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「自分以外の何かが自分の意志を超えて画面に取り込まれているのですから…」蓮實重彦氏が考える“映画が豊かである”方法 | 文春オンライン

1: wackunnpapa 2025/05/25 10:58

“どこかで何か妥協した時に、それは妥協ではなくて真の決断だったかもしれないとか、そういうものがあるような気がしている。ですから、「妥協」というものに対する姿勢を映画が変えてくれたというような気が”

2: owl23 2025/05/25 12:46

伊藤計劃が蓮實重彦の言う妥協について同じ趣旨の話をしていたな。解像度の向上とCGが妥協をしにくくしているんだろうなとは感じる。https://itoh-archive.hatenablog.com/entry/2015/10/04/110000

3: donovantree 2025/05/25 13:08

「コントロールしようと思えばどこまでもコントロールできる。でも、コントロールできるにしてはコントロールしてないところまで見えたりする」庵野が拘っているのはこの辺の感覚だろうと思っている。

4: exciteB 2025/05/25 13:14

わたくしが「演出」の映画より「撮影」の映画のほうを高く評価している/「ドキュメンタリー的手法が好き」と言えば簡単なのに回りくどい

5: memoryhuman 2025/05/25 13:45

ハリウッドでのデジタル移行時のドキュメンタリー見て似たとこ考えたな。アナログの頃は映像を直に押さえてる撮影監督の意見が現場で強かったがデジタル以降は監督一強。でいくらでも事後的に弄れる。撮影→演出

6: gimonfu_usr 2025/05/25 15:17

“〔「演出」はどんな表現活動にもありうるが〕「撮影」とは、映画だけに特有な技法" "「撮る」とは時間的な体験です。撮るに従って、撮っている主体も、撮られている客体も変化する。その変化を取り込む”

7: nobujirou 2025/05/25 17:08

リュミエールを読んで、タルコフスキーを映画館で見るのが80年代後半の学生がしていることだった。

8: orzie 2025/05/25 19:21

“コントロールしようと思えばどこまでもコントロールできる。でも、コントロールできるにしてはコントロールしてないところまで見えたりするので、アニメというのはどうも苦手なんです。”

9: yarumato 2025/05/26 00:40

“映画は〈演出の映画〉と〈撮影の映画〉の2種類。意図通りに演出して撮る映画。撮るにしたがって撮られている客体も変化する。変化しつつある現実を撮った自分自身に対する驚きがある映画。コントロールできなさ”

10: stumprider 2025/05/27 01:56

蓮實さんのテキストでこんなにも平易で読みやすいものはない。聞き手も素晴らしい。どんなプロダクトでも、その中に妥協の存在に気づくには、作り手並かそれ以上のコンテクストへの理解とリテラシーが必要よね。