文学や文学の舞台は北から南まで存在するが、文壇や出版社は東京以外には稀って話では。
“地方(田舎・郊外)には美術はない、みたいなポストが炎上しているみたいだけど、社寺や石仏・石塔や祭礼とか美術や美に含まれないんだろうか。” /「ある」ものを「ない」と言ったら責められるのは当然では?
美の話じゃなくて情報の話でしょ。象徴に仮託されるという言語機能を理解しましょう
色々と話がごちゃついとるな。指摘としては分かるが、そもそも原義のオリエンタリズム自体、日本(人)としては割とウェルカムスタイルなんだから、それが批判として機能するか?っていう。
世界中の田舎住まいな人々を侮辱して敵を増やす教養も品も良識も無い頭の悪い人は早期に組織から排除・追放したほうが全体のダメージは最小化できるのは確かだ。世界中の工芸品の数々も知らないだろう。
東京に空が無いみたいなもんだろ
地方って土地が余っているようで、2mくらいのキャンパスに絵が描けるアトリエが持てるとかはないんだよなぁ。
美はある。 美術も少しはある。 でも多様でも新しくもない。 そんな環境で育った人が「美術はない」と言っても責められない。 都会の人が田舎の美を見つけられるの他の美を知ってるから。
私の住む東京都B教区はほとんど再開発も起きず、文化財は有る。下町の上、山手の下。ウチの実家の両親が来て東京なのに田舎くさい。昭和っぽいと言い放った。変わらないからそんなとこもあるでよ。
"美術(びじゅつ)とは、視覚で捉えることを目的として表現された造形芸術(視覚芸術)の総称" なんですと。〔wikipedia〕
"田舎の美しい風景"を 都会の写真家が撮ってアトリエに飾ったら、それは田舎の芸術になるんか?という話で、こと芸術作品において場所を問うことそのものが無意味と思うタイプの忍者。作品へのアクセスという意味で忍
なに?つまりは田舎にある美術館を提示したらいいのかしら。小豆島の美術館とか
言葉遊びになるけど、美なのか美“術”なのかってのは意味が違うよね
都会と田舎、美と美術などの区切りが曖昧なので、皆さんそれぞれ微妙に違う話をして噛み合わなくなっている。
落ち穂拾いに描かれている人も「そんなところに突っ立ってないで手伝いなさいよ」とか思ってたんかなぁ/id:straychef 確かに。不忍池の蓮を見た時に向こうに映るビル街を観て「何だかなあ」とちょっと思ってた
岡倉天心のほうを先に思いついた自分はやっぱり少しズレてるんかなと思った。日本近代美術のフレームを設定した人だけど。師匠のフェノロサに今いうところのオリエンタリズムを見るかどうかという楽しみもあるな。
この話は適切な言葉がないことが事の本質なのかな。元の主張が"美術"と言う言葉では言い表せてないことで、皆それぞれ良いように噛み砕いて咀嚼し、アウトプットして、皆で雲を掴むような話をしている?
“そもそも「美術≠美しさ」だから論点が違くね”そうね。よっぴー氏の悪い面が出てる
はてブ"でも多様でも新しくもない。 そんな環境で育った人が「美術はない」と言っても責められない" あの編集者が育った場所が鈴鹿だからな。鈴鹿ほど昔から多様性に溢れた地域は無いんだよ
文化の盗用っぽい話になってるな。
世の中の大半の田舎は、吉野町とかレベルではなく、人口十万人前後の特に主力産業のない市のことを言うと思うのよ。
その土地土地の営みと美しさがあるはずなのに、「田舎」の一言で雑にくくった画一的な絵を持ってくる。「田舎オリエンタリズム」というのは言い得て妙。/今回は鈴鹿市の話なので、F1の写真とかをだな…(もっと雑)
イオンモールがある田舎、自然たっぷりの田舎、23区外という田舎、田舎にもたくさんあるからなあ。
わあい雑な田舎語り大好き
新幹線のCMとかにいちいちオリエンタリズムだとか切れるタイプか?
「お約束」(おやクソ喰?)でついてくる話。言うほうにも言われるほうにも知ってて分かってて繰り返してる人もそれなりにいるんだろうな。もし「言わないではおれない」てきな何かがあるならしょうがないね。
何かを美しいと思える瞬間があれば幸せだと思う。場所や対象はなんでもいい。
あの流れでなんでこんな話になるのかと思ったら「美術の美の字もない」を「美しいものがない」と解釈したからだろうなと。美術が「美の術」なのか、artまたはfine artsの訳語なのか問題。
美術の美と、美しいの美はちがうんだなあと。美術には良くも悪くも基準からみて点数がつく。だからこそ元のポストにも「美術の美もない」って点数が基準を満たしてないってニュアンスが。しゃあないし必要な感覚。
ヨッピーは大阪出身だよね。大阪も「東京ではない」のに、なんで吉野かねぇ。/食堂と向日葵はオリエンタリズム的とは思う。そりゃ美と情緒はあるけど、合掌造り集落が観光地になる感覚に近い。人が暮らしてるんだぜ
地方だと美術品が少ない、無い場合も有るけど美術って言っちゃうと美術的な活動してる人や美術心、美術魂も含むから。それを美術と捉える心。今はコンテキストで美術品として切り取れるから額縁と題名と風景で美術に
何をもって田舎とするか美術とするかの定義がアレだが新潟には水と土の芸術祭やら大地の芸術祭やらやたら現代美術よりのイベントがあるし、最近の現代美術系って世界的に土地が豊富な地方にもある気がするんだが
件のWeb編集長が言ってる「美術」というのは「金になる美術」「仕事になる美術」「ビジネスになる美術」とかなんじゃないの、知らんけど
田舎っぺ達が口を揃えて十分にあると言うなら今後美術館は全部都会に作りましょう
「田舎には美術がない」でなく「田舎には文化がない」かな。
美術手帖の編集長のくせに美術がないとかクソ雑な話するから悪い。ただのキレイな景色の話にオリエンタリズムとか言い出すのもキモい。発言者を貶めたいだけじゃん。
批評の暴力性を意識する必要がある。モデルでも何でもないその辺の一般人の容姿を偉そうにジャッジしてはいけないみたいな話。本人が積極的に見せているわけではないついての批評は慎重さが求められる。
現代アートみたいなのは田舎、都会、両方経験した感性がないと無理なんじゃないかとは思う。ただし、現代アートを美術とは認めないけど。
美と美術と美術館はすべて別物である
美しいが術ではない。
例の発言を美術リテラシーないのに「放っておけない」のが田舎者しぐさでは…と皮肉も言いたくなるわ、ふつうの都民としては
「美術」は文化なので美がそこに存在するだけでは足りず、美を体系化して再生産している必要はあるよ。そういう意味では住民が田舎の美について自覚的でない時点でそこに文化としての美術はない。
美術の美もないと、美という文字を切り出した投稿が発端だからか「美」「美術」「美術品」「美術作品」の区別がつけられなくなってる。曖昧に字や語を捉えられるのって日本語の長所だけど議論するときは短所だよね。
美術や芸術は貴族や資本家が富の余剰で育てるのだから基本的にはその集中する都市部で発展するものだと思う。地方の豪農や豪商に集う美術・芸術も当然あるだろうけど、養える層の厚さがやはり違うと思う。
まぁ元の発言が美術を生業としている人がマーケットに乗らないものというか、誰かが評価したことが重要ってだけで田舎も都会も関係ない。まぁ、この横道に逸れていくのがSNSの醍醐味なわけだが。
そもそも「田舎に美術は無い」とは言っていない
東京も自然がある田舎は自然しか等の展開になるので不毛。観光資源でも滝や温泉など全国にある豊かな日本だが、マイナー温泉地は「何もない」側と処理されるし、結局は頭の悪い資本主義・駅周辺・利便性の話になる
美の製作者と運用者と消費者はだいたい別人。件の美術手帖web編集長?は消費者の立場から難癖つけてるだけなので暖かい目で黙殺すればよい。
バルビゾン派的には美術は田舎にこそあったんだろう。私は金山平三が好きなので、美術の題材は田舎にある印象が強い。それが"美術"かどうかは「俺が考えた"本物"の美術」の世界なのでどうでもいい。
美と美術は違うよ(´・_・`)あと美術とビジネス美術も違うよ。あの人のような人が欲しいのはビジネス美術だよ。値段がつくトマソンだよ
「aesop欲しいのに、無印すすめてくるのやめて」ってSNSで言ってる人いたよ。
中途半端な地方には、田舎的な美しさもない所も多そう。
田舎って単語が広義かつ曖昧すぎて自称田舎出身の人たちの田舎像に差が出まくってる気が。
それは流石に文脈が違う。イオンモールしかなくなった田舎に美があるかの問題。そういう田舎オリエンタリズムみたいのは、なにも解決しないよ
まとめ内にもあるけど美術と美はまず違うしな。本来芸術作品として作られていない民芸的なものもいいものだけどどっちかというと美のほうに入る感じだし。
旧家の欄間とか襖絵とか、寺社仏閣の建築美術とか商業美術以外の美術はいくらでもあるよ。
言うて田舎の人間が「美大に行こう」とか「週末美術館行こう」って思っても環境整ってないから大変よ。話のすり替えか何かがしたいわけ?
美というより美術界的なものだとして、あれはでも、美術界なるものが生活と乖離してしまった嘆きにもとれるよね
JavaとJavaScriptの区別をつけるところから始めよう
美術は工芸とは違って「生活」とは切り離されて人為的に「美」だけを追求して作成されたモノなので、風景を例に出されてもなあ ※美術を生活の中に取り入れる事はある
美術がないつってるのに「美はあるもん!」とか言われても何いってんのこいつとしか。
権威がなければ美術じゃないんでしょ。感性で見れないのが程度の限界って情けなくならないのかね
都民だけど、麻布台ヒルズを消費するのは良いが僕が住んでる町の日常を消費されるのはまた別の話。観光客が大挙してやってくるのは勘弁して欲しい、そんな魅力ある町でも無いけど。田舎も観光地か生活空間かで別
大都市以外で流行りの美術イベントが開催されることは稀だし新宿御苑のような人工的な公園はほぼ無いしそもそも美術館が少ない。彼の言った美術とは自然の美しさではなく現代的な美術作品のことだと思う
岩手の花巻行ったけど高村光太郎記念館とか素晴らしい施設はあり、高校生が企画展やってた。美術無いなんて、言いたいだけやろ
東京(本物)は, 家to美術館片道60分,職場to美術館でも片道30分はかかるのにそんなに頻繁に美術館に行けるの?
「キュレーションの不在」と言い換えると、東京モンが未開の美を「発見」してしまうことを、反論として挙げる不毛さが表れるように思う。先日のホッテントリに挙がった「障害者らしい障害者アート作品」みたいな話
40代独身は狂う、も「狂う」の定義が曖昧だからこそ皆解説したがる
それで飯を食えるかどうかって事で、概念の話じゃないよね。今はニシン御殿とかに住んでる地方の超大金持ちがパトロンしてくれるって時代じゃないからな。固定資産税と相続税を滅ぼしたらワンチャンあるかもしれんな
でてくる人、全員こころが狭い(別に田舎に美術がないと感じる人がいてもいいし、田舎にしかない美しさがあると感じる人がいてもそれは感じ方の違いでいいのでは)
真の田舎の美術は、パチモンのドラえもんや鉄輪アトム風の何かだったりがシャッターに描かれてたりする。看板絵として金になるから美術かもしれない。
流石にこれはヨッピー氏が可哀想だったな。批判するしてる人「そういうとこだぞ」て感じがする。美しい田舎のどこが悪いのよ。まあ、ヨッピー氏は要らんところに首を突っ込み過ぎなのかもしれないけど
真っ先に言われてるけど、美術が無いって言ってたのになんで美が無いだの文化が無いだのって受け取ってキレてる奴いるの?美術と美は指す物が違うだろ普通っていう当たり前の指摘しなきゃならんのか?
美術や芸術はあくまで人工物で、自然にある「美」を翻訳する作業だと思うんだけど、田舎にはその翻訳する技術も道具も翻訳者を必要とする環境もない/実際、そういう「美」を破壊してイオン建てちゃうのが田舎だし
「オリエンタリズム」もう最初に答えはあるのでそこを争っても意味は無い/話がこじれてて...
こうやって、「美とは、美術とは」という問いかけになって、いろんな人が考えたり議論するきっかけになっての、現代アートだったらとても良い作品なんだけどね。これはただの炎上なんだよな。
田舎に教養を養うため、様々な作品に触れたり、歴史を学んだりできるところが身近にあるかというとないよねと思う。多様な作品を美しいと感じるためにも教養は必要だから。ヨーロッパに比べると東京も少ないけど
ヨッピーさん、本当にしょうもない人になってしまってとても悲しい オモコロで輝いていた時は好きでした
おもひでぽろぽろの主人公が「いい所ですね」を連発した自分を恥じるシーンがあるが、ヨッピーの言ってるのは「いい所ですね」の域を出てないように見える。そしてそれはそもそも「美術」ではないよね。
ヨッピーが言ってる「美」というのは芸術の種になるものって意味合いだろ。別に文脈はズレてない。田舎にはイオン以外何もないってことにしたい人間が多いのは消費しかできない暇人が多いってことなのかもな。
この手の話題で、あんま理解できないのは「田舎」「地方」等の主語デカワードばかり使う事が多く、具体的な地域での比較を双方しないこと。無い地域は無いし、ある地域はある。地域の固有性こそ魅力あるのに
そういえば確かに大本のポストはハコモノ万歳を感じるんだよな。
まぁ"消費"なる概念も批判対象の悪を何とでも強引に理屈づけてしまうトンデモさはあるが。普段オタク等の"消費"に過敏に反応し叩く層が、オリエンタリズム的"田舎の消費"にはやけに鈍感になる現象はなんと呼ぶのだろう
夏休み中もインターネット学級会で積極的に議論する熱心な生徒たち!!!!
主語どころか全ての用語が曖昧なまま好きなことを喋ってるだけ
フェミが無条件にオタク男に嫌悪感感じるのと同じで、田舎にあるイオンモールが生理的に無理って個人のお気持ちだよね。教養があって地位があっても生理的に嫌いなもんあっていいんだよ、無理に正当化しなくていい。
美術が造形芸術の話をしてるんなら田舎に美術がないわけない。知識不足なだけ。それ以外の「美術」の話なら主観の話だから話すだけ無駄。
もう誰も美術の話してなくて各々が思う美の話になってんね
田舎にしかない美しさとか美術が大元の鈴鹿にあるかと言えば近隣住民から見てもそれは全く無いよ。ただ美術や美しさが無いからって何か問題あるんか?って話ではあるけど
件のWeb編集長は美術業界のことを美術と言っちゃってるのが過ち
ウザ絡みがひどい
下手にフォローすれば田舎オリエンタリズム・文化盗用・貧困ツーリズム的な批判が刺さるし、正面から論じればただの田舎差別になる。この話題は構造的にダブルバインドなのでよく燃える。
「美術の美」って言われているのに「美しさ」はあると返すの流石に文が読めていな過ぎじゃない?
ヨッピーさん、東京の良さを楽しみ尽くして(消費し尽くして)田舎に目を向けた人だから鼻につくのはわかる
最近はすぐ「消費消費」と騒ぐ頭でっかちが増えたねぇ。あんたは何も消費しないのかよと言いたい。
美がないと言ってんじゃなくて美術がないって話では?
元のツイートって“地元”の地方都市を卑下して美なんかないと言ったのを、田舎をバカにするな、みたいに炎上したんじゃなかったっけ。まあ、地方都市って“本物の田舎”に比べればart(人工物)だらけなんだけどね。
瀬戸内国際芸術祭や越後妻有アートトリエンナーレのような地方ならではの現代アートプロジェクトの話があまりで出てきてなかった 個人的には鴻池朋子さんが各地方独自の民俗学や生活とアートを融合させてて好き
この人その方面には疎そうだからなぁ。とはいえ、元の発言も雑な物言いだったから同レベルで反応してるとも言えるのか?ただまぁ、web版美術手帖の編集長とフリーライターでは“誰が言ったか”戦では圧倒的に負けだな
最初のポストが典型的な薄っぺらさ。そもそも田舎ではなく「郊外」の話では
シンプルな話、美術の心得がない素人が言うのは全然問題無い。美術は基本的に個人的趣味だから。ただ専門家が言ったら笑われるやろ。
なにかを逆に下げてなかったら、美しいものは美しいって言って良いんじゃないかな?
言葉の正しさを求めずに喧嘩の道具として使うために定義を動かすのは悪。
今年は瀬戸芸の年、みんな来てくれよな。
美術手帖が声明なり記事なり出さないと、話が拡散するばかりなのでは。美術手帖がどういう意図で言ったのか明確にならないと自分の言いたいことばかりになってしまう。
豚に歴史がありますか、百姓に歴史がありますか
そのノスタルジックなただ美しい環境が現地に住む若者にとっては抜け出したい地獄なのかもしれないんだぞ。1ミリもフォローになってない気がする。
違う。「美術」と「美」は異なるもの。田舎には田舎の美があるかもしれないが、それでも美術はない。よしんばあったとしてもそれは正統な美術ではない。日本美術だって国内に偏在はしてないだろ。
適当いっちょ噛み野郎は美術のお勉強をして、何をどうしたら「美しいもの」を「美術」って形にパッケージできるのかを考えてみたら良いと思う。発信力がある人なら仕事につながると思う。
アートの精神やアートを解する文化はないって話でしょ。そんなん、江戸やら明治のころからそーじゃないの?
大正時代くらいまでは、各地方に素封家みたいな人達がいて、芸術的な素養や教育を受けた人たちのサークルを作っていた。今の地方には、そういう人間関係はない。多分そういうのがあるのは、今は首都圏と関西だけ。
その昔、友人と地方に行ったとき、田舎をバカにする発言をしたら百円罰金というゲーム考案したら意外と難しく 「人が少なくて快適」 「ビルがないから空が広い」もギリアウトでは?と議論になったことを思い出した
それは美しさであって美術じゃない
美術は、たまたま美しく見えた造形物や自然の美ではなく、人間が知恵と技術で意識的に美を実現する”術”の体系でしょ。定義がブレて横滑りした話が多すぎ。文系のクセにレベル低いの、どうしようもない。
ありのままの田舎の美であっても誰かが良いと思って写真やハイクに切り取った瞬間それは美術じゃないのか
美/美術の定義のズレなんて事じゃなくて、単に「都会の人が田舎を楽しむは悪ってこと?」みたいに誰も言ってない「悪」なんて子供じみた価値判断を勝手に持ち込んでくる奴がいるってだけのことだがなこの件。
どうでもいいけど、その中間はどうしてくれる
「田舎に美術は無い」炎上があるが田舎にしか無い美しさは確実にある話…それは「田舎オリエンタリズム」ではないかとの指摘とそれに対する反論「田舎の人が都会を楽しむのは良くて都会の人が田舎を楽しむは悪ってこと?」
文学や文学の舞台は北から南まで存在するが、文壇や出版社は東京以外には稀って話では。
“地方(田舎・郊外)には美術はない、みたいなポストが炎上しているみたいだけど、社寺や石仏・石塔や祭礼とか美術や美に含まれないんだろうか。” /「ある」ものを「ない」と言ったら責められるのは当然では?
美の話じゃなくて情報の話でしょ。象徴に仮託されるという言語機能を理解しましょう
色々と話がごちゃついとるな。指摘としては分かるが、そもそも原義のオリエンタリズム自体、日本(人)としては割とウェルカムスタイルなんだから、それが批判として機能するか?っていう。
世界中の田舎住まいな人々を侮辱して敵を増やす教養も品も良識も無い頭の悪い人は早期に組織から排除・追放したほうが全体のダメージは最小化できるのは確かだ。世界中の工芸品の数々も知らないだろう。
東京に空が無いみたいなもんだろ
地方って土地が余っているようで、2mくらいのキャンパスに絵が描けるアトリエが持てるとかはないんだよなぁ。
美はある。 美術も少しはある。 でも多様でも新しくもない。 そんな環境で育った人が「美術はない」と言っても責められない。 都会の人が田舎の美を見つけられるの他の美を知ってるから。
私の住む東京都B教区はほとんど再開発も起きず、文化財は有る。下町の上、山手の下。ウチの実家の両親が来て東京なのに田舎くさい。昭和っぽいと言い放った。変わらないからそんなとこもあるでよ。
"美術(びじゅつ)とは、視覚で捉えることを目的として表現された造形芸術(視覚芸術)の総称" なんですと。〔wikipedia〕
"田舎の美しい風景"を 都会の写真家が撮ってアトリエに飾ったら、それは田舎の芸術になるんか?という話で、こと芸術作品において場所を問うことそのものが無意味と思うタイプの忍者。作品へのアクセスという意味で忍
なに?つまりは田舎にある美術館を提示したらいいのかしら。小豆島の美術館とか
言葉遊びになるけど、美なのか美“術”なのかってのは意味が違うよね
都会と田舎、美と美術などの区切りが曖昧なので、皆さんそれぞれ微妙に違う話をして噛み合わなくなっている。
落ち穂拾いに描かれている人も「そんなところに突っ立ってないで手伝いなさいよ」とか思ってたんかなぁ/id:straychef 確かに。不忍池の蓮を見た時に向こうに映るビル街を観て「何だかなあ」とちょっと思ってた
岡倉天心のほうを先に思いついた自分はやっぱり少しズレてるんかなと思った。日本近代美術のフレームを設定した人だけど。師匠のフェノロサに今いうところのオリエンタリズムを見るかどうかという楽しみもあるな。
この話は適切な言葉がないことが事の本質なのかな。元の主張が"美術"と言う言葉では言い表せてないことで、皆それぞれ良いように噛み砕いて咀嚼し、アウトプットして、皆で雲を掴むような話をしている?
“そもそも「美術≠美しさ」だから論点が違くね”そうね。よっぴー氏の悪い面が出てる
はてブ"でも多様でも新しくもない。 そんな環境で育った人が「美術はない」と言っても責められない" あの編集者が育った場所が鈴鹿だからな。鈴鹿ほど昔から多様性に溢れた地域は無いんだよ
文化の盗用っぽい話になってるな。
世の中の大半の田舎は、吉野町とかレベルではなく、人口十万人前後の特に主力産業のない市のことを言うと思うのよ。
その土地土地の営みと美しさがあるはずなのに、「田舎」の一言で雑にくくった画一的な絵を持ってくる。「田舎オリエンタリズム」というのは言い得て妙。/今回は鈴鹿市の話なので、F1の写真とかをだな…(もっと雑)
イオンモールがある田舎、自然たっぷりの田舎、23区外という田舎、田舎にもたくさんあるからなあ。
わあい雑な田舎語り大好き
新幹線のCMとかにいちいちオリエンタリズムだとか切れるタイプか?
「お約束」(おやクソ喰?)でついてくる話。言うほうにも言われるほうにも知ってて分かってて繰り返してる人もそれなりにいるんだろうな。もし「言わないではおれない」てきな何かがあるならしょうがないね。
何かを美しいと思える瞬間があれば幸せだと思う。場所や対象はなんでもいい。
あの流れでなんでこんな話になるのかと思ったら「美術の美の字もない」を「美しいものがない」と解釈したからだろうなと。美術が「美の術」なのか、artまたはfine artsの訳語なのか問題。
美術の美と、美しいの美はちがうんだなあと。美術には良くも悪くも基準からみて点数がつく。だからこそ元のポストにも「美術の美もない」って点数が基準を満たしてないってニュアンスが。しゃあないし必要な感覚。
ヨッピーは大阪出身だよね。大阪も「東京ではない」のに、なんで吉野かねぇ。/食堂と向日葵はオリエンタリズム的とは思う。そりゃ美と情緒はあるけど、合掌造り集落が観光地になる感覚に近い。人が暮らしてるんだぜ
地方だと美術品が少ない、無い場合も有るけど美術って言っちゃうと美術的な活動してる人や美術心、美術魂も含むから。それを美術と捉える心。今はコンテキストで美術品として切り取れるから額縁と題名と風景で美術に
何をもって田舎とするか美術とするかの定義がアレだが新潟には水と土の芸術祭やら大地の芸術祭やらやたら現代美術よりのイベントがあるし、最近の現代美術系って世界的に土地が豊富な地方にもある気がするんだが
件のWeb編集長が言ってる「美術」というのは「金になる美術」「仕事になる美術」「ビジネスになる美術」とかなんじゃないの、知らんけど
田舎っぺ達が口を揃えて十分にあると言うなら今後美術館は全部都会に作りましょう
「田舎には美術がない」でなく「田舎には文化がない」かな。
美術手帖の編集長のくせに美術がないとかクソ雑な話するから悪い。ただのキレイな景色の話にオリエンタリズムとか言い出すのもキモい。発言者を貶めたいだけじゃん。
批評の暴力性を意識する必要がある。モデルでも何でもないその辺の一般人の容姿を偉そうにジャッジしてはいけないみたいな話。本人が積極的に見せているわけではないついての批評は慎重さが求められる。
現代アートみたいなのは田舎、都会、両方経験した感性がないと無理なんじゃないかとは思う。ただし、現代アートを美術とは認めないけど。
美と美術と美術館はすべて別物である
美しいが術ではない。
例の発言を美術リテラシーないのに「放っておけない」のが田舎者しぐさでは…と皮肉も言いたくなるわ、ふつうの都民としては
「美術」は文化なので美がそこに存在するだけでは足りず、美を体系化して再生産している必要はあるよ。そういう意味では住民が田舎の美について自覚的でない時点でそこに文化としての美術はない。
美術の美もないと、美という文字を切り出した投稿が発端だからか「美」「美術」「美術品」「美術作品」の区別がつけられなくなってる。曖昧に字や語を捉えられるのって日本語の長所だけど議論するときは短所だよね。
美術や芸術は貴族や資本家が富の余剰で育てるのだから基本的にはその集中する都市部で発展するものだと思う。地方の豪農や豪商に集う美術・芸術も当然あるだろうけど、養える層の厚さがやはり違うと思う。
まぁ元の発言が美術を生業としている人がマーケットに乗らないものというか、誰かが評価したことが重要ってだけで田舎も都会も関係ない。まぁ、この横道に逸れていくのがSNSの醍醐味なわけだが。
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東京も自然がある田舎は自然しか等の展開になるので不毛。観光資源でも滝や温泉など全国にある豊かな日本だが、マイナー温泉地は「何もない」側と処理されるし、結局は頭の悪い資本主義・駅周辺・利便性の話になる
美の製作者と運用者と消費者はだいたい別人。件の美術手帖web編集長?は消費者の立場から難癖つけてるだけなので暖かい目で黙殺すればよい。
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美と美術は違うよ(´・_・`)あと美術とビジネス美術も違うよ。あの人のような人が欲しいのはビジネス美術だよ。値段がつくトマソンだよ
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中途半端な地方には、田舎的な美しさもない所も多そう。
田舎って単語が広義かつ曖昧すぎて自称田舎出身の人たちの田舎像に差が出まくってる気が。
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美というより美術界的なものだとして、あれはでも、美術界なるものが生活と乖離してしまった嘆きにもとれるよね
JavaとJavaScriptの区別をつけるところから始めよう
美術は工芸とは違って「生活」とは切り離されて人為的に「美」だけを追求して作成されたモノなので、風景を例に出されてもなあ ※美術を生活の中に取り入れる事はある
美術がないつってるのに「美はあるもん!」とか言われても何いってんのこいつとしか。
権威がなければ美術じゃないんでしょ。感性で見れないのが程度の限界って情けなくならないのかね
都民だけど、麻布台ヒルズを消費するのは良いが僕が住んでる町の日常を消費されるのはまた別の話。観光客が大挙してやってくるのは勘弁して欲しい、そんな魅力ある町でも無いけど。田舎も観光地か生活空間かで別
大都市以外で流行りの美術イベントが開催されることは稀だし新宿御苑のような人工的な公園はほぼ無いしそもそも美術館が少ない。彼の言った美術とは自然の美しさではなく現代的な美術作品のことだと思う
岩手の花巻行ったけど高村光太郎記念館とか素晴らしい施設はあり、高校生が企画展やってた。美術無いなんて、言いたいだけやろ
東京(本物)は, 家to美術館片道60分,職場to美術館でも片道30分はかかるのにそんなに頻繁に美術館に行けるの?
「キュレーションの不在」と言い換えると、東京モンが未開の美を「発見」してしまうことを、反論として挙げる不毛さが表れるように思う。先日のホッテントリに挙がった「障害者らしい障害者アート作品」みたいな話
40代独身は狂う、も「狂う」の定義が曖昧だからこそ皆解説したがる
それで飯を食えるかどうかって事で、概念の話じゃないよね。今はニシン御殿とかに住んでる地方の超大金持ちがパトロンしてくれるって時代じゃないからな。固定資産税と相続税を滅ぼしたらワンチャンあるかもしれんな
でてくる人、全員こころが狭い(別に田舎に美術がないと感じる人がいてもいいし、田舎にしかない美しさがあると感じる人がいてもそれは感じ方の違いでいいのでは)
真の田舎の美術は、パチモンのドラえもんや鉄輪アトム風の何かだったりがシャッターに描かれてたりする。看板絵として金になるから美術かもしれない。
流石にこれはヨッピー氏が可哀想だったな。批判するしてる人「そういうとこだぞ」て感じがする。美しい田舎のどこが悪いのよ。まあ、ヨッピー氏は要らんところに首を突っ込み過ぎなのかもしれないけど
真っ先に言われてるけど、美術が無いって言ってたのになんで美が無いだの文化が無いだのって受け取ってキレてる奴いるの?美術と美は指す物が違うだろ普通っていう当たり前の指摘しなきゃならんのか?
美術や芸術はあくまで人工物で、自然にある「美」を翻訳する作業だと思うんだけど、田舎にはその翻訳する技術も道具も翻訳者を必要とする環境もない/実際、そういう「美」を破壊してイオン建てちゃうのが田舎だし
「オリエンタリズム」もう最初に答えはあるのでそこを争っても意味は無い/話がこじれてて...
こうやって、「美とは、美術とは」という問いかけになって、いろんな人が考えたり議論するきっかけになっての、現代アートだったらとても良い作品なんだけどね。これはただの炎上なんだよな。
田舎に教養を養うため、様々な作品に触れたり、歴史を学んだりできるところが身近にあるかというとないよねと思う。多様な作品を美しいと感じるためにも教養は必要だから。ヨーロッパに比べると東京も少ないけど
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おもひでぽろぽろの主人公が「いい所ですね」を連発した自分を恥じるシーンがあるが、ヨッピーの言ってるのは「いい所ですね」の域を出てないように見える。そしてそれはそもそも「美術」ではないよね。
ヨッピーが言ってる「美」というのは芸術の種になるものって意味合いだろ。別に文脈はズレてない。田舎にはイオン以外何もないってことにしたい人間が多いのは消費しかできない暇人が多いってことなのかもな。
この手の話題で、あんま理解できないのは「田舎」「地方」等の主語デカワードばかり使う事が多く、具体的な地域での比較を双方しないこと。無い地域は無いし、ある地域はある。地域の固有性こそ魅力あるのに
そういえば確かに大本のポストはハコモノ万歳を感じるんだよな。
まぁ"消費"なる概念も批判対象の悪を何とでも強引に理屈づけてしまうトンデモさはあるが。普段オタク等の"消費"に過敏に反応し叩く層が、オリエンタリズム的"田舎の消費"にはやけに鈍感になる現象はなんと呼ぶのだろう
夏休み中もインターネット学級会で積極的に議論する熱心な生徒たち!!!!
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もう誰も美術の話してなくて各々が思う美の話になってんね
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「美術の美」って言われているのに「美しさ」はあると返すの流石に文が読めていな過ぎじゃない?
ヨッピーさん、東京の良さを楽しみ尽くして(消費し尽くして)田舎に目を向けた人だから鼻につくのはわかる
最近はすぐ「消費消費」と騒ぐ頭でっかちが増えたねぇ。あんたは何も消費しないのかよと言いたい。
美がないと言ってんじゃなくて美術がないって話では?
元のツイートって“地元”の地方都市を卑下して美なんかないと言ったのを、田舎をバカにするな、みたいに炎上したんじゃなかったっけ。まあ、地方都市って“本物の田舎”に比べればart(人工物)だらけなんだけどね。
瀬戸内国際芸術祭や越後妻有アートトリエンナーレのような地方ならではの現代アートプロジェクトの話があまりで出てきてなかった 個人的には鴻池朋子さんが各地方独自の民俗学や生活とアートを融合させてて好き
この人その方面には疎そうだからなぁ。とはいえ、元の発言も雑な物言いだったから同レベルで反応してるとも言えるのか?ただまぁ、web版美術手帖の編集長とフリーライターでは“誰が言ったか”戦では圧倒的に負けだな
最初のポストが典型的な薄っぺらさ。そもそも田舎ではなく「郊外」の話では
シンプルな話、美術の心得がない素人が言うのは全然問題無い。美術は基本的に個人的趣味だから。ただ専門家が言ったら笑われるやろ。
なにかを逆に下げてなかったら、美しいものは美しいって言って良いんじゃないかな?
言葉の正しさを求めずに喧嘩の道具として使うために定義を動かすのは悪。
今年は瀬戸芸の年、みんな来てくれよな。
美術手帖が声明なり記事なり出さないと、話が拡散するばかりなのでは。美術手帖がどういう意図で言ったのか明確にならないと自分の言いたいことばかりになってしまう。
豚に歴史がありますか、百姓に歴史がありますか
そのノスタルジックなただ美しい環境が現地に住む若者にとっては抜け出したい地獄なのかもしれないんだぞ。1ミリもフォローになってない気がする。
違う。「美術」と「美」は異なるもの。田舎には田舎の美があるかもしれないが、それでも美術はない。よしんばあったとしてもそれは正統な美術ではない。日本美術だって国内に偏在はしてないだろ。
適当いっちょ噛み野郎は美術のお勉強をして、何をどうしたら「美しいもの」を「美術」って形にパッケージできるのかを考えてみたら良いと思う。発信力がある人なら仕事につながると思う。
アートの精神やアートを解する文化はないって話でしょ。そんなん、江戸やら明治のころからそーじゃないの?
大正時代くらいまでは、各地方に素封家みたいな人達がいて、芸術的な素養や教育を受けた人たちのサークルを作っていた。今の地方には、そういう人間関係はない。多分そういうのがあるのは、今は首都圏と関西だけ。
その昔、友人と地方に行ったとき、田舎をバカにする発言をしたら百円罰金というゲーム考案したら意外と難しく 「人が少なくて快適」 「ビルがないから空が広い」もギリアウトでは?と議論になったことを思い出した
それは美しさであって美術じゃない
美術は、たまたま美しく見えた造形物や自然の美ではなく、人間が知恵と技術で意識的に美を実現する”術”の体系でしょ。定義がブレて横滑りした話が多すぎ。文系のクセにレベル低いの、どうしようもない。
ありのままの田舎の美であっても誰かが良いと思って写真やハイクに切り取った瞬間それは美術じゃないのか
美/美術の定義のズレなんて事じゃなくて、単に「都会の人が田舎を楽しむは悪ってこと?」みたいに誰も言ってない「悪」なんて子供じみた価値判断を勝手に持ち込んでくる奴がいるってだけのことだがなこの件。
どうでもいいけど、その中間はどうしてくれる