近代の精神は支配階級からちっともトリクルダウンしないじゃん、それってどういうこと?って疑問を「動物」「人間」というキーワードをとおして知る機会が迫っています。コジェーヴの本を楽しみに待っています。
クマの挙動を見るにそれなりに知的かつ戦略的でポストモダンが期待する動物じゃないっぽい
動物的な行動の怒りや性欲など、わかりやすいのは近代化している。『短い強い言葉に流されやすい』などの細かい動物的な行動が否定され、近代化されるのは時間がかかるだろう。かなり脳のリソースを使うので無理かも
鳥獣戯画
実はこれ、社会(もしくは「群れ」)が持つ性質によるもので、いわゆる「サボる蟻」と同様に、2割の近代化した精神を持つものを取り除いたら残りの人間のうち2割の精神が近代化したりして。
そもそもオタク論(それが日本のアニメ等ファンに限るとしても)とやらは、うろ覚えの記憶や偏見に基づく個人の印象論を出ないのでは。日本人・日本社会論の方が遥かに説得力がある
他の思想がトリクルダウンするまでにどれくらいかかったかを比較してからでもいいんじゃね?
当時はオタクがネットに多かったからオタクが分析対象になっただけで、今となってはオタク以外の多くの人たちにあてはまる分析だと思う。
動物とオタクの境界線、バランスボールの上での綱渡りですわね。知的探求、楽しみですの!
近代精神が上の階級から落ちてきたとして、じゃあそれを下にいる側が喜んで受け取るかという疑問がある。「俺達には俺達のもっと良い価値観があるんだよ!」って突っぱねているからトリクルダウンにならないのでは?
「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく」有権者の望む言動(鹿!外国人!)を垂れ流して支持を集める政治も似たような状況ではないですかね。
あほくさ。結局、ただの「オタク第三世代(消費世代)叩き」でしょ。
動物の世界は飢えと生存競争ばかりですので動物という例えが頭に入ってこない
この定義で言う人間なんて存在しない。人間ぶっている動物がいるだけだろう
動物に見えるのはその集団から遠い場所にいるから
精神のトリクルダウンというのは、そもそも起こるものなんですかね。武士道なんかは、誤った形ながらトリクルダウンしたと言えるのかもしれませんが。
わけわからん。この定義だと「人間」ってごく限られたものだけでほとんどは動物ってことになるからオタクがどうのいっても意味無いような
俺には古いオタクも今のオタクも変わらず動物に映るがね
“近代が生み出した自動車やスマホや、近代と切っても切れない資本主義の精神については、私たちは驚くほど簡単にこれを自らのものにしている。ところが近代の精神はそうなってはいない。”
「エリート子息のオタク」ってどんな人?エリートの子息が身につける文化資本はずっと正統文化では?オタクはマンモス駅弁大学のノンエリートで、元から近代主体に興味ないから消費に徹するわけでは?
覚えてないけど動ポモって動物化を悪いことだとは捉えていなかったような
ネットが普及しコミュニティーが拡大した後だろう。コミュニティーやオタク活動が地理的、情報的に断絶されていた世代は感想や自給自足的創作をしていた。マス化して創作者と供給者の分離が進んだ時点が動物化の始り
人間の比率が増えなくても、人間の価値が忘れ去られなければいいんじゃないのか。あと日本一売れてる雑誌の看板が鬼滅呪術ドクストチェのときは「動物のレベル高ない?」ってなったよ。動物も進化と適応くらいはする
ヘーゲルのいう「人間」になるのはよっぽど傑出した能力がないと現実的には無理/だから不満足なソクラテスより満足した豚でいさせろという昨今の反能力主義的バックラッシュにも一定の理がある
文字の向こうの見知らぬ人間に共感したり憎んだりして、虚構でしかない右や左の言説の元離合集散してるのってすごく人間的なことだと思うけどなぁ。ここでいう人間とは程遠いかもしれないけれど。
オタク消費する自分をメタ視点で嗤い、嗤いながらそれを肯定する 80 年代のメタ・パロ世代のスタイルが、大衆消費をしながら「人間」をキープするギリギリの戦略だったのかも。結局、それがオタクエリート仕草か…
AI関連の話見てても思うけどAIに勝てる知能を持っているのは一握りの人間だし、仮に90%の人間が「動物」だとして「人間」とは何なのかって思うよね
世の中、あらゆる趣味人の99%は消費オタだよ。昔から。その中の1%が生産オタ(同人など)になり、さらにその1%がプロになる。いつの時代も消費オタの数の方が圧倒的
動物もオタクも、ボクには癒やしが必要なのにゃ!みんなまとめてモフりたいにゃ~!
嫌な動物だな
UGCをはじめとして、創作批評活動するオタクは確実に増えているように思えるけど、彼らは動物であり人間であるのではないか。これからAIの普及に伴って更にハードルは下がる、ポストポストモダン時代なんじゃないか
九分九厘動物だよね
昔、動物的な消費で快楽を得られるのは裾野が広がった部分のオタクだけでコア層は専門化と排他が進み、村社会になっていくのではって感想を書いたような気がする
いまさら東浩紀でオタクを語るやつは何をやってもダメ、と言いたいがまあ「動物」の側面を否定しても人間を捉えきれないというところまで「モダンが進んだ」ということではあると思う。合理性はもっと追求されるべき
労働者階級が触れたオタクカルチャーといえばゼロ年代のパチンコパチスロを思い出す。あそこで観測されたハビトゥスはまぎれもなく労働者階級のそれだった。
近代は教育による啓蒙を進めればいずれ皆が近代人になれるという前提があった。現代の科学的知見は脳の認知機能、遺伝的能力の壁による啓蒙の壁を見せつけている(年齢が上がるほど教育の影響は減衰する等)。
昔から一部の支配階級除けば、どの社会も9割以上は誰かが決めた枠組みの中で働いて増えて死ぬだけの動物でしょ。で、あとの残りはだいたい犯罪者とか
ジャパリパークへようこそ!
これってポスト構造化が普遍的なものになり実はトリクルダウンしているのだけど大きな潮流としては知覚できなくなっている可能性があるのでは、、、と思ってみる
そもそも論として、人間存在に期待し過ぎでは?という感がある
よく分からんけど、オタク趣味が都会の富裕層だけのものだった時代ってあるのかな?オタクや漫画・アニメのクリエイターの中にそういう人もいたかもしれないけど、昔も大多数は地方の中流~労働者階級なのでは
オルテガの大衆論とかでも思うが、それまで知的生産階級の視界に入らなかった(≒”動物”のように見える)人々も皆同じレイヤーの情報にアクセスできるようになってきたってだけの話な気もするんだよねこれ
元より1980年代の段階から人間的(哲学的)なオタクなんて一握りの少数ですよ。今にして思えば00年代当時あんなに文字量が多い萌えビジュアルノベルを読んでネットに長文の考察を書き合ってた層は十分にプチインテリ的
下らないヘイトスピーチ。ドヤ顔で差別意識を垂れ流す自称知識階級には反吐が出る。痴性しか無い汚物。
動ポス、オタクは動物化してるけど、でも人文リベラル左派って動物以下じゃない? って本なので、はるかに今より尖ってんだよな
オタクを消費という観点でしか見ないのは視野が狭くないですか?「○○で遊ぶのは子供」論でもそうだがクリエイターを不可視化してコンテンツは草木みたいに生えてくると思ってるのか
右傾化する東浩紀って本を誰か書かないかな
その「人間」て正直愚行権に近いと思うんだよな。レールに乗りたくねぇとかいって青い鳥発見するようなさ。/ ごめん、後半めっちゃ目が滑って読めてない。
おお。そういうことか。(「ディスタンクシオン」を読み通したので、わかることもある)
だいたいおれが「おれにはこの本むずかしすぎて読めない」って放り出すのこの本くらいから
基礎知識: コジェーヴはスターリニスト。スターリンが死んだ時「まるで父親が死んだようだ」と悲しんだ。
単なる消費ではなく、作品として消化せず情報やミームとして取り込むだけの消費を指して動物化と呼んでいたように記憶してるのだが…?
基本オタク関係ない話だと思うんだよね。だからコジェーヴって人に関心があったとしてもなぜ今さら東なのかってのが割と追いきれない。
厨二病になると自分以外が馬鹿にみえる現象と何が違うんだろう。「人間」様に「動物」認定される側も生きている人間なんだぜ。(東のデータベース的動物の考え方は面白いと思っているけどね)
大概の人は日によって人間だったり動物だったりするんじゃないかな。お貴族さまだってたまには猿になるし、労働者だってたまには哲学者になる。人間をビットで理解しようとするのがどうしようもなく浅く感じる。
思想のトリクルダウンって、変化・大衆化込みじゃないと出来ない気がするのですが、そうなると全人類が近代人になれない近代とは何だろうか問題? 00年代頃、おたく(エリート)になれないヲタ・逸般人を自認した。
オタクが動物化したのか、動物がオタクになったのか──『動物化するポストモダン』再読、それからコジェーヴ - シロクマの屑籠
近代の精神は支配階級からちっともトリクルダウンしないじゃん、それってどういうこと?って疑問を「動物」「人間」というキーワードをとおして知る機会が迫っています。コジェーヴの本を楽しみに待っています。
クマの挙動を見るにそれなりに知的かつ戦略的でポストモダンが期待する動物じゃないっぽい
動物的な行動の怒りや性欲など、わかりやすいのは近代化している。『短い強い言葉に流されやすい』などの細かい動物的な行動が否定され、近代化されるのは時間がかかるだろう。かなり脳のリソースを使うので無理かも
鳥獣戯画
実はこれ、社会(もしくは「群れ」)が持つ性質によるもので、いわゆる「サボる蟻」と同様に、2割の近代化した精神を持つものを取り除いたら残りの人間のうち2割の精神が近代化したりして。
そもそもオタク論(それが日本のアニメ等ファンに限るとしても)とやらは、うろ覚えの記憶や偏見に基づく個人の印象論を出ないのでは。日本人・日本社会論の方が遥かに説得力がある
他の思想がトリクルダウンするまでにどれくらいかかったかを比較してからでもいいんじゃね?
当時はオタクがネットに多かったからオタクが分析対象になっただけで、今となってはオタク以外の多くの人たちにあてはまる分析だと思う。
動物とオタクの境界線、バランスボールの上での綱渡りですわね。知的探求、楽しみですの!
近代精神が上の階級から落ちてきたとして、じゃあそれを下にいる側が喜んで受け取るかという疑問がある。「俺達には俺達のもっと良い価値観があるんだよ!」って突っぱねているからトリクルダウンにならないのでは?
「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく」有権者の望む言動(鹿!外国人!)を垂れ流して支持を集める政治も似たような状況ではないですかね。
あほくさ。結局、ただの「オタク第三世代(消費世代)叩き」でしょ。
動物の世界は飢えと生存競争ばかりですので動物という例えが頭に入ってこない
この定義で言う人間なんて存在しない。人間ぶっている動物がいるだけだろう
動物に見えるのはその集団から遠い場所にいるから
精神のトリクルダウンというのは、そもそも起こるものなんですかね。武士道なんかは、誤った形ながらトリクルダウンしたと言えるのかもしれませんが。
わけわからん。この定義だと「人間」ってごく限られたものだけでほとんどは動物ってことになるからオタクがどうのいっても意味無いような
俺には古いオタクも今のオタクも変わらず動物に映るがね
“近代が生み出した自動車やスマホや、近代と切っても切れない資本主義の精神については、私たちは驚くほど簡単にこれを自らのものにしている。ところが近代の精神はそうなってはいない。”
「エリート子息のオタク」ってどんな人?エリートの子息が身につける文化資本はずっと正統文化では?オタクはマンモス駅弁大学のノンエリートで、元から近代主体に興味ないから消費に徹するわけでは?
覚えてないけど動ポモって動物化を悪いことだとは捉えていなかったような
ネットが普及しコミュニティーが拡大した後だろう。コミュニティーやオタク活動が地理的、情報的に断絶されていた世代は感想や自給自足的創作をしていた。マス化して創作者と供給者の分離が進んだ時点が動物化の始り
人間の比率が増えなくても、人間の価値が忘れ去られなければいいんじゃないのか。あと日本一売れてる雑誌の看板が鬼滅呪術ドクストチェのときは「動物のレベル高ない?」ってなったよ。動物も進化と適応くらいはする
ヘーゲルのいう「人間」になるのはよっぽど傑出した能力がないと現実的には無理/だから不満足なソクラテスより満足した豚でいさせろという昨今の反能力主義的バックラッシュにも一定の理がある
文字の向こうの見知らぬ人間に共感したり憎んだりして、虚構でしかない右や左の言説の元離合集散してるのってすごく人間的なことだと思うけどなぁ。ここでいう人間とは程遠いかもしれないけれど。
オタク消費する自分をメタ視点で嗤い、嗤いながらそれを肯定する 80 年代のメタ・パロ世代のスタイルが、大衆消費をしながら「人間」をキープするギリギリの戦略だったのかも。結局、それがオタクエリート仕草か…
AI関連の話見てても思うけどAIに勝てる知能を持っているのは一握りの人間だし、仮に90%の人間が「動物」だとして「人間」とは何なのかって思うよね
世の中、あらゆる趣味人の99%は消費オタだよ。昔から。その中の1%が生産オタ(同人など)になり、さらにその1%がプロになる。いつの時代も消費オタの数の方が圧倒的
動物もオタクも、ボクには癒やしが必要なのにゃ!みんなまとめてモフりたいにゃ~!
嫌な動物だな
UGCをはじめとして、創作批評活動するオタクは確実に増えているように思えるけど、彼らは動物であり人間であるのではないか。これからAIの普及に伴って更にハードルは下がる、ポストポストモダン時代なんじゃないか
九分九厘動物だよね
昔、動物的な消費で快楽を得られるのは裾野が広がった部分のオタクだけでコア層は専門化と排他が進み、村社会になっていくのではって感想を書いたような気がする
いまさら東浩紀でオタクを語るやつは何をやってもダメ、と言いたいがまあ「動物」の側面を否定しても人間を捉えきれないというところまで「モダンが進んだ」ということではあると思う。合理性はもっと追求されるべき
労働者階級が触れたオタクカルチャーといえばゼロ年代のパチンコパチスロを思い出す。あそこで観測されたハビトゥスはまぎれもなく労働者階級のそれだった。
近代は教育による啓蒙を進めればいずれ皆が近代人になれるという前提があった。現代の科学的知見は脳の認知機能、遺伝的能力の壁による啓蒙の壁を見せつけている(年齢が上がるほど教育の影響は減衰する等)。
昔から一部の支配階級除けば、どの社会も9割以上は誰かが決めた枠組みの中で働いて増えて死ぬだけの動物でしょ。で、あとの残りはだいたい犯罪者とか
ジャパリパークへようこそ!
これってポスト構造化が普遍的なものになり実はトリクルダウンしているのだけど大きな潮流としては知覚できなくなっている可能性があるのでは、、、と思ってみる
そもそも論として、人間存在に期待し過ぎでは?という感がある
よく分からんけど、オタク趣味が都会の富裕層だけのものだった時代ってあるのかな?オタクや漫画・アニメのクリエイターの中にそういう人もいたかもしれないけど、昔も大多数は地方の中流~労働者階級なのでは
オルテガの大衆論とかでも思うが、それまで知的生産階級の視界に入らなかった(≒”動物”のように見える)人々も皆同じレイヤーの情報にアクセスできるようになってきたってだけの話な気もするんだよねこれ
元より1980年代の段階から人間的(哲学的)なオタクなんて一握りの少数ですよ。今にして思えば00年代当時あんなに文字量が多い萌えビジュアルノベルを読んでネットに長文の考察を書き合ってた層は十分にプチインテリ的
下らないヘイトスピーチ。ドヤ顔で差別意識を垂れ流す自称知識階級には反吐が出る。痴性しか無い汚物。
動ポス、オタクは動物化してるけど、でも人文リベラル左派って動物以下じゃない? って本なので、はるかに今より尖ってんだよな
オタクを消費という観点でしか見ないのは視野が狭くないですか?「○○で遊ぶのは子供」論でもそうだがクリエイターを不可視化してコンテンツは草木みたいに生えてくると思ってるのか
右傾化する東浩紀って本を誰か書かないかな
その「人間」て正直愚行権に近いと思うんだよな。レールに乗りたくねぇとかいって青い鳥発見するようなさ。/ ごめん、後半めっちゃ目が滑って読めてない。
おお。そういうことか。(「ディスタンクシオン」を読み通したので、わかることもある)
だいたいおれが「おれにはこの本むずかしすぎて読めない」って放り出すのこの本くらいから
基礎知識: コジェーヴはスターリニスト。スターリンが死んだ時「まるで父親が死んだようだ」と悲しんだ。
単なる消費ではなく、作品として消化せず情報やミームとして取り込むだけの消費を指して動物化と呼んでいたように記憶してるのだが…?
基本オタク関係ない話だと思うんだよね。だからコジェーヴって人に関心があったとしてもなぜ今さら東なのかってのが割と追いきれない。
厨二病になると自分以外が馬鹿にみえる現象と何が違うんだろう。「人間」様に「動物」認定される側も生きている人間なんだぜ。(東のデータベース的動物の考え方は面白いと思っているけどね)
大概の人は日によって人間だったり動物だったりするんじゃないかな。お貴族さまだってたまには猿になるし、労働者だってたまには哲学者になる。人間をビットで理解しようとするのがどうしようもなく浅く感じる。
思想のトリクルダウンって、変化・大衆化込みじゃないと出来ない気がするのですが、そうなると全人類が近代人になれない近代とは何だろうか問題? 00年代頃、おたく(エリート)になれないヲタ・逸般人を自認した。