昨日の続き。消費個人主義がここまで浸透している以上、アイデンティティが資本主義に染まるって考えたほうが実地に即しているんじゃないの?って話。それはアイデンティティ以外の心理学概念・モデルにも言えるかも
もちろん悪いことではないけど、何年か前のどこかのタイミングで「推し活」という言葉を広告代理店が多用し始めた(テレビで使われ始めた)ときは、「うへえ」って思ったのを覚えている。
お金というのは権力を数字で管理するようにしたものなんですよ。アイデンティティをカネで買うとはアイデンティティを権力で手に入れるのと同じ事。
そのカネを屏風から出しておくれよ
糸井重里は1988年の時点で「ほしいものが、ほしいわ。」と資本主義のメカニズムを指摘した。大衆が「アイデンティティ」を欲望する時それを「国家」が提供し「動員」の道具としたのが大政翼賛会ではなかったか。
つまり人々のアイデンティティをぐらつかせればぐらつかせるほど仕組みを持ってる人はお金が儲かるってことだな。
心の隙間を埋めるために市場ができたのか、市場を生み出すために心の隙間を広げられたのか、もしくはその両方か
「資本主義の機構にひざまずき、靴をなめていませんか?」これはコンサルタントという職種を選んでしまう、学生や若手社会人に向けられた鋭利な刃物のように見えた。そう我々は資本主義の奴隷
単なる企業戦略に乗せられた「消費奴隷」だとしても、本人たちが自分を定義し、他者と繋がり、より豊かな人生を追求するための現代的な手段としてそれを選択するならWinWinてことかな。
仕事にせよ趣味にせよ他者を上回らないとアイデンティティにならないという人間観×消費のアイデンティティ化礼賛=?。前記事は、その商業主義に染まった物語を衰退国家でどうするのという問題意識じゃ無かったんか。
カメラを買っただけでカメラマン。世の中そんな甘くはないで。何者かになるにはそれなりに時間と努力がいる。
買えるものなら買いたいわぃ。醒めない夢なら夢でもいいさ。
推し活=オタク・マーケティングこそその最たるもの、と思ったら直後に言及されていた「アニメ愛好家ゲーム愛好家に比べていっそすがすがしいほど差異化の記号を買い求め、消費個人主義社会を正面きって生きている」
人から慕われる人って自分のためじゃなくて他人のために動いてる、利他的な人なんだけど、その時って自分というアイデンティティは消え失せて、ただ人に尽くす存在になるんだよね。自分が消えてこそ真の自分なんだよ
そこで『物語化批判の哲学』ですよ。
途中にある「承認された人がアイデンティティを求めない」って「金持ちは金を求めない」みたい/悪と言うならアイデンティティに振り回される事が悪だろう。欲自体でなく自制心のなさが悪。
バーに通って、マスターや常連さんと楽しく話してるので、アイデンティティをカネで買ってるとも言えるね。仕事や家庭とは違う第三のコミュニティが欲しいので、続けるけど。
1940年代のアメリカが舞台の(1980年ごろに書かれた)小説を翻訳しているんだが、スニーカーやラジオといった消費物資(が買えないこと)がどれほど少年のアイデンティティ形成に影響を与えたかが描かれてるな
アイデンティティという概念が近代の資本主義の中の概念だと思います。そして、資本主義を理解するならば、「資本論」を読むしかないと思います。物神化の概念を何回も読むのが、一番だと思います。
私は文化も政治も脳内物質出して逃避しているようにしか思えなくて…興奮についていく体力がなくなった時、つらくなるんじゃないかなと思う。知らんけど/自分の中に「イエ」を作り出せるのがIFSとかTS自我状態療法かも
アイデンティティを出生で買うよりはマシなのでは
アイデンティティは他者との関係の内面化だけど、消費ってコミュニケーションじゃないのよ。一見そう見えてもね。ウチラは市場でコミュニケーションの幻想を買ってる。スマホを一人っきりでタップしてね。
「それをお金で買いますか」じゃないけれど哲学というか思想を持ちたいところはある
自分がアイデンティティ周りであんま悩まないのは、高校時代の体験からかなあ。今となっては思い出の中でしかないけれど、むちゃくちゃ強固で楽しい(「学園ものラノベかよ」と突っ込まれそうな)居場所があった。
資本主義という悪魔に食い潰され無い為には金の外側にアイデンティティを置くのが良い。搾取を行う資本家なんかはそこを突いて来る。金余ってんなら好きにすれば。俺は資本主義を内面化した奴隷にはなりたくないがね
「maslow's hierarchy of needs」は、現実の人間の心性を記述しているかというサイエンスではなく、「生理的欲求たるメシを抜いても推しに出費させるよう、承認欲求を駆動させろ」というエコノミーに使われがち。
いいか悪いかと言っても、自由権的文脈なら好きにすれば良いだけだが、知的活動としては煽られて批評精神なく消費するだけなのは明確に程度低い、というだけのこと。程度の低さを認めて居直らないならどうぞご自由に
何となく消費と中流の平成が終わり資産と中産の令和の時代が始まりそうな気がする https://note.com/brothert/n/naaa44e2b95c4 http://blog.livedoor.jp/brothertom/archives/89475948.html
みんな資本主義が嫌いなんだな。カネで買える事物が増えたから「食い扶持稼いで納税してればとりあえず一人前」な価値観が成り立ったんだろうし俺はそれに救われている。頭いい人は自省的でお偉いことでございますね
そういう世界を拒絶してこっそり生きていくためには、そういう資本主義の奴隷達がたくさん頑張ってくれないといけないんだよな。
若い頃は何をするにも懸命で余裕が無く、歳を重ねた今は運良く必要とされている場が複数あり、優秀でもなく無能でもなく特に趣味も欲無く、アイデンティティについて考える事は無かったが、これから先はわからない。
アイデンティティは何か起こると変容し揺らぐものなので、何かに帰依することで永遠ならずとも安定するなら、お金を通してコミットする手もあるけれど永遠ならずかりそめでもあるのには変わらなくて
土佐の郷士株とか金銭で買えたって話があった様な。
おっカネえ話だな
特に異論はないけど、そもそも異を唱える人をあんまり見たことがない
面白かった。“マズローの心理学とあの欲求段階ピラミッドは、働く人間をもっと働かせるのに適した心理モデル”
つかみどころのない人生を要約するシンボルを手に入れたい、ということなのだと思う。無数の現象を抽象化・要約しないと理解できないヒトの認知能力の限界と関係ありそう
ファッションをアイデンティティにしてる人で、自作してる人なんて10%どころか1%もいないと思うけどな。大部分その殆どは、何処かで誰かが提示した物をそのまま着てるだでしょ。商品選択と消費活動良いと思います。
別にいいんじゃないの、アイデンティティ=自己同一性というのは置き換え不能性が重要だけど、金で置き換えできるものでも本人が充足出来るなら何の問題もない
かつては身分に対して、正統性と文化とアイデンティティと必要な支出があって、たとえば武家なのか商家なのかが形成されていたけど、近代から現代に至って、何がそれを支えるのか。単一じゃないとは思う。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」マタイ6が響きます。
アイデンティティは広い概念なので(大きく分けても外面、内面)、字数の割にとっ散らかってる他人の感想としか思えない
自己同一性と言ったほうが良いのでは。過去から連綿と続く積み上げたものが人を形づくる。それが行動原理となり資本主義の消費活動に繋がっているだけ。本来関係ない事柄を一緒くたにし捏ねくり回しているだけ。
はてブでスター集めることをアイデンティティにするよりは万倍良い
うわー面白かった。結論としては肩透かしだったけど、ずっとモヤモヤしていたテーマだ。その先の思考の糸口になる話だと思った。
安いものほどそれを選択するセンスがアイデンティティに繋がる。だからこそ、誰もが知ってる高級品にアイデンティティを見出す成金はナンセンスとそしりを受ける
所有よりも「欠損」のほうがアイデンティティの核になりそうなイメージだけど。つまり同じ金を使うならば、消費よりも「パイプカットしました」のほうがアイデンティティになる。
自らのうちに立たせるはずの物を、外部にあると唆したものがあって、それが消費経済。
『資本主義、生活の隅々に入ってきているよね?』『ある程度までは〜認めておいたほうが実地に即していると今の私は思う』 資本主義自体ってよりその無意識の手つきや型の話だ。同意しつつ読みました。
金で買ったアイデンティティで満足できる層とそうでない層が衝突してるイメージがある。俺は後者寄りだが、そういう人間が前者を非難するのはあまり感心しない。金で解決できるならそれに越したことはない。
私も東京の飲み屋コミュニティなりでアイデンティティをカネで買ってるしな。幸せならそれでよし/25歳くらいまではアイデンティティの欠乏に悩んでいた。あの頃といまを比べると天と地ほどの感覚のちがいがある。
アイデンティティをカネで買うのは悪いこと? - シロクマの屑籠
昨日の続き。消費個人主義がここまで浸透している以上、アイデンティティが資本主義に染まるって考えたほうが実地に即しているんじゃないの?って話。それはアイデンティティ以外の心理学概念・モデルにも言えるかも
もちろん悪いことではないけど、何年か前のどこかのタイミングで「推し活」という言葉を広告代理店が多用し始めた(テレビで使われ始めた)ときは、「うへえ」って思ったのを覚えている。
お金というのは権力を数字で管理するようにしたものなんですよ。アイデンティティをカネで買うとはアイデンティティを権力で手に入れるのと同じ事。
そのカネを屏風から出しておくれよ
糸井重里は1988年の時点で「ほしいものが、ほしいわ。」と資本主義のメカニズムを指摘した。大衆が「アイデンティティ」を欲望する時それを「国家」が提供し「動員」の道具としたのが大政翼賛会ではなかったか。
つまり人々のアイデンティティをぐらつかせればぐらつかせるほど仕組みを持ってる人はお金が儲かるってことだな。
心の隙間を埋めるために市場ができたのか、市場を生み出すために心の隙間を広げられたのか、もしくはその両方か
「資本主義の機構にひざまずき、靴をなめていませんか?」これはコンサルタントという職種を選んでしまう、学生や若手社会人に向けられた鋭利な刃物のように見えた。そう我々は資本主義の奴隷
単なる企業戦略に乗せられた「消費奴隷」だとしても、本人たちが自分を定義し、他者と繋がり、より豊かな人生を追求するための現代的な手段としてそれを選択するならWinWinてことかな。
仕事にせよ趣味にせよ他者を上回らないとアイデンティティにならないという人間観×消費のアイデンティティ化礼賛=?。前記事は、その商業主義に染まった物語を衰退国家でどうするのという問題意識じゃ無かったんか。
カメラを買っただけでカメラマン。世の中そんな甘くはないで。何者かになるにはそれなりに時間と努力がいる。
買えるものなら買いたいわぃ。醒めない夢なら夢でもいいさ。
推し活=オタク・マーケティングこそその最たるもの、と思ったら直後に言及されていた「アニメ愛好家ゲーム愛好家に比べていっそすがすがしいほど差異化の記号を買い求め、消費個人主義社会を正面きって生きている」
人から慕われる人って自分のためじゃなくて他人のために動いてる、利他的な人なんだけど、その時って自分というアイデンティティは消え失せて、ただ人に尽くす存在になるんだよね。自分が消えてこそ真の自分なんだよ
そこで『物語化批判の哲学』ですよ。
途中にある「承認された人がアイデンティティを求めない」って「金持ちは金を求めない」みたい/悪と言うならアイデンティティに振り回される事が悪だろう。欲自体でなく自制心のなさが悪。
バーに通って、マスターや常連さんと楽しく話してるので、アイデンティティをカネで買ってるとも言えるね。仕事や家庭とは違う第三のコミュニティが欲しいので、続けるけど。
1940年代のアメリカが舞台の(1980年ごろに書かれた)小説を翻訳しているんだが、スニーカーやラジオといった消費物資(が買えないこと)がどれほど少年のアイデンティティ形成に影響を与えたかが描かれてるな
アイデンティティという概念が近代の資本主義の中の概念だと思います。そして、資本主義を理解するならば、「資本論」を読むしかないと思います。物神化の概念を何回も読むのが、一番だと思います。
私は文化も政治も脳内物質出して逃避しているようにしか思えなくて…興奮についていく体力がなくなった時、つらくなるんじゃないかなと思う。知らんけど/自分の中に「イエ」を作り出せるのがIFSとかTS自我状態療法かも
アイデンティティを出生で買うよりはマシなのでは
アイデンティティは他者との関係の内面化だけど、消費ってコミュニケーションじゃないのよ。一見そう見えてもね。ウチラは市場でコミュニケーションの幻想を買ってる。スマホを一人っきりでタップしてね。
「それをお金で買いますか」じゃないけれど哲学というか思想を持ちたいところはある
自分がアイデンティティ周りであんま悩まないのは、高校時代の体験からかなあ。今となっては思い出の中でしかないけれど、むちゃくちゃ強固で楽しい(「学園ものラノベかよ」と突っ込まれそうな)居場所があった。
資本主義という悪魔に食い潰され無い為には金の外側にアイデンティティを置くのが良い。搾取を行う資本家なんかはそこを突いて来る。金余ってんなら好きにすれば。俺は資本主義を内面化した奴隷にはなりたくないがね
「maslow's hierarchy of needs」は、現実の人間の心性を記述しているかというサイエンスではなく、「生理的欲求たるメシを抜いても推しに出費させるよう、承認欲求を駆動させろ」というエコノミーに使われがち。
いいか悪いかと言っても、自由権的文脈なら好きにすれば良いだけだが、知的活動としては煽られて批評精神なく消費するだけなのは明確に程度低い、というだけのこと。程度の低さを認めて居直らないならどうぞご自由に
何となく消費と中流の平成が終わり資産と中産の令和の時代が始まりそうな気がする https://note.com/brothert/n/naaa44e2b95c4 http://blog.livedoor.jp/brothertom/archives/89475948.html
みんな資本主義が嫌いなんだな。カネで買える事物が増えたから「食い扶持稼いで納税してればとりあえず一人前」な価値観が成り立ったんだろうし俺はそれに救われている。頭いい人は自省的でお偉いことでございますね
そういう世界を拒絶してこっそり生きていくためには、そういう資本主義の奴隷達がたくさん頑張ってくれないといけないんだよな。
若い頃は何をするにも懸命で余裕が無く、歳を重ねた今は運良く必要とされている場が複数あり、優秀でもなく無能でもなく特に趣味も欲無く、アイデンティティについて考える事は無かったが、これから先はわからない。
アイデンティティは何か起こると変容し揺らぐものなので、何かに帰依することで永遠ならずとも安定するなら、お金を通してコミットする手もあるけれど永遠ならずかりそめでもあるのには変わらなくて
土佐の郷士株とか金銭で買えたって話があった様な。
おっカネえ話だな
特に異論はないけど、そもそも異を唱える人をあんまり見たことがない
面白かった。“マズローの心理学とあの欲求段階ピラミッドは、働く人間をもっと働かせるのに適した心理モデル”
つかみどころのない人生を要約するシンボルを手に入れたい、ということなのだと思う。無数の現象を抽象化・要約しないと理解できないヒトの認知能力の限界と関係ありそう
ファッションをアイデンティティにしてる人で、自作してる人なんて10%どころか1%もいないと思うけどな。大部分その殆どは、何処かで誰かが提示した物をそのまま着てるだでしょ。商品選択と消費活動良いと思います。
別にいいんじゃないの、アイデンティティ=自己同一性というのは置き換え不能性が重要だけど、金で置き換えできるものでも本人が充足出来るなら何の問題もない
かつては身分に対して、正統性と文化とアイデンティティと必要な支出があって、たとえば武家なのか商家なのかが形成されていたけど、近代から現代に至って、何がそれを支えるのか。単一じゃないとは思う。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」マタイ6が響きます。
アイデンティティは広い概念なので(大きく分けても外面、内面)、字数の割にとっ散らかってる他人の感想としか思えない
自己同一性と言ったほうが良いのでは。過去から連綿と続く積み上げたものが人を形づくる。それが行動原理となり資本主義の消費活動に繋がっているだけ。本来関係ない事柄を一緒くたにし捏ねくり回しているだけ。
はてブでスター集めることをアイデンティティにするよりは万倍良い
うわー面白かった。結論としては肩透かしだったけど、ずっとモヤモヤしていたテーマだ。その先の思考の糸口になる話だと思った。
安いものほどそれを選択するセンスがアイデンティティに繋がる。だからこそ、誰もが知ってる高級品にアイデンティティを見出す成金はナンセンスとそしりを受ける
所有よりも「欠損」のほうがアイデンティティの核になりそうなイメージだけど。つまり同じ金を使うならば、消費よりも「パイプカットしました」のほうがアイデンティティになる。
自らのうちに立たせるはずの物を、外部にあると唆したものがあって、それが消費経済。
『資本主義、生活の隅々に入ってきているよね?』『ある程度までは〜認めておいたほうが実地に即していると今の私は思う』 資本主義自体ってよりその無意識の手つきや型の話だ。同意しつつ読みました。
金で買ったアイデンティティで満足できる層とそうでない層が衝突してるイメージがある。俺は後者寄りだが、そういう人間が前者を非難するのはあまり感心しない。金で解決できるならそれに越したことはない。
私も東京の飲み屋コミュニティなりでアイデンティティをカネで買ってるしな。幸せならそれでよし/25歳くらいまではアイデンティティの欠乏に悩んでいた。あの頃といまを比べると天と地ほどの感覚のちがいがある。