何コレ!?>「「言論や表現の自由」(略)の領域は、題材や社会状況によって異なり、また時代とともに変化していくものと認識しております。(略)編集現場がそれを常にアップデートしていかなければなりません」
勝手な邪推を申し上げると、小川榮太郎で致命的なやらかしをした新潮社による二度目のやらかしは内部かなり深刻に受けとめてるのかなとは思わせる謝罪文ではある(流石に擁護できないという意味で)
“今後は執筆の依頼をする時点および原稿を頂戴した時点で必ず世論の変化や社会の要請について筆者に詳しくお伝えしていく所存でおります。また人権デューデリジェンスの観点を従来以上に強化し社内の体制を整えて”
今度は何やらかしたの?
必ず世論の変化や社会の要請について筆者に詳しくお伝えしていく>人の生まれの差別や侮辱をするなというのは普遍的な価値観だろうに。寧ろ今の酷い発言でも言い切ってバズればOKという世論の変化に乗った発言だろこれ
“人権デューデリジェンスの観点を従来以上に強化し、社内の体制を整えてまいります”週刊新潮にそんな観点があったんだろうかと思うほど.コラムを止めるところからなんだろうができそうにもない.
https://www.asahi.com/articles/AST8432ZRT84UCVL01MM.html
何やったのかさっぱり分からない
「自由の領域は、題材や社会状況によって異なり、また時代とともに変化していく」というのなら、新潮社の時代認識は80年遅れか。高山の執筆を続けさせるのなら、新潮45と同じ道を辿るほかにない。
「私たちの編集現場」とあるが週刊誌と文芸部門それぞれの主体性が見えないのがなんとなくイヤな感じ。そもそも「傷つけたから」という問題ではないし
出版社にとっての人権デューデリジェンスってのは作家の人権意識を確認するってことなのかね、やっぱり
どういう文章だよ。テキストの流し込みをミスったか?
何について反省してるのかさっぱりわからん。文筆に関わる大人の書く文章ですかこれは
「心を傷つけ、多大な精神的苦痛を負わせてしまったこと」については謝るが,コラムの内容や掲載判断が不適切だったかには直接触れないのだな。書けるのは「力量不足と責任を痛感」までか。
執筆者は反省していないだろうなあ。
「あーあ、表現の自由もだいぶ制限がかかるようになっちゃったなあ、まあそういう時代だから仕方ないですよねーはいはい」みたいな感じの文章に感じた。酷い発言が批判されたことに表現の自由関係ないでしょ…。
編集者の働き方、スタンスの問題に至ると思うが。若手で物言いやすい文筆家なら差別意識満載でも止められただろ、という。そういうことを出来ないのは根本的に蔦屋重三郎から姿勢が変わってないんだよ
「今後は執筆の依頼をする時点および原稿を頂戴した時点で、必ず世論の変化や社会の要請について筆者に詳しくお伝えしていく所存でおります。」 著者と出版社の関係性どうなってんのかが最大のモヤモヤポイント。
高山正之の名を出さず。執筆者を守るメディアの鑑/高山の反論が待たれる。週刊新潮では無理でも保守論壇誌から引く手あまただろう/まぁ今さら高山や週刊新潮がアップデートできるはずもなく。商品価値がなくなる
差別反対とは書かないところが
産経記者って、元の肩書がついてもデマやヘイトを撒き散らかさないと生きていけないんですか?
高山正之のコラムはトンデモやぞ。21世紀になってもいまだに、アジア新興国の安い商品に対抗して国際競争力を維持するため人件費を上げてはいけない(労働者は低賃金で貧しくあるべき)とドヤ顔で力説してるんだぜ
コラム載せるにしても「編集部は責任取りませんよ」なら、紙面でどんぱちやらせればいいだろう。ケンカ売られた方は必ず編集部に言ってくる。そこで「誰かを嫌うのは自由だ」と言えるのだ。ホロコーストは無かった
編集長名でも社長名でもなく会社名なのか。真摯な対応ができなかったら会社を潰すということなのかな。
高山が老害トンデモであることは言を俟たんが、それはそれとして朝日新聞の記事中ではやらかしたジャーナリストの肩書きが「元産経新聞記者」となってるのはやっぱり朝日さんのアレなんですかね?
この謝罪の仕方は版権引き上げる動きが大物作家の中であると察知したんじゃないかな?普通だと編集長名の謝罪が役員まで上がったと言う事だからね。まぁそうでもなきゃ謝ってないんだろうけど。
深沢さんに謝罪しつつ、高山正之の顔も立てようとしているのでこういうおかしな文章になる。天下の新潮社が「差別は絶対に許されない」の一言も言えないのか。恥を知れ
ところで深沢美潮さんは元気かなと調べてしまった
「週刊新潮」コラムに関する お詫びと今後について | News Headlines | 新潮社
何コレ!?>「「言論や表現の自由」(略)の領域は、題材や社会状況によって異なり、また時代とともに変化していくものと認識しております。(略)編集現場がそれを常にアップデートしていかなければなりません」
勝手な邪推を申し上げると、小川榮太郎で致命的なやらかしをした新潮社による二度目のやらかしは内部かなり深刻に受けとめてるのかなとは思わせる謝罪文ではある(流石に擁護できないという意味で)
“今後は執筆の依頼をする時点および原稿を頂戴した時点で必ず世論の変化や社会の要請について筆者に詳しくお伝えしていく所存でおります。また人権デューデリジェンスの観点を従来以上に強化し社内の体制を整えて”
今度は何やらかしたの?
必ず世論の変化や社会の要請について筆者に詳しくお伝えしていく>人の生まれの差別や侮辱をするなというのは普遍的な価値観だろうに。寧ろ今の酷い発言でも言い切ってバズればOKという世論の変化に乗った発言だろこれ
“人権デューデリジェンスの観点を従来以上に強化し、社内の体制を整えてまいります”週刊新潮にそんな観点があったんだろうかと思うほど.コラムを止めるところからなんだろうができそうにもない.
https://www.asahi.com/articles/AST8432ZRT84UCVL01MM.html
何やったのかさっぱり分からない
「自由の領域は、題材や社会状況によって異なり、また時代とともに変化していく」というのなら、新潮社の時代認識は80年遅れか。高山の執筆を続けさせるのなら、新潮45と同じ道を辿るほかにない。
「私たちの編集現場」とあるが週刊誌と文芸部門それぞれの主体性が見えないのがなんとなくイヤな感じ。そもそも「傷つけたから」という問題ではないし
出版社にとっての人権デューデリジェンスってのは作家の人権意識を確認するってことなのかね、やっぱり
どういう文章だよ。テキストの流し込みをミスったか?
何について反省してるのかさっぱりわからん。文筆に関わる大人の書く文章ですかこれは
「心を傷つけ、多大な精神的苦痛を負わせてしまったこと」については謝るが,コラムの内容や掲載判断が不適切だったかには直接触れないのだな。書けるのは「力量不足と責任を痛感」までか。
執筆者は反省していないだろうなあ。
「あーあ、表現の自由もだいぶ制限がかかるようになっちゃったなあ、まあそういう時代だから仕方ないですよねーはいはい」みたいな感じの文章に感じた。酷い発言が批判されたことに表現の自由関係ないでしょ…。
編集者の働き方、スタンスの問題に至ると思うが。若手で物言いやすい文筆家なら差別意識満載でも止められただろ、という。そういうことを出来ないのは根本的に蔦屋重三郎から姿勢が変わってないんだよ
「今後は執筆の依頼をする時点および原稿を頂戴した時点で、必ず世論の変化や社会の要請について筆者に詳しくお伝えしていく所存でおります。」 著者と出版社の関係性どうなってんのかが最大のモヤモヤポイント。
高山正之の名を出さず。執筆者を守るメディアの鑑/高山の反論が待たれる。週刊新潮では無理でも保守論壇誌から引く手あまただろう/まぁ今さら高山や週刊新潮がアップデートできるはずもなく。商品価値がなくなる
差別反対とは書かないところが
産経記者って、元の肩書がついてもデマやヘイトを撒き散らかさないと生きていけないんですか?
高山正之のコラムはトンデモやぞ。21世紀になってもいまだに、アジア新興国の安い商品に対抗して国際競争力を維持するため人件費を上げてはいけない(労働者は低賃金で貧しくあるべき)とドヤ顔で力説してるんだぜ
コラム載せるにしても「編集部は責任取りませんよ」なら、紙面でどんぱちやらせればいいだろう。ケンカ売られた方は必ず編集部に言ってくる。そこで「誰かを嫌うのは自由だ」と言えるのだ。ホロコーストは無かった
編集長名でも社長名でもなく会社名なのか。真摯な対応ができなかったら会社を潰すということなのかな。
高山が老害トンデモであることは言を俟たんが、それはそれとして朝日新聞の記事中ではやらかしたジャーナリストの肩書きが「元産経新聞記者」となってるのはやっぱり朝日さんのアレなんですかね?
この謝罪の仕方は版権引き上げる動きが大物作家の中であると察知したんじゃないかな?普通だと編集長名の謝罪が役員まで上がったと言う事だからね。まぁそうでもなきゃ謝ってないんだろうけど。
深沢さんに謝罪しつつ、高山正之の顔も立てようとしているのでこういうおかしな文章になる。天下の新潮社が「差別は絶対に許されない」の一言も言えないのか。恥を知れ
ところで深沢美潮さんは元気かなと調べてしまった