無関係な事柄、例えば『学校のテストの点数が、見た目でプラスされたりマイナスされたりする』レベルのそれ限定で用いるべき。
小綺麗に努力することが長寿につながるみたいな研究なかったっけ。単に見た目に対する評価の話にとどまらないなら、一般人が何ルックスこだわってんだみたいな雑な他者評価をすること自体が社会の毒になり得るよね。
美しくある必要は無いけど他人からどう見られるかを気にしないでいるならそれ相応の扱いを受けても文句言うなよ、としか…ファッションは自由だがどう見られるかは考えろよと。顔ピアスはきついて。
すげー勝手な解釈で怒ってて怖い。美は否定してないし、美は見た目だけの話じゃないよ。単純に「スキルより外見」でジャッジされてきた悲しみと怒りを世の中に問いてるだけでしょ。矛盾してないと思うが
矛盾というよりは脱コル方面と相性悪いのかなって感じ
ルッキズムは比較差別。小綺麗にしていれば美しさは宿る。世界で一つだけの花にルッキズムを差し込むと地獄になる。
年配の価値観。一方で世の中は良くなってるので、心配ない。妙な価値観で若い人を困らせるのだけはやめようね。
商売である以上自らを商品化する必要がある。売る相手を変えているということ。と同時に乃木坂みたいなノリを受け入れられない女性達が応援したくなる歌手の存在は肯定すべきでは。
他人が私の美醜を決めつけるなと言うことでは?私の美醜は私が決める
顔の美醜なんかは愛し合う私と貴方の二者が満足すればいい要素なんだよ。SNSで総評価時代になった結果、みんな芸能人みたいなレベルを求めるようになったけど。
「誰がなんと言おうと私は美しい」とは、自尊心の表明。他人の評価によらず、自分を肯定するということ。自己批判の視点を正しく持ちながらもその境地に至れるなら、その魂は確かに美しいと思う。
ブスで何が悪い?の問いに、わたくしは美しさは心の中にあるですわ!と答えたいですの。
自身の美しさは他人ではなく自身で決めるってことでしょ。自己肯定感にも繋がるからそっちの方が健全。
男性歌手は声や曲で評価されるのに、女はそうではない(事が多い) こういう主張を言うと、本人の美醜を問われるという、、 どこまでもズレがあって、
ルッキズムは“美の基準”が一つて概念でしょ、そんな基準に囚われない“美しさ”を自分は持ってるって主張は特段おかしないな。結局“美しい”というラベリングに固執してるように見えてしまうのが難点やろけど
ルッキズムの定義が登場の頃と何かかなり変容してきてる気がしてもうどうでもいいという感じ。
ルッキズム否定するなら、醜美の評価枠から抜け出そうってことじゃないの。我々は美しくなきゃいけないのか?って、問う・問われることから離れようよって話だと思った。もう少し自然体で生きれるといいよねって。
ルッキズムはマスゴミの洗脳でマネタイズやからなw。ちゃんみな?もテレビ見んかったら視界には入らんし、刷り込みのコピーすら耳にせんのやで。なんぞ言うてる時点で見る阿呆でまんまと術中に嵌まってんやでなw。
誰がなんと言おうとの時点でルッキズムに囚われてるんだよな結局。それを気にしたり傷ついたりした過去を経ての言葉だから。ルッキズムを超克するのは難しい。ブスだの美人だのと吐く誰かが居なくなるしか無い
ルッキズムの否定を「容姿を評するな」とするなら、ちゃんみなさんの「(お前が)評するな」も、この方の「(美醜を)評するな」も両立しそう。
歌の上手い不細工な歌手と、見た目の良い口パク歌手と、どっちが歌手なのか問題w
才能で評価すべき場面では才能で、人格で評価すべき場面では人格で、見た目で評価すべき場面では見た目で評価すればいいとおれは思うが。ほかの評価項目では差をつけるのに、見た目だけはだめとかよく分からないな
男性歌手だって容姿悪い奴はいないでしょ。人気商売で見た目が価値基準に入るのは当然
主張に対して言い返すことばでやだな
アンチルッキズムもフェミニズムみたいにしたいのか?
ただのヘッジ。整形にロングしながらルッキズムにショート入れておく。ビットコインみたいなもんやね(?)
ジェンダーに労働からの解放の権利が含まれると思わされて育って大きくなったら、それを許さない社会、経済になっていた怨みを、労働のエネルギーに変えられる人が先に売れていく悪夢のような人生。その慟哭かな。
ちゃんみなの「美人」などについて書かれており「美で測られることへのアンチテーゼに主観的な美を持ち出すのではなく、更なる枠組みの解体がいるのでは」という話。私は反対だが、多くのブコメが文脈を読めていない
美の基準が他人と自分で異なるなら「誰が何と言おうと私は美しい」はおかしくない。その「美しさ」が外見の美しさの話であればルッキズムではある。人間美しいものは好きなので多様な基準のルッキズムは健全だろ
ひろゆきみたいなダラシナイかっこうの、女バージョンみたいなのがいればいいのかな。
真善美の美のことを言っているのでは。芸能界やマスコミ、インターネットが提示する、型にはまりすぎてて底が浅い美にとらわれる必要はないが、醜くてはよいと開き直っている訳ではない
見た目の「ブス」はルッキズムから派生したので「ブスでなぜ悪い」は逆にルッキズムの肯定になる。ルッキズムを無視するならブスという概念を無くすべき
「太ってても可愛い」はルッキズムの否定でよさそうだけど「太ってる方が可愛い 」はまた別の軸のルッキズムを生むとは思う
『芸能人でもないのに小綺麗にしてる人間が多すぎると思う』これには同意。特に「女性は外出るならメイクして当たり前」な常識にも疑問。じゃあ男もしろ?俺は肌が弱いので嫌どす/基本、"舞台に上がる"人だけで良い
最近のミスコンは、そういった新しい美しさを主張しているような。かつての日本での金銭的豊かさではない本当の豊かさ、みたいな既存の価値への修正は別に珍しいものでもない。
自分で自分のことわざわざブスだと思う必要はない。全員美しいみたいなノリでは。外見に画一的な美しさが全てではないって意味でしょ。あとルッキズムは能力とは別に容姿で判断のことだから美しさ自体は否定してない
評価をするな、と言う事なんだよな。いいとか悪いとかそう言う評価をする事がよくないと言ってるんだが、悪い風に言うな、いいと受け取れみたいな話になるとベクトルが違うだけで同じ話してない?となるんだと思う。
清潔にしてるのに清潔感が無いと言われる事には反対したいやで
「美しい方が良い」という枠組みに対して「今まで醜いとされてきたこれも美しいのだ」では最初の枠組みは解体されないって話をしてるんだと思う。
日本人全員、関西のおばちゃんになればええんや。知らんけど。
「私は美しい」として肯定すると、自身を美しいと思えない人の否定になるので、やはりルッキズムの一部ではあるのかと思う。 美しくてもそうでなくても、誰しもが肯定されるのがルッキズム否定
美醜という概念からの脱却ではなくて、価値基準を他者に握られることへの反発だろう普通に考えて
ブスという言葉は明確に低評価・否定の意味を含む。何で他者からのそんな評価を受け入れなければならないのか、受け入れる必要ない、というのがルッキズムの否定。「筋」とかいう変な言葉で他者に呪いをかけるな
ルッキズムの対極がありのままの「野生」かというと、違うと思うんだよね。
この人にとっての美とは外見のことなんだな
美しいってのは俺の生き方カッコ良いって意味なのでは。美も醜も無い世界なら、ブスという単語も無いはずだが…
「ブスで何が悪い」というのはブスと言う側の「美しい」の基準の中での話。「誰がなんと言おうと私は美しい」はお前の基準なんて知らねえよ「美しい」の基準は私が決める宣言。全く違いますね。
『見た目』だけの話をしてるからおかしいんであって美しいってもっともっと広い意味の言葉だと思うの。今日元気な私は滅茶苦茶美しいし、あの人の為にご飯を作る私も美しいし勿論化粧が上手くいった私も美しいの。
人を評価するのに、醜美を基準にしようと努力やスキルを基準にしようと、大して変わらないと思うのだが、なぜか努力やスキルで評価するのは正しいということになってるのよな。
美をあらゆるものに見出すことで価値体系を破壊することが目的なので、単純な美の基準に乗らない、ってことなのでは
「ブス」って悪口にしかならないかつルッキズムの申し子的な言葉だと思ってるので、自分にも他人にも使いたくない。ていうかそういえば、そういう評価軸が消えつつあって使う機会がなくなった気がする?
ちゃんみなが訴えているのは「自分にとって美しく」だから。他人に美しさを決められる時代は終わりだ!自分にとっての「美しさ」を見つけて生きろ!という魂の叫び。「醜さこそ美しい」と思えるなら、それも正解。
流行ったのはレディガガの「I’m beautiful in my way 'Cause God makes no mistakes」からかな。「他者評価ブスで自己評価ブスだとしても、神のお作りになったあなたは美しい」は、外見だけじゃなく行動含めてそうあれかしという話
元ポストは正しい。革命を起こして自分も貴族になる、君たちも貴族になれるよというのは貴族制の否定ではない。貴族も平民もいるがもはや貴族に特権はなく権利は平等なのだというのが貴族制の否定。
人それぞれ価値観は違うからね…。
会社とかでは別に言われたくはないな(だって仕事と関係ないもの)でも30超えたらババアとかもっと年上の人が言うとかなんなんだろうな
これが結構苦しい理由が、自分はクゾやろうと自認してるが、それは年齢や美醜とは関係なく、自分の内面がクソってのに、向き合わないといけないから。
英語圏で彼らの言う「beautiful」の奥行きにハッとさせられた。日本でありがちな見た目の美醜ではないんだよ。心や考え方、在り方を含んでいる。その点では“歌の実力“ で勝負し世界進出してるAdoは興味深い例だと思う
柳宗悦の民芸運動を批判する魯山人や青山二郎(白洲正子)と同じ図式。柳の思想も極端だったのだが魯山人も青山も違う意味で極論だった。(そもそも「内輪揉め」だったのよ、外野からみると)
これ同じことなんだけど一方で別の美を出してると(ポジティブにもネガティブにも)勘違いされるアプローチで実際そう勘違いされてる例多々 手垢まみれの整形顔の垢抜け勢がの生態とか
ドブネズミみたいに美しくなりたい。と歌ったのが39年前かぁ。。。
美の否定ではなく序列の否定でしょ。みんなちがって、わたしがうつくしい。
どっちにしろ自分の美醜と他人の価値観を意識してる時点で美しくないと思うね 俺は そんなのは先導者でなく小市民でしかないよ
ルッキズム否定しなくても一般人は普通に生きていけるやろ。
ビジネスマナー講師感がある
ルックスに限ってたとしても攻撃の道具としてブスやババアって単語使い続けられてる現状で今更その文脈無視した解釈でいいって無理がある。時間かかるしその間も削られるわけで
ルッキズムは他人を美を基準に評価することが問題で自分の基準を他人に押し付けずに「みんな違ってみんないい」なら別に関係ないと思うのじゃが?
外見の良さには価値があるが、どんな局面でもそれで評価される訳ではないというだけのことと思ってる。足が速いとか歌が上手いとかと同じ。
ブス、ババアとかそういう言葉ってさ、たとえ自分が自虐に使うとしても、品性がないなって思うのよね。何が悪い!?ってのも攻撃的で嫌い。その言い方だと、結局すごく気にしてるじゃんとしか思えない。
モテ非モテみたいな話の構造で主体的で社会的な身体と忍ぶこととか
ブス女性はキモくて金のないおばさんの私に向かって「キモイ、キモイ」とよく言ってくるからキライだ。キモくて何が悪いのか?
主観で美醜を断じるのがルッキズムなんじゃ?
「誰がなんと言おうと私は美しい」は、一見すると既存の美の基準からの解放のようでいて、実は 「美=価値がある」「美=肯定されるべき」 という構造を一切崩していない。ルッキズムとは本来、この連鎖全体の問題。
Chatgptに聞いたらルッキズム批判にも、美を評価基準から排除したい、比重を下げたい、再定義したいの3つの立場があるって出たで(聴き方かもしれんが
自分の受益には沈黙するが、他人の受益は許せないという心理状態でそれを綺麗事に偽装して済ませるかどうかかから始まり、さらにその処理方式の異なる他人を許せるか許せないかという形式化が可能かと思う。
1か0、どちらかしか受け入れられないって人の人生は大変だな。
容姿に基づいて差別や批判をするのがルッキズムであり、自分の信じる道を行くのは充分ルッキズムの否定にはなるんじゃないか
歳取ると見た目は大差なくなるのでルッキズムから卒業しやすい。その分ルッキズムに全振りしていた人は中身が問われて詰むのでそっちも頑張れ。
オーガニック系ヒゲ女にでもなれと
ノイズミュージック好きだが明らかにノイズならなんでもいい訳ではない。音楽的美学から脱出できてないかもなあと思う一方で相変わらず「そんなの聴いて何が嬉しいの」と言われたり。美しさなんてそんなもんでしょ
世界に一つだけの花と同じでブスはいない自分らしく孤高に生きるならばみな花であるでしょ。この人がプロデュースしてるのはHANAだしさ。
ちゃんみなもHANAも好きだしオーディションも最初から観ているが、ちゃんみなは浴びた攻撃への反発心を表現に直結することが多いので、フラットに見ると攻撃的に見えてしまうし誤解も生むだろうとは思う
自分に対する判断基準を他人に任せるな、という話なので、そもそもブスかどうかという他人の判断基準を受け入れるな、という主張だと思った
内面やスキルでなら優秀といえるのか不明なので、自己評価の話しだよね。内心の話なので「本人がなんと言おうと認めない」も有りってことだから、放っておいたら?
ルッキズムってlook=見た目のことでしょ、美しさって見た目以外にも使う言葉だから何もおかしく無い
適当にググったけどクリスティーナ・アギレラ「ビューティフル」の話か?。ルッキズム否定というなら外見ではなく内面の美しさと解釈すれば良い。
美は国や時代によって違うので、ブスとかいうのも、今の流行りの顔とは外れてるくらいの意味しかない。
「美しさ」は容姿だけのことを指すわけじゃないでしょ。
「美しい」は多義的なのに対し、「ブス」は明らかに人間の容姿に対する侮蔑の意味の言葉でそもそも非対称。後者は他の女性も巻き込むので使うべきじゃない。
言葉の定義……。最初にまず定義をだな……。
ルッキズム否定って、”おまえの審美観には従わないし、自分の審美観を他者に強要しない”って宣言だろうから、自身の内心で何を美しがろうが、醜いと思おうが自由なのでは?
ルッキズムに対する有効な対抗策は、それを人間の本能的な振る舞いであると認めた上で、美醜を善悪かのように扱う事を止め、過剰な不平等を埋めるよう理性的に振る舞う事を美徳とする価値観を広める事しかない。
そもそも美醜という序列づけ・比較をやめるというか、そんな共通言語は解体してしまえという話かな。言わんとすることはわかる
各々が他者を気にせず我が道を行けばいいだけ
件のNGって曲は「お前のNoは無意味」「お前からのNoじゃ死ななかった」から「私が世界中のNoを言われた女の子たちのために扉を開け放ってみせる」と宣言する。つまりちゃんみなの言う美しさとは自分にYesといえること。
“ルッキズム否定しながら、誰がなんと言おうと私は美しいみたいなのはまじで意味がわからなくて” それはあなたのルッキズムですよね 外面に囚われない美しさというものはある
目の下にナメクジ貼り付けた化粧が気持ち悪いんだけど、これは(個人の感想です)で止まればルッキズム否定だし、みんなも気持ち悪いよね? って同意を求め始めるとルッキズム迎合になるのだと思う。
俺は野球は下手だし大谷選手は最高に上手い。なのに大谷選手を広告に使うな俺こそが広告に相応しいが現在の反ルッキズム。野球だけが評価基準じゃ困るけどお笑い芸人でも評価されてるのが現実で野球大会を禁止してる
ルッキズムなる語だけで考えるからこうなる。歌手の価値が歌唱力より若さ可愛いさで評価されるつー現実があったにせよ、自分はメイクや整形頑張るんじゃなく歌の練習をするんだ、程度の話だろ。
そんなのはルッキズムという言葉が一般に知れ渡る前に“〇〇美人”という表現を使ってた日本人には全然ピンと来ないのである。
「誰がなんと言おうと私は美しいみたい」「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」
ルッキズム、マシになるどころか、若い子らの容姿への執着がより病的になっていってない?『ビジュいいじゃん』とか、よく呑気に祭り上げられるよな。
「私は美しい」と、他人を評価することは、別物だと思います!なお私は美しいです!!!
ルッキズムと一言で言ってもセクシズムレイシズムやエイブリズム、エイジズムも絡む。「みんな違ってみんな良い」や「 見た目より中身」が陳腐でペラい表現に見えるのは否定出来ない。
筋?なんやねん筋って!みんながみんな自分を卑下してまでそんな筋通して強くあろうとしなくていいよ~。自己肯定感あげてけ~。
定量的美しさと定性的美しさというか、同じ意味の美しさの話してないよな?
「誰がなんと言おうと私は美しい」と「ブスで何が悪い?」は言い方か違うだけで似たような意味だけど、前者のほうが自己肯定感が強く卑下してない。自分のことブスっていうほうがルッキズムまるだしだよなあ。
富も美も格差を作り出さずにはいられない。格差は差別を生み出す。つまり格差と差別はなくならない。
ちゃんみなの主張は第1に、自分なりの美を確立した、私はこれを美しいと思う、ということ。第2に、これは他人の評価からは自由なものであるから、好き勝手な評価軸による評価はやめようね、ということ。
ちゃんみなの件
美よ滅べ
ルッキズム否定しながら、「誰がなんと言おうと私は美しい」みたいなのはまじで意味がわからなくて、それは新しい美の提案でしかなくて、ブスで何が悪い?が筋だと思う
美しいとかブスとか言わないのがルッキズムの否定だと思ってる
理屈ではルッキズムを否定したとしても、美しい人、グラマーな人とセックスしたいと思うのは、止められない。ルッキズムの全乗っかりは、本能とのギャップデカすぎで無理あるよな。
詳しくないけど「誰がなんと言おうと私は美しい」と「ブスで何が悪い?」はどちらもルッキズム否定にはなっていないと思うがどちらがよりルッキズム否定に近いかと問われたら前者なような気がする…
美しいものは美しいでいいが、清潔感がなくても良い醜くても良いとそう言える事と新しい美を提案するのでは随分と違うよな。俺としては醜美老若の全てを肯定できるのが最も健全ではないかと思っているが。
それも違くね 全部どうでもいいというかそもそも判断しない比較しない話題にしないまでいくべきだろう 意識して無視じゃなくて一切気にとめないまでいかないと本質ではない
みんな紅白のちゃんみなに抱いた嫌悪感をなんとか言語化しようとしててえらいね。わたしはふつうに下品だなと思ったからあんま好きくない。
ポスト主は知らないかも知れないが、美しさは外見だけでなく心や旋律、言葉など目に見えないものを表すのにも使うので/なおブスとかババアとかデブとか自称でも攻撃的な言葉は人を嫌な気持ちにさせる。囚われすぎ
反ルッキズムに詳しくないのでよくわからないけど、「ルッキズム否定の定義」も人それぞれでいいのでは。各人自由に生きるのが良いと思う。
Xの多くの例に漏れず、この人も具体的に何のこと言ってるのかわからないけど、世の中の支配的な価値基準に関係なく、人にはそれぞれ固有の美しさがある、という主張はあってもいいような。
ちゃんみなとかHANAが否定するルッキズムって「努力や才能が容姿で貶められないこと」であって、ありのままに怠惰に生きることと違うように思う。外見至上主義を止めてく新しい美(努力や才能)へってのは矛盾ではない
ルッキズムの否定と美の否定と何らかの美の基準の否定はすべて違う話。印象派とか現代美術とかが大衆化してる時代とは思えん
「ブス」という概念そのものがルッキズムなので、「ブスで何が悪い」とは言えないらしい。
見た目で貶められない事とプラスにも働かないことって別だよね。どっちがいいかは知らない
美しさが自分基準なのはルッキズムじゃない、美学であり、スタイル。誰に何と思われようと構わん、は脱ルッキズムだよ。スジの通った(他人にとっての)ダサさも極めれば美学だよ。
”ブスは悪いし損をすると思ってるから言えねえんだろうな。みんな心の中でうっすらブスを見下してる”
逆に他人のブスという評価にどうせそうですよと自分を当てはめ委ねてる方がルッキズムを許容してないか? あとまとめには無いがポスト主が私は昔から可愛いと言われてて〜とブスじゃないと言い訳連ねていて醜悪
そもそも、人の外形を評価する事自体を「ルッキズム」と呼称するのはおかしい。外形とは無関係な事柄、例えば『学校のテストの点数が、見た目でプラスされたりマイナスされたりする』レベルのそれ限定で用いるべき。
小綺麗に努力することが長寿につながるみたいな研究なかったっけ。単に見た目に対する評価の話にとどまらないなら、一般人が何ルックスこだわってんだみたいな雑な他者評価をすること自体が社会の毒になり得るよね。
美しくある必要は無いけど他人からどう見られるかを気にしないでいるならそれ相応の扱いを受けても文句言うなよ、としか…ファッションは自由だがどう見られるかは考えろよと。顔ピアスはきついて。
すげー勝手な解釈で怒ってて怖い。美は否定してないし、美は見た目だけの話じゃないよ。単純に「スキルより外見」でジャッジされてきた悲しみと怒りを世の中に問いてるだけでしょ。矛盾してないと思うが
矛盾というよりは脱コル方面と相性悪いのかなって感じ
ルッキズムは比較差別。小綺麗にしていれば美しさは宿る。世界で一つだけの花にルッキズムを差し込むと地獄になる。
年配の価値観。一方で世の中は良くなってるので、心配ない。妙な価値観で若い人を困らせるのだけはやめようね。
商売である以上自らを商品化する必要がある。売る相手を変えているということ。と同時に乃木坂みたいなノリを受け入れられない女性達が応援したくなる歌手の存在は肯定すべきでは。
他人が私の美醜を決めつけるなと言うことでは?私の美醜は私が決める
顔の美醜なんかは愛し合う私と貴方の二者が満足すればいい要素なんだよ。SNSで総評価時代になった結果、みんな芸能人みたいなレベルを求めるようになったけど。
「誰がなんと言おうと私は美しい」とは、自尊心の表明。他人の評価によらず、自分を肯定するということ。自己批判の視点を正しく持ちながらもその境地に至れるなら、その魂は確かに美しいと思う。
ブスで何が悪い?の問いに、わたくしは美しさは心の中にあるですわ!と答えたいですの。
自身の美しさは他人ではなく自身で決めるってことでしょ。自己肯定感にも繋がるからそっちの方が健全。
男性歌手は声や曲で評価されるのに、女はそうではない(事が多い) こういう主張を言うと、本人の美醜を問われるという、、 どこまでもズレがあって、
ルッキズムは“美の基準”が一つて概念でしょ、そんな基準に囚われない“美しさ”を自分は持ってるって主張は特段おかしないな。結局“美しい”というラベリングに固執してるように見えてしまうのが難点やろけど
ルッキズムの定義が登場の頃と何かかなり変容してきてる気がしてもうどうでもいいという感じ。
ルッキズム否定するなら、醜美の評価枠から抜け出そうってことじゃないの。我々は美しくなきゃいけないのか?って、問う・問われることから離れようよって話だと思った。もう少し自然体で生きれるといいよねって。
ルッキズムはマスゴミの洗脳でマネタイズやからなw。ちゃんみな?もテレビ見んかったら視界には入らんし、刷り込みのコピーすら耳にせんのやで。なんぞ言うてる時点で見る阿呆でまんまと術中に嵌まってんやでなw。
誰がなんと言おうとの時点でルッキズムに囚われてるんだよな結局。それを気にしたり傷ついたりした過去を経ての言葉だから。ルッキズムを超克するのは難しい。ブスだの美人だのと吐く誰かが居なくなるしか無い
ルッキズムの否定を「容姿を評するな」とするなら、ちゃんみなさんの「(お前が)評するな」も、この方の「(美醜を)評するな」も両立しそう。
歌の上手い不細工な歌手と、見た目の良い口パク歌手と、どっちが歌手なのか問題w
才能で評価すべき場面では才能で、人格で評価すべき場面では人格で、見た目で評価すべき場面では見た目で評価すればいいとおれは思うが。ほかの評価項目では差をつけるのに、見た目だけはだめとかよく分からないな
男性歌手だって容姿悪い奴はいないでしょ。人気商売で見た目が価値基準に入るのは当然
主張に対して言い返すことばでやだな
アンチルッキズムもフェミニズムみたいにしたいのか?
ただのヘッジ。整形にロングしながらルッキズムにショート入れておく。ビットコインみたいなもんやね(?)
ジェンダーに労働からの解放の権利が含まれると思わされて育って大きくなったら、それを許さない社会、経済になっていた怨みを、労働のエネルギーに変えられる人が先に売れていく悪夢のような人生。その慟哭かな。
ちゃんみなの「美人」などについて書かれており「美で測られることへのアンチテーゼに主観的な美を持ち出すのではなく、更なる枠組みの解体がいるのでは」という話。私は反対だが、多くのブコメが文脈を読めていない
美の基準が他人と自分で異なるなら「誰が何と言おうと私は美しい」はおかしくない。その「美しさ」が外見の美しさの話であればルッキズムではある。人間美しいものは好きなので多様な基準のルッキズムは健全だろ
ひろゆきみたいなダラシナイかっこうの、女バージョンみたいなのがいればいいのかな。
真善美の美のことを言っているのでは。芸能界やマスコミ、インターネットが提示する、型にはまりすぎてて底が浅い美にとらわれる必要はないが、醜くてはよいと開き直っている訳ではない
見た目の「ブス」はルッキズムから派生したので「ブスでなぜ悪い」は逆にルッキズムの肯定になる。ルッキズムを無視するならブスという概念を無くすべき
「太ってても可愛い」はルッキズムの否定でよさそうだけど「太ってる方が可愛い 」はまた別の軸のルッキズムを生むとは思う
『芸能人でもないのに小綺麗にしてる人間が多すぎると思う』これには同意。特に「女性は外出るならメイクして当たり前」な常識にも疑問。じゃあ男もしろ?俺は肌が弱いので嫌どす/基本、"舞台に上がる"人だけで良い
最近のミスコンは、そういった新しい美しさを主張しているような。かつての日本での金銭的豊かさではない本当の豊かさ、みたいな既存の価値への修正は別に珍しいものでもない。
自分で自分のことわざわざブスだと思う必要はない。全員美しいみたいなノリでは。外見に画一的な美しさが全てではないって意味でしょ。あとルッキズムは能力とは別に容姿で判断のことだから美しさ自体は否定してない
評価をするな、と言う事なんだよな。いいとか悪いとかそう言う評価をする事がよくないと言ってるんだが、悪い風に言うな、いいと受け取れみたいな話になるとベクトルが違うだけで同じ話してない?となるんだと思う。
清潔にしてるのに清潔感が無いと言われる事には反対したいやで
「美しい方が良い」という枠組みに対して「今まで醜いとされてきたこれも美しいのだ」では最初の枠組みは解体されないって話をしてるんだと思う。
日本人全員、関西のおばちゃんになればええんや。知らんけど。
「私は美しい」として肯定すると、自身を美しいと思えない人の否定になるので、やはりルッキズムの一部ではあるのかと思う。 美しくてもそうでなくても、誰しもが肯定されるのがルッキズム否定
美醜という概念からの脱却ではなくて、価値基準を他者に握られることへの反発だろう普通に考えて
ブスという言葉は明確に低評価・否定の意味を含む。何で他者からのそんな評価を受け入れなければならないのか、受け入れる必要ない、というのがルッキズムの否定。「筋」とかいう変な言葉で他者に呪いをかけるな
ルッキズムの対極がありのままの「野生」かというと、違うと思うんだよね。
この人にとっての美とは外見のことなんだな
美しいってのは俺の生き方カッコ良いって意味なのでは。美も醜も無い世界なら、ブスという単語も無いはずだが…
「ブスで何が悪い」というのはブスと言う側の「美しい」の基準の中での話。「誰がなんと言おうと私は美しい」はお前の基準なんて知らねえよ「美しい」の基準は私が決める宣言。全く違いますね。
『見た目』だけの話をしてるからおかしいんであって美しいってもっともっと広い意味の言葉だと思うの。今日元気な私は滅茶苦茶美しいし、あの人の為にご飯を作る私も美しいし勿論化粧が上手くいった私も美しいの。
人を評価するのに、醜美を基準にしようと努力やスキルを基準にしようと、大して変わらないと思うのだが、なぜか努力やスキルで評価するのは正しいということになってるのよな。
美をあらゆるものに見出すことで価値体系を破壊することが目的なので、単純な美の基準に乗らない、ってことなのでは
「ブス」って悪口にしかならないかつルッキズムの申し子的な言葉だと思ってるので、自分にも他人にも使いたくない。ていうかそういえば、そういう評価軸が消えつつあって使う機会がなくなった気がする?
ちゃんみなが訴えているのは「自分にとって美しく」だから。他人に美しさを決められる時代は終わりだ!自分にとっての「美しさ」を見つけて生きろ!という魂の叫び。「醜さこそ美しい」と思えるなら、それも正解。
流行ったのはレディガガの「I’m beautiful in my way 'Cause God makes no mistakes」からかな。「他者評価ブスで自己評価ブスだとしても、神のお作りになったあなたは美しい」は、外見だけじゃなく行動含めてそうあれかしという話
元ポストは正しい。革命を起こして自分も貴族になる、君たちも貴族になれるよというのは貴族制の否定ではない。貴族も平民もいるがもはや貴族に特権はなく権利は平等なのだというのが貴族制の否定。
人それぞれ価値観は違うからね…。
会社とかでは別に言われたくはないな(だって仕事と関係ないもの)でも30超えたらババアとかもっと年上の人が言うとかなんなんだろうな
これが結構苦しい理由が、自分はクゾやろうと自認してるが、それは年齢や美醜とは関係なく、自分の内面がクソってのに、向き合わないといけないから。
英語圏で彼らの言う「beautiful」の奥行きにハッとさせられた。日本でありがちな見た目の美醜ではないんだよ。心や考え方、在り方を含んでいる。その点では“歌の実力“ で勝負し世界進出してるAdoは興味深い例だと思う
柳宗悦の民芸運動を批判する魯山人や青山二郎(白洲正子)と同じ図式。柳の思想も極端だったのだが魯山人も青山も違う意味で極論だった。(そもそも「内輪揉め」だったのよ、外野からみると)
これ同じことなんだけど一方で別の美を出してると(ポジティブにもネガティブにも)勘違いされるアプローチで実際そう勘違いされてる例多々 手垢まみれの整形顔の垢抜け勢がの生態とか
ドブネズミみたいに美しくなりたい。と歌ったのが39年前かぁ。。。
美の否定ではなく序列の否定でしょ。みんなちがって、わたしがうつくしい。
どっちにしろ自分の美醜と他人の価値観を意識してる時点で美しくないと思うね 俺は そんなのは先導者でなく小市民でしかないよ
ルッキズム否定しなくても一般人は普通に生きていけるやろ。
ビジネスマナー講師感がある
ルックスに限ってたとしても攻撃の道具としてブスやババアって単語使い続けられてる現状で今更その文脈無視した解釈でいいって無理がある。時間かかるしその間も削られるわけで
ルッキズムは他人を美を基準に評価することが問題で自分の基準を他人に押し付けずに「みんな違ってみんないい」なら別に関係ないと思うのじゃが?
外見の良さには価値があるが、どんな局面でもそれで評価される訳ではないというだけのことと思ってる。足が速いとか歌が上手いとかと同じ。
ブス、ババアとかそういう言葉ってさ、たとえ自分が自虐に使うとしても、品性がないなって思うのよね。何が悪い!?ってのも攻撃的で嫌い。その言い方だと、結局すごく気にしてるじゃんとしか思えない。
モテ非モテみたいな話の構造で主体的で社会的な身体と忍ぶこととか
ブス女性はキモくて金のないおばさんの私に向かって「キモイ、キモイ」とよく言ってくるからキライだ。キモくて何が悪いのか?
主観で美醜を断じるのがルッキズムなんじゃ?
「誰がなんと言おうと私は美しい」は、一見すると既存の美の基準からの解放のようでいて、実は 「美=価値がある」「美=肯定されるべき」 という構造を一切崩していない。ルッキズムとは本来、この連鎖全体の問題。
Chatgptに聞いたらルッキズム批判にも、美を評価基準から排除したい、比重を下げたい、再定義したいの3つの立場があるって出たで(聴き方かもしれんが
自分の受益には沈黙するが、他人の受益は許せないという心理状態でそれを綺麗事に偽装して済ませるかどうかかから始まり、さらにその処理方式の異なる他人を許せるか許せないかという形式化が可能かと思う。
1か0、どちらかしか受け入れられないって人の人生は大変だな。
容姿に基づいて差別や批判をするのがルッキズムであり、自分の信じる道を行くのは充分ルッキズムの否定にはなるんじゃないか
歳取ると見た目は大差なくなるのでルッキズムから卒業しやすい。その分ルッキズムに全振りしていた人は中身が問われて詰むのでそっちも頑張れ。
オーガニック系ヒゲ女にでもなれと
ノイズミュージック好きだが明らかにノイズならなんでもいい訳ではない。音楽的美学から脱出できてないかもなあと思う一方で相変わらず「そんなの聴いて何が嬉しいの」と言われたり。美しさなんてそんなもんでしょ
世界に一つだけの花と同じでブスはいない自分らしく孤高に生きるならばみな花であるでしょ。この人がプロデュースしてるのはHANAだしさ。
ちゃんみなもHANAも好きだしオーディションも最初から観ているが、ちゃんみなは浴びた攻撃への反発心を表現に直結することが多いので、フラットに見ると攻撃的に見えてしまうし誤解も生むだろうとは思う
自分に対する判断基準を他人に任せるな、という話なので、そもそもブスかどうかという他人の判断基準を受け入れるな、という主張だと思った
内面やスキルでなら優秀といえるのか不明なので、自己評価の話しだよね。内心の話なので「本人がなんと言おうと認めない」も有りってことだから、放っておいたら?
ルッキズムってlook=見た目のことでしょ、美しさって見た目以外にも使う言葉だから何もおかしく無い
適当にググったけどクリスティーナ・アギレラ「ビューティフル」の話か?。ルッキズム否定というなら外見ではなく内面の美しさと解釈すれば良い。
美は国や時代によって違うので、ブスとかいうのも、今の流行りの顔とは外れてるくらいの意味しかない。
「美しさ」は容姿だけのことを指すわけじゃないでしょ。
「美しい」は多義的なのに対し、「ブス」は明らかに人間の容姿に対する侮蔑の意味の言葉でそもそも非対称。後者は他の女性も巻き込むので使うべきじゃない。
言葉の定義……。最初にまず定義をだな……。
ルッキズム否定って、”おまえの審美観には従わないし、自分の審美観を他者に強要しない”って宣言だろうから、自身の内心で何を美しがろうが、醜いと思おうが自由なのでは?
ルッキズムに対する有効な対抗策は、それを人間の本能的な振る舞いであると認めた上で、美醜を善悪かのように扱う事を止め、過剰な不平等を埋めるよう理性的に振る舞う事を美徳とする価値観を広める事しかない。
そもそも美醜という序列づけ・比較をやめるというか、そんな共通言語は解体してしまえという話かな。言わんとすることはわかる
各々が他者を気にせず我が道を行けばいいだけ
件のNGって曲は「お前のNoは無意味」「お前からのNoじゃ死ななかった」から「私が世界中のNoを言われた女の子たちのために扉を開け放ってみせる」と宣言する。つまりちゃんみなの言う美しさとは自分にYesといえること。
“ルッキズム否定しながら、誰がなんと言おうと私は美しいみたいなのはまじで意味がわからなくて” それはあなたのルッキズムですよね 外面に囚われない美しさというものはある
目の下にナメクジ貼り付けた化粧が気持ち悪いんだけど、これは(個人の感想です)で止まればルッキズム否定だし、みんなも気持ち悪いよね? って同意を求め始めるとルッキズム迎合になるのだと思う。
俺は野球は下手だし大谷選手は最高に上手い。なのに大谷選手を広告に使うな俺こそが広告に相応しいが現在の反ルッキズム。野球だけが評価基準じゃ困るけどお笑い芸人でも評価されてるのが現実で野球大会を禁止してる
ルッキズムなる語だけで考えるからこうなる。歌手の価値が歌唱力より若さ可愛いさで評価されるつー現実があったにせよ、自分はメイクや整形頑張るんじゃなく歌の練習をするんだ、程度の話だろ。
そんなのはルッキズムという言葉が一般に知れ渡る前に“〇〇美人”という表現を使ってた日本人には全然ピンと来ないのである。
「誰がなんと言おうと私は美しいみたい」「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」
ルッキズム、マシになるどころか、若い子らの容姿への執着がより病的になっていってない?『ビジュいいじゃん』とか、よく呑気に祭り上げられるよな。
「私は美しい」と、他人を評価することは、別物だと思います!なお私は美しいです!!!
ルッキズムと一言で言ってもセクシズムレイシズムやエイブリズム、エイジズムも絡む。「みんな違ってみんな良い」や「 見た目より中身」が陳腐でペラい表現に見えるのは否定出来ない。
筋?なんやねん筋って!みんながみんな自分を卑下してまでそんな筋通して強くあろうとしなくていいよ~。自己肯定感あげてけ~。
定量的美しさと定性的美しさというか、同じ意味の美しさの話してないよな?
「誰がなんと言おうと私は美しい」と「ブスで何が悪い?」は言い方か違うだけで似たような意味だけど、前者のほうが自己肯定感が強く卑下してない。自分のことブスっていうほうがルッキズムまるだしだよなあ。
富も美も格差を作り出さずにはいられない。格差は差別を生み出す。つまり格差と差別はなくならない。
ちゃんみなの主張は第1に、自分なりの美を確立した、私はこれを美しいと思う、ということ。第2に、これは他人の評価からは自由なものであるから、好き勝手な評価軸による評価はやめようね、ということ。
ちゃんみなの件
美よ滅べ