「倫理や正義の基準を共有することが極めて困難になっている」だからこそ批評家の頑張りどころだと思うが。なんで放棄するのか。内在的/外在的批評はどちらも必要だろう。文学だと散々やってきた話が音楽にはない?
日本では小林秀雄型の文芸的印象評論から社会性政治性を取り込む形でPOP&ROCK評論ができ、そこに商業的読み取り解説が繋がる。海外Reactorを見ると技術的批評が強くジャンル論の体をもつ、みの的内在批評は折衷的とも
マイナーな作品ばかり掘ってると、内在的批評にならざるを得ない。社会とのつながりが無いから。逆にヒット曲ばかり批評して注目を集めて飯を食う人は外在的批評になる。
https://www.youtube.com/watch?v=xggDpGUxPoEそもそも山口の認識が90年代あたりで止まっている気がする。現状は音楽ジャンルが発散しすぎて批評しにくくなっているのに加え、政治的党派性が絡みさらにややっこしくなっている
音楽の構造、社会での意味付け、色んな観点からの批評があって良いと思う。歌詞の内容より音楽の構造についてインタビューされたいミュージシャンもいらっしゃるし。
支持。
内在的批評が専門知識に依らずに噛み砕いて説明出来るかが問題かもね。文中の哲学者とやらに関しては内在的批評の体で主観多めの外在的批評をするから嫌われる。
大衆ウケする稚拙な批評が、商業雑誌やブログでウケる。社会を論じることが、稚拙さの免罪符になってゴミが溢れる昨今、多様な批評があって良いんじゃない。
文芸に比べると音楽は抽象的だけど人類は美術を通じて鍛えられてる。ポピュラーミュージックは生まれてから日が浅いとはいえ、過去の/遠い場所の音楽を外在的に捉えるキャパがないので、内在的分析が好きです🏚️
後で動画見てみよう
厳密にはだいぶ違うが、クラシック音楽の歴史における絶対音楽と表題音楽の議論を思い出したので、流派の違いという言い方はなんとなく納得感ある。本文中の『外在的な』部分のみを批評と定義するのには違和感あるし
僕はミュージシャン自身も「点数つけて欲しい」と思っているのではないかと密かに思っているので、みのさんがやってるような内在的批評はあっていいんじゃないかと思ってる。
ノエル・キャロルの話かなと思ったらノエル・キャロルの話だった
これの逆がアニメ漫画業界だなと思った。内在的批評のレベルの高さに対し、作品と社会の関わりの話を全然しない(エヴァで飽きられたから?)それでたまに出るヒット作に門外漢が頓珍漢な外在的批評をして叩かれる
この人が言うところの内在的批評のことを世間一般では解説と呼ぶのだろうしそれの何が気に入らないんだろう
いいね。
めんどくさいから触らないようにしておく
アートでいうフォーマリズム批評なんだろうけど、October派のようなフォーマリズム批評が低迷したのは文脈依存型(社会依存型)の作品に対応できなかったから。応援してるけど、みのさんの内在型も、その危惧はある。
お笑い賞レースにおいて、内容そのものだけじゃなくて、会場のウケ量も加点に入れるか、みたいな話かしらね。確かに相容れない感じある。
そもそも日本に音楽ジャーナリズムは皆無に等しい。有名インディバンドが10年以上も取材されないことがザラである。存在するのは広告のみである。業界の資本に首根っこ掴まれているミノ氏も批評の皮を被った広告では
この程度の話から始めないといけないのは、蓄積とか何もないんだなあと。12月の佐々木敦献本されない問題を思い出した。批評の報われなさ..報われないから続ける人が少ないhttps://x.com/arishima_takeo/status/1996842789796225052?s=46
若い山彦から半世紀も経ってなんで「いいものもある悪いものもある」を読まされなければならないのか?あるいは吉田秀和みたいなものもう一度読みたいのか?/ロキノンはプロモーターに徹するべきだ。
音楽産業の音楽を“産業音楽”としてそれ自体を否定していた人達はもういなくなってしまったな。
ある音楽を聴いて、膨大な音楽の歴史の中から捉え直し、再解釈、再評価するということをみのさんは行っているので、音楽の批評として十分成立している。またそういう切り口こそ、みのさんの魅力だと思っている。
内在的批評も外在的批評も排除すべきではなく、両者が併存できる土壌が必要との結論はその通り。内在的批評は単なるコード進行等の分析、外在的批評は単なる感想、に終始するリスクを抱えるが。
実は大好きなYoutuberさんによる意見表明。外在的批評を否定せず、内在的批評を重視するという立場、有りだと思います。ミセスの批評動画はまだ観てないが、イエスの『危機』は大好きなので、帰ったら即観ます。
若手の評論家ってやたらと何かと何かを接続させたがるし、やたらと何かが立ち上がってくるな。
表現そのものの力ではなくて拒絶された来歴のほうを過大に問題化し、それを展示対象に仕立てた「表現の不自由展・その後」を連想してしまったが、似たような視点の人はあまり見つからなかった。
音楽に批評は必要なのか。
音楽解説と批評の境界線か。文脈語りに逃げずに音そのものを評価したいってのは分かるが、結局は主観の押し付け合いになりがちなのがこの界隈
譜面入りで流行歌を分析した宮川泰「サウンド解剖学」はまさにこの内在的批評のさきがけだったんだな、と思う。/近田春夫の週刊文春の連載が大昔に終わっていたことを知り、ちょっと愕然としている。
大衆モノでも、突き詰めるなら、指揮者のような楽譜の読み込み、エンジニアのような機材の分析、学者のような調査研究など、語りを何がどう担保してるかが見えると切実さが見える。ネクスト吉田秀和待ちじゃん。
作品の音楽的な構造についてミュージシャン自身が語る機会はまだ少ないよね。売れてる楽曲はファンの多くが別にそれを求めていないという事もあるので音楽メディアもそこに紙面を割くメリットがないという事もある
全体的に論理が雑。批評とは合意形成を目指すものであるという考えがあるように読める。
批評とは、良し悪しを評価することでなく批評対象をどう世界と接続or配置させるのかであるので、「『自分の耳』だけでジャッジを下す」っていうのは批評ではないのよ。根本的にそこがわからなそうだなとは思った
ぶっちゃけ僕はミセスが大嫌いなんだけどちゃんとした批評を読んでみたい。そして僕の価値観が少し変わるようなものだと良いなと思ってる
自分にとってはコードや転調、曲の構成等々のサウンドが大事であって、それに触れ(ようが多分)ない「社会的な接続」には(してもいいが)正直興味がない。
そもそも山口一郎は音楽批評がまだ注目されてない楽曲をすくい上げる機能が失われつつあることに危機感を覚えてこの発言をしたのにそっちが完全に放置されてる
単に片手落ちだったのではなく意識的に外側との接続を避けていたのは理解している。じゃあそっちは誰がやるの?やれるの?という疑問は当然出てくるよね。
これ、フットボールにおける「ピッチに答えがある」って話と繋がるな〜
本質とは関係ない(JASRAC的な?)問題だろうが、実際の音が鳴らせない「内在的批評」は、せっかくの動画というメディアでやっているのに片手落ちに見えてしまう
山口一郎自身が自身のルーツとなる音楽とかシーンの元になった音楽を紹介することをしていて、やっぱり自分が影響を受けたものが忘れ去られるのはもったいないんだよ。社会に歴史があるように音楽にも歴史がある。
ミセス含む最新J-Popは至福のドーパミン炸裂パーティーを提供して、曲中のパターンを増やすため必然的に実験的でマニアも乗っかる。でも大衆受けはSnowManなんかで結局人柄。HANAやNumber_iが両端を自由に行き来してるかな。
制作知識の薄い音楽ライターが実際「音楽そのもの」を語ろうとすると、頓珍漢な発言になりがち。宇野維正氏の音圧話とか酷かったな。高橋健太郎氏や松尾潔氏など、制作側でもある人たちほど発信に慎重なんだよな
内在的批評と外在的批評は同時に行われるのが正しい姿なのではと思ったが違うのか?それとも外在的批評を行っている人は内在的批評も包含していると自負しているのだろうか?
「邦楽通史」書いて炎上した人か。著作憲法上の引用ルールは押さえておいたほうが。ネット普及以前に義務教育受けた世代は、ちゃんと習ってない人多いけど、本来、もの書きなら全員知っておくべきこと。
みの氏が紹介する古いロックは楽しめるし、そのフォーマットを今の曲に適応しているだけに見えるけど。音楽なんだから"音"に注目してほしいよ
もう若くないがみどりんご夫人の曲聞けるしなんなら好きな方なのはネット中毒患者(情報中毒)と相性がいいからなのかもしれない|解説した上でこれどうなん?って話をしてるなら批評なんちゃうか
求められてるいないでいうなら、内在か外在かではなく、批評か解説かなんじゃないのかな(´-`)なんつか、どうせ「好き」に立脚するんだから批評なんてどうでも良くて、求められてるのは解説なんじゃないのかと
僕はなぜ「音楽そのもの」を価値づけようとするのか—批評の流派をめぐって|みの
「倫理や正義の基準を共有することが極めて困難になっている」だからこそ批評家の頑張りどころだと思うが。なんで放棄するのか。内在的/外在的批評はどちらも必要だろう。文学だと散々やってきた話が音楽にはない?
日本では小林秀雄型の文芸的印象評論から社会性政治性を取り込む形でPOP&ROCK評論ができ、そこに商業的読み取り解説が繋がる。海外Reactorを見ると技術的批評が強くジャンル論の体をもつ、みの的内在批評は折衷的とも
マイナーな作品ばかり掘ってると、内在的批評にならざるを得ない。社会とのつながりが無いから。逆にヒット曲ばかり批評して注目を集めて飯を食う人は外在的批評になる。
https://www.youtube.com/watch?v=xggDpGUxPoEそもそも山口の認識が90年代あたりで止まっている気がする。現状は音楽ジャンルが発散しすぎて批評しにくくなっているのに加え、政治的党派性が絡みさらにややっこしくなっている
音楽の構造、社会での意味付け、色んな観点からの批評があって良いと思う。歌詞の内容より音楽の構造についてインタビューされたいミュージシャンもいらっしゃるし。
支持。
内在的批評が専門知識に依らずに噛み砕いて説明出来るかが問題かもね。文中の哲学者とやらに関しては内在的批評の体で主観多めの外在的批評をするから嫌われる。
大衆ウケする稚拙な批評が、商業雑誌やブログでウケる。社会を論じることが、稚拙さの免罪符になってゴミが溢れる昨今、多様な批評があって良いんじゃない。
文芸に比べると音楽は抽象的だけど人類は美術を通じて鍛えられてる。ポピュラーミュージックは生まれてから日が浅いとはいえ、過去の/遠い場所の音楽を外在的に捉えるキャパがないので、内在的分析が好きです🏚️
後で動画見てみよう
厳密にはだいぶ違うが、クラシック音楽の歴史における絶対音楽と表題音楽の議論を思い出したので、流派の違いという言い方はなんとなく納得感ある。本文中の『外在的な』部分のみを批評と定義するのには違和感あるし
僕はミュージシャン自身も「点数つけて欲しい」と思っているのではないかと密かに思っているので、みのさんがやってるような内在的批評はあっていいんじゃないかと思ってる。
ノエル・キャロルの話かなと思ったらノエル・キャロルの話だった
これの逆がアニメ漫画業界だなと思った。内在的批評のレベルの高さに対し、作品と社会の関わりの話を全然しない(エヴァで飽きられたから?)それでたまに出るヒット作に門外漢が頓珍漢な外在的批評をして叩かれる
この人が言うところの内在的批評のことを世間一般では解説と呼ぶのだろうしそれの何が気に入らないんだろう
いいね。
めんどくさいから触らないようにしておく
アートでいうフォーマリズム批評なんだろうけど、October派のようなフォーマリズム批評が低迷したのは文脈依存型(社会依存型)の作品に対応できなかったから。応援してるけど、みのさんの内在型も、その危惧はある。
お笑い賞レースにおいて、内容そのものだけじゃなくて、会場のウケ量も加点に入れるか、みたいな話かしらね。確かに相容れない感じある。
そもそも日本に音楽ジャーナリズムは皆無に等しい。有名インディバンドが10年以上も取材されないことがザラである。存在するのは広告のみである。業界の資本に首根っこ掴まれているミノ氏も批評の皮を被った広告では
この程度の話から始めないといけないのは、蓄積とか何もないんだなあと。12月の佐々木敦献本されない問題を思い出した。批評の報われなさ..報われないから続ける人が少ないhttps://x.com/arishima_takeo/status/1996842789796225052?s=46
若い山彦から半世紀も経ってなんで「いいものもある悪いものもある」を読まされなければならないのか?あるいは吉田秀和みたいなものもう一度読みたいのか?/ロキノンはプロモーターに徹するべきだ。
音楽産業の音楽を“産業音楽”としてそれ自体を否定していた人達はもういなくなってしまったな。
ある音楽を聴いて、膨大な音楽の歴史の中から捉え直し、再解釈、再評価するということをみのさんは行っているので、音楽の批評として十分成立している。またそういう切り口こそ、みのさんの魅力だと思っている。
内在的批評も外在的批評も排除すべきではなく、両者が併存できる土壌が必要との結論はその通り。内在的批評は単なるコード進行等の分析、外在的批評は単なる感想、に終始するリスクを抱えるが。
実は大好きなYoutuberさんによる意見表明。外在的批評を否定せず、内在的批評を重視するという立場、有りだと思います。ミセスの批評動画はまだ観てないが、イエスの『危機』は大好きなので、帰ったら即観ます。
若手の評論家ってやたらと何かと何かを接続させたがるし、やたらと何かが立ち上がってくるな。
表現そのものの力ではなくて拒絶された来歴のほうを過大に問題化し、それを展示対象に仕立てた「表現の不自由展・その後」を連想してしまったが、似たような視点の人はあまり見つからなかった。
音楽に批評は必要なのか。
音楽解説と批評の境界線か。文脈語りに逃げずに音そのものを評価したいってのは分かるが、結局は主観の押し付け合いになりがちなのがこの界隈
譜面入りで流行歌を分析した宮川泰「サウンド解剖学」はまさにこの内在的批評のさきがけだったんだな、と思う。/近田春夫の週刊文春の連載が大昔に終わっていたことを知り、ちょっと愕然としている。
大衆モノでも、突き詰めるなら、指揮者のような楽譜の読み込み、エンジニアのような機材の分析、学者のような調査研究など、語りを何がどう担保してるかが見えると切実さが見える。ネクスト吉田秀和待ちじゃん。
作品の音楽的な構造についてミュージシャン自身が語る機会はまだ少ないよね。売れてる楽曲はファンの多くが別にそれを求めていないという事もあるので音楽メディアもそこに紙面を割くメリットがないという事もある
全体的に論理が雑。批評とは合意形成を目指すものであるという考えがあるように読める。
批評とは、良し悪しを評価することでなく批評対象をどう世界と接続or配置させるのかであるので、「『自分の耳』だけでジャッジを下す」っていうのは批評ではないのよ。根本的にそこがわからなそうだなとは思った
ぶっちゃけ僕はミセスが大嫌いなんだけどちゃんとした批評を読んでみたい。そして僕の価値観が少し変わるようなものだと良いなと思ってる
自分にとってはコードや転調、曲の構成等々のサウンドが大事であって、それに触れ(ようが多分)ない「社会的な接続」には(してもいいが)正直興味がない。
そもそも山口一郎は音楽批評がまだ注目されてない楽曲をすくい上げる機能が失われつつあることに危機感を覚えてこの発言をしたのにそっちが完全に放置されてる
単に片手落ちだったのではなく意識的に外側との接続を避けていたのは理解している。じゃあそっちは誰がやるの?やれるの?という疑問は当然出てくるよね。
これ、フットボールにおける「ピッチに答えがある」って話と繋がるな〜
本質とは関係ない(JASRAC的な?)問題だろうが、実際の音が鳴らせない「内在的批評」は、せっかくの動画というメディアでやっているのに片手落ちに見えてしまう
山口一郎自身が自身のルーツとなる音楽とかシーンの元になった音楽を紹介することをしていて、やっぱり自分が影響を受けたものが忘れ去られるのはもったいないんだよ。社会に歴史があるように音楽にも歴史がある。
ミセス含む最新J-Popは至福のドーパミン炸裂パーティーを提供して、曲中のパターンを増やすため必然的に実験的でマニアも乗っかる。でも大衆受けはSnowManなんかで結局人柄。HANAやNumber_iが両端を自由に行き来してるかな。
制作知識の薄い音楽ライターが実際「音楽そのもの」を語ろうとすると、頓珍漢な発言になりがち。宇野維正氏の音圧話とか酷かったな。高橋健太郎氏や松尾潔氏など、制作側でもある人たちほど発信に慎重なんだよな
内在的批評と外在的批評は同時に行われるのが正しい姿なのではと思ったが違うのか?それとも外在的批評を行っている人は内在的批評も包含していると自負しているのだろうか?
「邦楽通史」書いて炎上した人か。著作憲法上の引用ルールは押さえておいたほうが。ネット普及以前に義務教育受けた世代は、ちゃんと習ってない人多いけど、本来、もの書きなら全員知っておくべきこと。
みの氏が紹介する古いロックは楽しめるし、そのフォーマットを今の曲に適応しているだけに見えるけど。音楽なんだから"音"に注目してほしいよ
もう若くないがみどりんご夫人の曲聞けるしなんなら好きな方なのはネット中毒患者(情報中毒)と相性がいいからなのかもしれない|解説した上でこれどうなん?って話をしてるなら批評なんちゃうか
求められてるいないでいうなら、内在か外在かではなく、批評か解説かなんじゃないのかな(´-`)なんつか、どうせ「好き」に立脚するんだから批評なんてどうでも良くて、求められてるのは解説なんじゃないのかと