14歳がアホで悪いか。悪ならば14歳でも非難して良い。けどアホなのは非難できないだろ。アホな14歳を餓死させる国こそ恥じるべきだ。
死んだ人の回想って体の話にアホもなにもないだろ
戦時中フレーバーとスーパー後知恵によりようやく「清太叩き叩き」の視点が成立するだけで、例えばゆたぼんには①シンプルな見下しと②支持を装い愚行を助長する態度、大勢の反応はその2通りだったからね。
なぁに大日本帝国とかいう滅びたカルト国家の側上層部よりはマシだよ。てか14歳の子供つかまえてなに言ってんだか
愚かであると死ぬ、それが共感される世の中というのは、自分自身は愚かでないと思いたい心理と、愚かである人を生かしておく余裕などない、という逼迫した環境がなせるものだと感じてる。皆貧しいのよ……
見事なまでタイトルしか読まないアホブクマカ発見記事
未成年の死の何が自己責任だというのか。子供を社会が殺した現実から目を背けるべきではない
金持ちのボンボンだったから仕方ない面もあるけど親戚のおばさんに対しては最初から横柄な態度で最後まで改めなかったもんな。現在の価値観で14歳を語るのはちょっと考えなしかな。はだしのゲン読んだ事なさそう。
原作者の野坂昭如は自責の念に堪えかねてこの作品を書き、読者や高畑勲、映画を見た人にそう思わせ断罪してもらう意図があったんじゃないかと勘ぐっている
90年代2ちゃんねるの逆張り厨二言説を鵜呑みにする人が現れてこうなった。いい大人が悪ぶるの恥ずかしいよ・・・
まぁ原作者は妹を疎ましく思ってたり疎開先では娘に夢中になったりだしなぁ。反省しつつ自分を妹思いの兄として美化してるけど、さすがにそれじゃ悪いんで自分も死んだことに。それも本としてのビジネス。
野坂昭如「僕はせめて、小説『火垂るの墓』に出てくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死に様を、悔やむ気持ちが強く、小説中の清太に、その思いを託したのだ。」
今回久しぶりに見ると、妙なプライドの高さで妥協できずに突っ走って破滅する人って見方をしてしまったな。周りに説得できる人がいれば良かったんだけど。
登場人物の愚行で話を無理くり展開させる安直なストーリーが粗製濫造されて嫌われるようになった結果、火垂るの墓のようにそれなりの必然性のある愚行も気に障るようになってしまったのでは/受け手の愚行耐性の低下
子どもが子どもらしく馬鹿やってても育っていく社会を維持するのが、大人の役目だよな。子どもが馬鹿なのは当たり前なんだから。そもそも今の基準でいえば、あの叔母さんは保護責任者遺棄だろ。
いま息子が14歳。背は抜かされてずいぶん大人びた。正義感が強くて、大人への反感もあって、背伸びしたくて、でもまだまだ幼いアンバランスな感じが清太と重なりすぎて、久々に映画を見たら涙が止まらなかった。
なんとなくマガポケのクッキングパパのコメ欄が酷い事を思い出す。ひたすら田中を叩きたい人がいてそれに同意を示す人がその100倍いる。お人形ごっこの延長線なんだけど、その境界線がはっきりしてなさそうで怖い
「艦長の子息のボンボンが餓死するわけない」と宮崎駿も嫉妬混じりに指摘しているが、高畑勲は大衆にわかりやすいメッセージを見せながら暗喩で大衆を小馬鹿にする芸風では。監督の手のひらで踊っている新聞と大衆。
「90年代2ちゃんねるの逆張り厨二言説」 ←的を得た表現。こういうのが世に増えすぎだよな。ひと昔前なら恥ずかしくて主張できなかった。
おばさんを非難するか清太を非難するか、歳を重ねると変わるのは本当
絶対に親戚のガキは預かりたくないなと思わされる傑作
要するに戦前戦中の考え方なんよね。懐古。
植松聖死刑囚「社会保障に多額のお金をかけてる現実をあなたはどう思うんですか?日本の借金だってこれ以上もう無理ですよ。そもそも借金で何かをするということ自体、考えられないですよ」https://youtu.be/ywI3KHuGP3U?t=653
高畑勲としては「我慢の出来ない現代っ子批判」のつもりだったのだが、しょうもない理由なので誰も取り上げないのである。
2ちゃんねるは1999年5月開設。90年代2ちゃんねる逆張り言説とやらに星付けて大丈夫?それっぽい意見に流されてない?
戦災孤児の子供のやることを大人の基準でジャッジすべきではないです。それよりも成り金がコネで解決するサマーウォーズを批判すべきです
事が起こったあとなら正論なんていくらでも吐ける。「もし自分がああいう状況に陥っても絶対に間違えない」って根拠のない自信はどこからくるんだろう?
「個人の力で世の中が変えられる」と幻想を抱いた旧来の左翼的な世代と、結果的にその左翼が失敗した後の幻想がなくなった世代では、世の中ではなく個人が変わらなきゃいけないこと=自己責任への逼迫度が全く違う
大島渚との殴り合いの逸話とかのイメージと作品のイメージが違いすぎて「きっと野坂昭之の中の清太(子供)はあの時に死んだのだろう」と10代の頃の自分は妙に納得した記憶がある。子供が子供でいられないのが戦争
清太は作者野坂昭如本人であり、野坂氏は妹を死なせた自らの愚かさを悔いていると後に語っている。しかし、そのことを戦争を知らないクソ若造どもにとやかく言われる筋合いはあるのか? アホはお前らだ。
日本のリベラルって、日本が領海侵犯されても「日本が挑発した」、日本人が拉致されても「日本も過去に」とか、中国や北朝鮮を擁護しまくって、被害者側を攻撃する癖に、なんで自己責任論が嫌いなんだろ?
中学生に全責任を取らせるな、は分かるんだけど、あれはそのまま大日本帝国軍人としての方向性だとも思う。失敗を失敗と認めず、頭を下げられず、弱い方を犠牲にする。まあ、それ含めて大人の責任ではあるんだけど。
ちょうど20年前に松嶋菜々子主演のおばさん側に立ったドラマ版が放送されてて、それより前から清太は非難されてた記憶があるのでありふれた意見のような
原作者は引き取られた家庭のお姉さんに夢中で妹は放ったらかしで死んでも特に気にしてなかったので、そもそもあんまり共感出来るように作られたキャラクターではないんだよな
なんでも自己責任論にする人は想像力に欠けるんだよな。今と昔は環境も違うし、得られる情報も違う。人によって環境も、世界の見え方も違う。高みの見物しながら安全地帯で安易に「自己責任」って言うの馬鹿みたい
野坂昭如はあえて(自分もそうだったから)清太を愚かに書いた可能性があるが、上空のB29に乗ってる姿の見えない敵兵より、そりが合わない親類と毎日一緒に暮らす方がよほど辛いという方が人間心理の文学としてリアル
昭和〜平成初期には清太くらい愚かな若者は実際に沢山いたけど現代にはマジで居ないんやろ。現代の若者が「非行したくらいで死ぬなんて戦争は悲惨」というより「非行そのもの」に悲劇の原因を見出すのは当然と思う
清太、アホじゃないにゃ!時代が変わっても、ボクは清太を応援するにゃ。お兄ちゃんだから頑張ったにゃ。文句言う人は、猫パンチにゃ!
偶に海外文学の中に描かれている、戦時下における束の間の自由(正義やモラルを説く偉い大人達の不在による)を謳歌する若者達という、日本ではあまり語られない事が描かれた作品。
公正世界仮説をナイーブに信じていて「被害者にも落ち度があった」と思いたいのだろう
そりゃ居候先で嫌味言われ続ければ飛び出したくもなろうよ、大人ですら。いろんな解釈があるのは承知しているがその中でも性的倒錯説はもっとも驚愕。
清太はアホだけど孤児の中二だぞ。中二のあなたはマシな立ち回りができる自信があると
あれを自己責任論で片付けようとする幼さみたいなものがまさに清太イズムを感じる。
ただシンプルに悲しいコンテンツに逆張りしたがるお年頃(精神的に)の人が多いというのもありそうだけど、それが受け入れられる世相になっているというのもあるよなってどっちも思う
野坂昭雄の贖罪が原点なんだからそりゃ清太は愚かだろう...公開されている箇所のみ見るととても薄い記事。火垂るの墓の考察は岡田斗司夫のものが興味深かった
初公開時見たけど清太の父親はかなりの高官みたいに描かれていて、それならちゃんと手続きして学歴を授けてくれる今で言うもっと太い家に引き取られそうやのにな、という違和感は持った。だから繰り返しは見れんかっ
観る度に印象が変わる不思議な作品である。清太にも悪い点はある、有り過ぎる。しかしそれを自己責任とは思わんし、自業自得とも思わん。責任を問われるべきなのは、戦争を始めた国であり、それを支持した有権者。
1940年代に生きていて同じことが言えるのか、ということなんよなー。今の時代に言えることが平和で幸せなこと、、?いやアホやろ
最近はフィクションの登場人物が読み手が考える合理的で賢い選択をしないことがストレスで不快という感想はめずらしくもない、それが火垂るの墓でも意外ではない。私は自分がそれほど賢いとは思わないが
親のいない子を育てたことあるー?私はある。クソ大変だぞ。国が面倒見てくれたら良いんだが国は手放す方向にシフトしている
アホなら餓死して良いのか、そこを考えられるかどうか。
自己責任かどうかではなくて、どうやったら生き延びることができたか。だよね。生きるためにはプライド捨てて何を言われても我慢するべきときがあるよなと思った。
清太は自分のやりたいようにやって死んだ、それだけのこと、節子が死んだのは保護者の清太の責任、それだけ
現実には,こんな取るに足りないアホさが原因で死んでいく青少年は一定数いるんだろうね.セーフティネットはもちろん大事だが,子どもでもその存在を知っていることが大事だな.それこそ義務教育で周知してよ
中高生あたりが観たら、そりゃ清太へのやるせなさが募るのは当たり前だと思うがなあ。自分と同じ年代だし。感情移入しすぎて「オレだったら節子を死なせなかった」ってなるのは別に悪くはなく正義感ゆえよ。
虚構新聞じゃなかった
高畑いわく「戦時中の困難にあっても、それでも精一杯生きたこどもたちの映画」が「隠れファシスト発見装置」になっている現状に満点大笑いw 日本人は100年くらい進歩の機会を失っているのではないか
清太は決断して死んだが節子は巻き込まれて死んだ。その一点の印象が悪い。中二なら自意識はあるし、一人でバカやって死ぬ権利はあると思う。大人には殴ってでも止める義務はあるが時代がら仕方ない部分はあろう
2人だけの子供王国を作るのに失敗。厳しいイメージの当時の警官が優しかったりと周囲との折り合いを見つければ上手くやれたかもしれないので王国独立を急ぎすぎたかも。戦下特有の事情もあるが戦争はおまけの味付け
子供が清太はアホ俺ならもっと上手くやるってイキがってるなら分かるんだけど良い歳した大人がやってるといつまで子供目線で清太と張り合ってるの?という気持ちになる
「生きるためには多少の嫌なことは我慢すべき」だとすれば、「我慢が嫌で妹を死なせる」清太は悪。「青少年がアホなのは仕方ない。社会はアホの自由を強制的に制約して死なないようにすべき」は、また別の話。
んなこと言ったら飛び出した清太を止めなかった叔母さんがアホだろ〜
「貧すれば鈍する」、それを自己責任にするのは違うと思う。社会的弱者を救わない社会を望むの?
価値観が戦中に戻っている
孤立すると生きていけないというのは現代でも似たようなもの。自ら望んで最後の綱を切ってしまったが14歳にそこまで求めるのは酷。
火垂るの墓に限らずエヴァンゲリオンとかまどか☆マギカ見ても「中学生だもんなあ」と思うようになった。着せ恋すら「高1だもんなあ」などと独り言言いながら見てる
「清太はアホや」 火垂るの墓めぐる自己責任論、共感ひろがる理由は:朝日新聞
14歳がアホで悪いか。悪ならば14歳でも非難して良い。けどアホなのは非難できないだろ。アホな14歳を餓死させる国こそ恥じるべきだ。
死んだ人の回想って体の話にアホもなにもないだろ
戦時中フレーバーとスーパー後知恵によりようやく「清太叩き叩き」の視点が成立するだけで、例えばゆたぼんには①シンプルな見下しと②支持を装い愚行を助長する態度、大勢の反応はその2通りだったからね。
なぁに大日本帝国とかいう滅びたカルト国家の側上層部よりはマシだよ。てか14歳の子供つかまえてなに言ってんだか
愚かであると死ぬ、それが共感される世の中というのは、自分自身は愚かでないと思いたい心理と、愚かである人を生かしておく余裕などない、という逼迫した環境がなせるものだと感じてる。皆貧しいのよ……
見事なまでタイトルしか読まないアホブクマカ発見記事
未成年の死の何が自己責任だというのか。子供を社会が殺した現実から目を背けるべきではない
金持ちのボンボンだったから仕方ない面もあるけど親戚のおばさんに対しては最初から横柄な態度で最後まで改めなかったもんな。現在の価値観で14歳を語るのはちょっと考えなしかな。はだしのゲン読んだ事なさそう。
原作者の野坂昭如は自責の念に堪えかねてこの作品を書き、読者や高畑勲、映画を見た人にそう思わせ断罪してもらう意図があったんじゃないかと勘ぐっている
90年代2ちゃんねるの逆張り厨二言説を鵜呑みにする人が現れてこうなった。いい大人が悪ぶるの恥ずかしいよ・・・
まぁ原作者は妹を疎ましく思ってたり疎開先では娘に夢中になったりだしなぁ。反省しつつ自分を妹思いの兄として美化してるけど、さすがにそれじゃ悪いんで自分も死んだことに。それも本としてのビジネス。
野坂昭如「僕はせめて、小説『火垂るの墓』に出てくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死に様を、悔やむ気持ちが強く、小説中の清太に、その思いを託したのだ。」
今回久しぶりに見ると、妙なプライドの高さで妥協できずに突っ走って破滅する人って見方をしてしまったな。周りに説得できる人がいれば良かったんだけど。
登場人物の愚行で話を無理くり展開させる安直なストーリーが粗製濫造されて嫌われるようになった結果、火垂るの墓のようにそれなりの必然性のある愚行も気に障るようになってしまったのでは/受け手の愚行耐性の低下
子どもが子どもらしく馬鹿やってても育っていく社会を維持するのが、大人の役目だよな。子どもが馬鹿なのは当たり前なんだから。そもそも今の基準でいえば、あの叔母さんは保護責任者遺棄だろ。
いま息子が14歳。背は抜かされてずいぶん大人びた。正義感が強くて、大人への反感もあって、背伸びしたくて、でもまだまだ幼いアンバランスな感じが清太と重なりすぎて、久々に映画を見たら涙が止まらなかった。
なんとなくマガポケのクッキングパパのコメ欄が酷い事を思い出す。ひたすら田中を叩きたい人がいてそれに同意を示す人がその100倍いる。お人形ごっこの延長線なんだけど、その境界線がはっきりしてなさそうで怖い
「艦長の子息のボンボンが餓死するわけない」と宮崎駿も嫉妬混じりに指摘しているが、高畑勲は大衆にわかりやすいメッセージを見せながら暗喩で大衆を小馬鹿にする芸風では。監督の手のひらで踊っている新聞と大衆。
「90年代2ちゃんねるの逆張り厨二言説」 ←的を得た表現。こういうのが世に増えすぎだよな。ひと昔前なら恥ずかしくて主張できなかった。
おばさんを非難するか清太を非難するか、歳を重ねると変わるのは本当
絶対に親戚のガキは預かりたくないなと思わされる傑作
要するに戦前戦中の考え方なんよね。懐古。
植松聖死刑囚「社会保障に多額のお金をかけてる現実をあなたはどう思うんですか?日本の借金だってこれ以上もう無理ですよ。そもそも借金で何かをするということ自体、考えられないですよ」https://youtu.be/ywI3KHuGP3U?t=653
高畑勲としては「我慢の出来ない現代っ子批判」のつもりだったのだが、しょうもない理由なので誰も取り上げないのである。
2ちゃんねるは1999年5月開設。90年代2ちゃんねる逆張り言説とやらに星付けて大丈夫?それっぽい意見に流されてない?
戦災孤児の子供のやることを大人の基準でジャッジすべきではないです。それよりも成り金がコネで解決するサマーウォーズを批判すべきです
事が起こったあとなら正論なんていくらでも吐ける。「もし自分がああいう状況に陥っても絶対に間違えない」って根拠のない自信はどこからくるんだろう?
「個人の力で世の中が変えられる」と幻想を抱いた旧来の左翼的な世代と、結果的にその左翼が失敗した後の幻想がなくなった世代では、世の中ではなく個人が変わらなきゃいけないこと=自己責任への逼迫度が全く違う
大島渚との殴り合いの逸話とかのイメージと作品のイメージが違いすぎて「きっと野坂昭之の中の清太(子供)はあの時に死んだのだろう」と10代の頃の自分は妙に納得した記憶がある。子供が子供でいられないのが戦争
清太は作者野坂昭如本人であり、野坂氏は妹を死なせた自らの愚かさを悔いていると後に語っている。しかし、そのことを戦争を知らないクソ若造どもにとやかく言われる筋合いはあるのか? アホはお前らだ。
日本のリベラルって、日本が領海侵犯されても「日本が挑発した」、日本人が拉致されても「日本も過去に」とか、中国や北朝鮮を擁護しまくって、被害者側を攻撃する癖に、なんで自己責任論が嫌いなんだろ?
中学生に全責任を取らせるな、は分かるんだけど、あれはそのまま大日本帝国軍人としての方向性だとも思う。失敗を失敗と認めず、頭を下げられず、弱い方を犠牲にする。まあ、それ含めて大人の責任ではあるんだけど。
ちょうど20年前に松嶋菜々子主演のおばさん側に立ったドラマ版が放送されてて、それより前から清太は非難されてた記憶があるのでありふれた意見のような
原作者は引き取られた家庭のお姉さんに夢中で妹は放ったらかしで死んでも特に気にしてなかったので、そもそもあんまり共感出来るように作られたキャラクターではないんだよな
なんでも自己責任論にする人は想像力に欠けるんだよな。今と昔は環境も違うし、得られる情報も違う。人によって環境も、世界の見え方も違う。高みの見物しながら安全地帯で安易に「自己責任」って言うの馬鹿みたい
野坂昭如はあえて(自分もそうだったから)清太を愚かに書いた可能性があるが、上空のB29に乗ってる姿の見えない敵兵より、そりが合わない親類と毎日一緒に暮らす方がよほど辛いという方が人間心理の文学としてリアル
昭和〜平成初期には清太くらい愚かな若者は実際に沢山いたけど現代にはマジで居ないんやろ。現代の若者が「非行したくらいで死ぬなんて戦争は悲惨」というより「非行そのもの」に悲劇の原因を見出すのは当然と思う
清太、アホじゃないにゃ!時代が変わっても、ボクは清太を応援するにゃ。お兄ちゃんだから頑張ったにゃ。文句言う人は、猫パンチにゃ!
偶に海外文学の中に描かれている、戦時下における束の間の自由(正義やモラルを説く偉い大人達の不在による)を謳歌する若者達という、日本ではあまり語られない事が描かれた作品。
公正世界仮説をナイーブに信じていて「被害者にも落ち度があった」と思いたいのだろう
そりゃ居候先で嫌味言われ続ければ飛び出したくもなろうよ、大人ですら。いろんな解釈があるのは承知しているがその中でも性的倒錯説はもっとも驚愕。
清太はアホだけど孤児の中二だぞ。中二のあなたはマシな立ち回りができる自信があると
あれを自己責任論で片付けようとする幼さみたいなものがまさに清太イズムを感じる。
ただシンプルに悲しいコンテンツに逆張りしたがるお年頃(精神的に)の人が多いというのもありそうだけど、それが受け入れられる世相になっているというのもあるよなってどっちも思う
野坂昭雄の贖罪が原点なんだからそりゃ清太は愚かだろう...公開されている箇所のみ見るととても薄い記事。火垂るの墓の考察は岡田斗司夫のものが興味深かった
初公開時見たけど清太の父親はかなりの高官みたいに描かれていて、それならちゃんと手続きして学歴を授けてくれる今で言うもっと太い家に引き取られそうやのにな、という違和感は持った。だから繰り返しは見れんかっ
観る度に印象が変わる不思議な作品である。清太にも悪い点はある、有り過ぎる。しかしそれを自己責任とは思わんし、自業自得とも思わん。責任を問われるべきなのは、戦争を始めた国であり、それを支持した有権者。
1940年代に生きていて同じことが言えるのか、ということなんよなー。今の時代に言えることが平和で幸せなこと、、?いやアホやろ
最近はフィクションの登場人物が読み手が考える合理的で賢い選択をしないことがストレスで不快という感想はめずらしくもない、それが火垂るの墓でも意外ではない。私は自分がそれほど賢いとは思わないが
親のいない子を育てたことあるー?私はある。クソ大変だぞ。国が面倒見てくれたら良いんだが国は手放す方向にシフトしている
アホなら餓死して良いのか、そこを考えられるかどうか。
自己責任かどうかではなくて、どうやったら生き延びることができたか。だよね。生きるためにはプライド捨てて何を言われても我慢するべきときがあるよなと思った。
清太は自分のやりたいようにやって死んだ、それだけのこと、節子が死んだのは保護者の清太の責任、それだけ
現実には,こんな取るに足りないアホさが原因で死んでいく青少年は一定数いるんだろうね.セーフティネットはもちろん大事だが,子どもでもその存在を知っていることが大事だな.それこそ義務教育で周知してよ
中高生あたりが観たら、そりゃ清太へのやるせなさが募るのは当たり前だと思うがなあ。自分と同じ年代だし。感情移入しすぎて「オレだったら節子を死なせなかった」ってなるのは別に悪くはなく正義感ゆえよ。
虚構新聞じゃなかった
高畑いわく「戦時中の困難にあっても、それでも精一杯生きたこどもたちの映画」が「隠れファシスト発見装置」になっている現状に満点大笑いw 日本人は100年くらい進歩の機会を失っているのではないか
清太は決断して死んだが節子は巻き込まれて死んだ。その一点の印象が悪い。中二なら自意識はあるし、一人でバカやって死ぬ権利はあると思う。大人には殴ってでも止める義務はあるが時代がら仕方ない部分はあろう
2人だけの子供王国を作るのに失敗。厳しいイメージの当時の警官が優しかったりと周囲との折り合いを見つければ上手くやれたかもしれないので王国独立を急ぎすぎたかも。戦下特有の事情もあるが戦争はおまけの味付け
子供が清太はアホ俺ならもっと上手くやるってイキがってるなら分かるんだけど良い歳した大人がやってるといつまで子供目線で清太と張り合ってるの?という気持ちになる
「生きるためには多少の嫌なことは我慢すべき」だとすれば、「我慢が嫌で妹を死なせる」清太は悪。「青少年がアホなのは仕方ない。社会はアホの自由を強制的に制約して死なないようにすべき」は、また別の話。
んなこと言ったら飛び出した清太を止めなかった叔母さんがアホだろ〜
「貧すれば鈍する」、それを自己責任にするのは違うと思う。社会的弱者を救わない社会を望むの?
価値観が戦中に戻っている
孤立すると生きていけないというのは現代でも似たようなもの。自ら望んで最後の綱を切ってしまったが14歳にそこまで求めるのは酷。
火垂るの墓に限らずエヴァンゲリオンとかまどか☆マギカ見ても「中学生だもんなあ」と思うようになった。着せ恋すら「高1だもんなあ」などと独り言言いながら見てる