エコチェンバー化が進み、お互いに耳を塞ぎ合いながら社会的事実を分裂させている社会状況。これに限らず、2020年代のポスト近代的状況を個人でどうこうする方策は思いつきません。ただ、近代について今は学びたい。
ポストモダンという概念が持て囃された80年代はコンピューティングも通信も個人のものではなくメディアは大企業に独占されていた。新聞雑誌TVという『マス』コミュニケーションが相対化してポストモダンが出現
“ポストモダンなる言葉が派手に流通していた20世紀よりも、SNSが世界じゅうに普及してからのほうがずっとポストモダン的に見えるようになった”同意。90年代より現代は遥かにポストモダン。それはネットがもたらした
単なる可視化である可能性のほうが強そう。社会的規範が緩くなり自由度が上がったことも一因にありそう。目立つのはごく一部の外れ値なので、報道はその点に留意という記事は正当だろう
偏差値60以上の上位10%向けの論説でなくて59以下の90%の人も含めて、「投票の前には落ち着いて選挙公報をじっくり見てから投票しましょう」とその延長線上にあるものが重要 http://blog.livedoor.jp/brothertom/archives/89297144.html
わかりやすい短い文章や演説に流されない、多数決でお互いを分断しない教育、システムが必要。現代の強力な演算パワーを使えば、切り捨てない、互いに歩み寄れる妥協点を探り会えるシステムを作り運用することは可能
それでどうするか、例えば外国人に対しては地道に日本のルールを教えていくしかないんだろうけどお金も人手も足りないし地味だから政治家はそんなことに興味も無さそう
言われてみればの流石の視点/コミニュケーションコストが下がり過ぎてハルシネーション起きてるんじゃねーかな/個人的には「土から離れては生きられないのよ」だな
素朴相対主義をポストモダン的状況と呼ぶのは日本の俗流理解。遅れてやってきたのはポストモダンじゃなくてこの人の思考
ポストモダン=エコチェン化による煽動で力を得たテック右翼は「王政」と言いました。前近代に逆戻り。民主主義が個々の「主体」を根拠にしている限り「近代的自我」の問題に帰らざるを得ないのかと私も考えています
はてなーはポストモダンよりもソーカルの方が好きそうだから、この状況自体を無意味な韜晦であるとして批判するべきなのでは。ガンダムやエヴァをどう観てきたんだ。
ソーシャルメディアのエコーチェンバーはポストモダンじゃないと思うけど。「我々」と「彼ら」を分断し、彼らの知らない真理が我々の側にある、というのをさまざまな層•レベルでしているので相対主義ですらない。
ウルトラ保守によるテクノロジーー独裁制で、この一派には分断がご馳走。煽り、分断し、圧力で統治せよ。むしろモダニズムからの反動なのだが見てる現実が違いすぎるのかな?
エコチェンって、自分に近しく狭い状況をそのまま世界全体の解釈枠として使っちゃう単なる「セカイ系」だと考えた方が、ウチラ日本人にはいろいろ考察が捗るよw
ポストモダンてそういうことでしたっけ…?むしろ絶賛進行中のオルタナティブ・ライト的なものかと/まさか、出口の落とし所のない破壊的言説を「壊す」一点で脱構築と同一視してたり…?そんなわけないよね?
いろいろ現代を考える補助線を与えてくれるので助かる
シロクマセンセーも「ポストモダン」は東浩紀の「動物化するポストモダン」のことを言ってるんだろう。あの本だと「島宇宙化」だっけ。
人類最古のエコーチェンバーである農村に移住して20年、エコーチェンバーでありながらも農業という”リアル”が核にあるので極端な思想に流されにくく、ポストモダンのひとつの解だと感じてる。
原点の話ですが「日本は本当にポストモダンなのか、それどころかまだモダン、いやプレモダンでは」という真面目な議論も一応あったことは覚えてます。
新聞やテレビといったエコーしないチャンバーの中にいた時代から現代への変貌はそれでも言論の自由は拡大していっているものだと信じたい・・んだけどひでえ状況だとは思う
鬼滅のような「国民的アニメ」が再発生している現在はもはやポスト・ポストモダンだろう。全員個別の世界を生きながら、一方でその中心には共有されている物語が存在している。
ポストモダニズムは色即是空としか言いませんが、大乗仏教は併せて空即是色を唱えており、ここにポストモダンを乗り越えるヒントがあるのではないかと思っています。シロクマ先生は既に通過したお話かもしれませんが
「べらぼう」が今やってるのが天明の大飢饉(米不足と高騰)→江戸の打ち壊しなんだけど、庶民でも買える書籍+西洋に先んじる識字率の高さ、大坂打ち壊しが江戸に伝搬する速さなど、色々気付かされる事が多い。
かつてのニヒリズムは「価値の喪失にどう耐えるか」という苦悩だったのが、今は「価値の乱立をいかにノイズキャンセリングして自分用の真理を作るか」っていうオーダーメイド型虚無の消費社会に変質している(by gpt
エコチェンではあるけど、ポストモダンではないよね。普遍性への懐疑は根幹にはなく、ただただ怒りまかせの狂信者な感じなんよな。angry mobに近い。
ファクトよりナラティブ、被害者意識という温かいナラティブに、時に冷淡ですらファクトはどう立ち向かうのかみたいなことを考えていたけど、ポストモダンってナラティブだけじゃないはずだしなあ
トランスジェンダーなんかもこのカテゴリーだけどな。カントの定言命法でも反例のいかがわしさを強調するだろうけど。
逆だよ!近代以前はみんな村社会のエコチェンバーの中にいたんだよ。ネットばかり見てエコチェンバーに囚われてるのは広義のインテリ人種、今も民衆の大多数は家族や職場や直に接する人間関係で価値観が形成されてる
ファクトの民主化と細分化が進んでるんじゃね。日本最古の権威ある歴史書である古事記と日本書紀にどれだけのファクトがあったのか。マスコミがない、お上の発表だけが正しい時代からマスコミが生まれて更にネットへ
気持ち良いものだけを見聞きしてそれが世界の全てだと思うのがエコーチェンバーなら、それは戦争の時代もそうだしHPVワクチン騒動も然り。ポストモダンなんか関係なくて、ヒトの社会にはいつもあるものなのでは。
下部構造が上部構造を規定する。啓蒙思想は科学の進歩による生産力の向上に支えられ世界を席巻したが、(半導体のプロセスルール見ればわかる通り)頭打ちが深刻でフリーランチの時代は終わり分配をめぐる争い(2万字略
エコーチェンバーと、見たい動画を(判断力が鈍ってる人に)見せると金になる、が悪魔合体した状態は、ポストモダンの一種といえばそうなんだろうけど、亜種というか、もっと劣悪な何かだと思う。LLMで救世主を作れんか
ポストモダンは「正解」がなく、類似した正解が乱立し、近代は唯一の「正解」がある状態だと勝手に思ってきた。その正解が自分にフィットしたものなら快適だが、違う場合は地獄だ。今の乱立状態の方が自由でいられる
エコチェンバー化が「進み」とあるが、私から言わせれば何も進んでない。人間は常にエコチェンバーしかない。むしろ昔は脱する方法がなかったが今は科学その他がある。ただし思ったより脱する手段が進展してない
「昔からエコーチェンバーだったよ」みたいな意見、雑な一般化に感じる。少なくとも昔はエコーするほど情報も多くなく、チェンバーってほど大きな共同体でも無かったでしょう。量だけの差だけど、質に転化してる。
ジョセフヒースが啓蒙主義2.0で、今の時代に必要なのは「昔ながらの伝統的な教室での教育」と言っていて、確かにそうなんだけど、、という感じになっている
同意する。但し「何か良い解がある」と思う事自体近代バイアス。教育の徹底,それも啓蒙のような机上の空論でなく「我々は事実や普遍価値を知りえない」という方向の常識化による,アパシー社会での撤退戦がleast badかと
逆に近代とは何かを知らずして評論的な活動は難しいと思うのだが・・・
みんな「無頼伝 涯」を読んだらいい
最近の話題でも【ラウンドアップは有害か】【彼氏は本当にいるのか】みたいな話があったなあ。全ては胡蝶の夢。私は本当にいるのか。
人間は高尚なものではなく、純粋にその人の考え・知識・要求に沿って個人的に、或いは社会的に振る舞う事が認められてきた感じ。コロナ、戦争など共通の課題に一貫して立ち向かえる生物と言う幻想が砕けたと言うか
"今、ポストモダンについての本を近代についての本として再読すると、びっくりするほど近代について書かれていて、なおかつ、近代の思想を理解する補助線があちこちに引いてある"
“2010年代のある時期から、私はポストモダンなる言葉が派手に流通していた20世紀よりも、SNSが世界じゅうに普及してからのほうがずっとポストモダン的に見えるようになった。”
チェンバーの規模が広がっただけで昔と変わらんのでは。ネットの発展はどこかに所属が早くなるだけで、出会いに打ち込むか、最初に打ち砕かれたものに捧げるかでしょ精々さ。人体というハードが変わらんのやぞ。
遅れてやってきたポストモダンをどうすべきか?って? - シロクマの屑籠
エコチェンバー化が進み、お互いに耳を塞ぎ合いながら社会的事実を分裂させている社会状況。これに限らず、2020年代のポスト近代的状況を個人でどうこうする方策は思いつきません。ただ、近代について今は学びたい。
ポストモダンという概念が持て囃された80年代はコンピューティングも通信も個人のものではなくメディアは大企業に独占されていた。新聞雑誌TVという『マス』コミュニケーションが相対化してポストモダンが出現
“ポストモダンなる言葉が派手に流通していた20世紀よりも、SNSが世界じゅうに普及してからのほうがずっとポストモダン的に見えるようになった”同意。90年代より現代は遥かにポストモダン。それはネットがもたらした
単なる可視化である可能性のほうが強そう。社会的規範が緩くなり自由度が上がったことも一因にありそう。目立つのはごく一部の外れ値なので、報道はその点に留意という記事は正当だろう
偏差値60以上の上位10%向けの論説でなくて59以下の90%の人も含めて、「投票の前には落ち着いて選挙公報をじっくり見てから投票しましょう」とその延長線上にあるものが重要 http://blog.livedoor.jp/brothertom/archives/89297144.html
わかりやすい短い文章や演説に流されない、多数決でお互いを分断しない教育、システムが必要。現代の強力な演算パワーを使えば、切り捨てない、互いに歩み寄れる妥協点を探り会えるシステムを作り運用することは可能
それでどうするか、例えば外国人に対しては地道に日本のルールを教えていくしかないんだろうけどお金も人手も足りないし地味だから政治家はそんなことに興味も無さそう
言われてみればの流石の視点/コミニュケーションコストが下がり過ぎてハルシネーション起きてるんじゃねーかな/個人的には「土から離れては生きられないのよ」だな
素朴相対主義をポストモダン的状況と呼ぶのは日本の俗流理解。遅れてやってきたのはポストモダンじゃなくてこの人の思考
ポストモダン=エコチェン化による煽動で力を得たテック右翼は「王政」と言いました。前近代に逆戻り。民主主義が個々の「主体」を根拠にしている限り「近代的自我」の問題に帰らざるを得ないのかと私も考えています
はてなーはポストモダンよりもソーカルの方が好きそうだから、この状況自体を無意味な韜晦であるとして批判するべきなのでは。ガンダムやエヴァをどう観てきたんだ。
ソーシャルメディアのエコーチェンバーはポストモダンじゃないと思うけど。「我々」と「彼ら」を分断し、彼らの知らない真理が我々の側にある、というのをさまざまな層•レベルでしているので相対主義ですらない。
ウルトラ保守によるテクノロジーー独裁制で、この一派には分断がご馳走。煽り、分断し、圧力で統治せよ。むしろモダニズムからの反動なのだが見てる現実が違いすぎるのかな?
エコチェンって、自分に近しく狭い状況をそのまま世界全体の解釈枠として使っちゃう単なる「セカイ系」だと考えた方が、ウチラ日本人にはいろいろ考察が捗るよw
ポストモダンてそういうことでしたっけ…?むしろ絶賛進行中のオルタナティブ・ライト的なものかと/まさか、出口の落とし所のない破壊的言説を「壊す」一点で脱構築と同一視してたり…?そんなわけないよね?
いろいろ現代を考える補助線を与えてくれるので助かる
シロクマセンセーも「ポストモダン」は東浩紀の「動物化するポストモダン」のことを言ってるんだろう。あの本だと「島宇宙化」だっけ。
人類最古のエコーチェンバーである農村に移住して20年、エコーチェンバーでありながらも農業という”リアル”が核にあるので極端な思想に流されにくく、ポストモダンのひとつの解だと感じてる。
原点の話ですが「日本は本当にポストモダンなのか、それどころかまだモダン、いやプレモダンでは」という真面目な議論も一応あったことは覚えてます。
新聞やテレビといったエコーしないチャンバーの中にいた時代から現代への変貌はそれでも言論の自由は拡大していっているものだと信じたい・・んだけどひでえ状況だとは思う
鬼滅のような「国民的アニメ」が再発生している現在はもはやポスト・ポストモダンだろう。全員個別の世界を生きながら、一方でその中心には共有されている物語が存在している。
ポストモダニズムは色即是空としか言いませんが、大乗仏教は併せて空即是色を唱えており、ここにポストモダンを乗り越えるヒントがあるのではないかと思っています。シロクマ先生は既に通過したお話かもしれませんが
「べらぼう」が今やってるのが天明の大飢饉(米不足と高騰)→江戸の打ち壊しなんだけど、庶民でも買える書籍+西洋に先んじる識字率の高さ、大坂打ち壊しが江戸に伝搬する速さなど、色々気付かされる事が多い。
かつてのニヒリズムは「価値の喪失にどう耐えるか」という苦悩だったのが、今は「価値の乱立をいかにノイズキャンセリングして自分用の真理を作るか」っていうオーダーメイド型虚無の消費社会に変質している(by gpt
エコチェンではあるけど、ポストモダンではないよね。普遍性への懐疑は根幹にはなく、ただただ怒りまかせの狂信者な感じなんよな。angry mobに近い。
ファクトよりナラティブ、被害者意識という温かいナラティブに、時に冷淡ですらファクトはどう立ち向かうのかみたいなことを考えていたけど、ポストモダンってナラティブだけじゃないはずだしなあ
トランスジェンダーなんかもこのカテゴリーだけどな。カントの定言命法でも反例のいかがわしさを強調するだろうけど。
逆だよ!近代以前はみんな村社会のエコチェンバーの中にいたんだよ。ネットばかり見てエコチェンバーに囚われてるのは広義のインテリ人種、今も民衆の大多数は家族や職場や直に接する人間関係で価値観が形成されてる
ファクトの民主化と細分化が進んでるんじゃね。日本最古の権威ある歴史書である古事記と日本書紀にどれだけのファクトがあったのか。マスコミがない、お上の発表だけが正しい時代からマスコミが生まれて更にネットへ
気持ち良いものだけを見聞きしてそれが世界の全てだと思うのがエコーチェンバーなら、それは戦争の時代もそうだしHPVワクチン騒動も然り。ポストモダンなんか関係なくて、ヒトの社会にはいつもあるものなのでは。
下部構造が上部構造を規定する。啓蒙思想は科学の進歩による生産力の向上に支えられ世界を席巻したが、(半導体のプロセスルール見ればわかる通り)頭打ちが深刻でフリーランチの時代は終わり分配をめぐる争い(2万字略
エコーチェンバーと、見たい動画を(判断力が鈍ってる人に)見せると金になる、が悪魔合体した状態は、ポストモダンの一種といえばそうなんだろうけど、亜種というか、もっと劣悪な何かだと思う。LLMで救世主を作れんか
ポストモダンは「正解」がなく、類似した正解が乱立し、近代は唯一の「正解」がある状態だと勝手に思ってきた。その正解が自分にフィットしたものなら快適だが、違う場合は地獄だ。今の乱立状態の方が自由でいられる
エコチェンバー化が「進み」とあるが、私から言わせれば何も進んでない。人間は常にエコチェンバーしかない。むしろ昔は脱する方法がなかったが今は科学その他がある。ただし思ったより脱する手段が進展してない
「昔からエコーチェンバーだったよ」みたいな意見、雑な一般化に感じる。少なくとも昔はエコーするほど情報も多くなく、チェンバーってほど大きな共同体でも無かったでしょう。量だけの差だけど、質に転化してる。
ジョセフヒースが啓蒙主義2.0で、今の時代に必要なのは「昔ながらの伝統的な教室での教育」と言っていて、確かにそうなんだけど、、という感じになっている
同意する。但し「何か良い解がある」と思う事自体近代バイアス。教育の徹底,それも啓蒙のような机上の空論でなく「我々は事実や普遍価値を知りえない」という方向の常識化による,アパシー社会での撤退戦がleast badかと
逆に近代とは何かを知らずして評論的な活動は難しいと思うのだが・・・
みんな「無頼伝 涯」を読んだらいい
最近の話題でも【ラウンドアップは有害か】【彼氏は本当にいるのか】みたいな話があったなあ。全ては胡蝶の夢。私は本当にいるのか。
人間は高尚なものではなく、純粋にその人の考え・知識・要求に沿って個人的に、或いは社会的に振る舞う事が認められてきた感じ。コロナ、戦争など共通の課題に一貫して立ち向かえる生物と言う幻想が砕けたと言うか
"今、ポストモダンについての本を近代についての本として再読すると、びっくりするほど近代について書かれていて、なおかつ、近代の思想を理解する補助線があちこちに引いてある"
“2010年代のある時期から、私はポストモダンなる言葉が派手に流通していた20世紀よりも、SNSが世界じゅうに普及してからのほうがずっとポストモダン的に見えるようになった。”
チェンバーの規模が広がっただけで昔と変わらんのでは。ネットの発展はどこかに所属が早くなるだけで、出会いに打ち込むか、最初に打ち砕かれたものに捧げるかでしょ精々さ。人体というハードが変わらんのやぞ。