「客」もそうなんでしょ?だから、チェンソーマンのTV版やあんスタの最近は「ちがう」の嵐なんでしょ?サンキューピッチの阿川先生もまだいろいろ試してほしい。
「センスの有る無し」ではなく「センスの差異があった」と考えるべきでは。あと原作者の漫画表現のセンスが素晴らしくてもアニメ表現のセンスが素晴らしいとは限らないし、人間だから贔屓目で見ないとも限らない
各自が好き勝手に「好きなシーンが無いから期待外れだった」と言えばいいじゃん。原作を改変するという絶対的な悪行をしたから とか 原作者が同意しているから とか主語をでかくしないと感想を言えない方が問題だよ
そのパターンは進撃くらいしか寡聞にして知らない。他にもあるかしら
諫山先生の話?
FFTの話かな。
「こんなの私の好きな●●じゃない!!」って人は二次創作同人やれ。間違っても作者や関係者に干渉しようとするな。
漫画は個人技寄りでアニメはチームワーク寄り。媒体の特性が違うんだから100%は無いでしょ
これを思い出した。『筆者、“筆者の考え”を正確に読み取れず 立命館大准教授の著書が名門中学校の入試に→本人が挑戦も不正解に』 https://nlab.itmedia.co.jp/cont/articles/3301212/
原作者がどうしたいかによるので一概には言えない。
お前の気持ち、感じ方はお前だけの物だ。原作者がどれだけ気に入っていようがお前がつまらなければそれは駄作。原作者にとっては酷い改変で許しがたいものでもお前が面白ければそれは傑作。それ以外には何もない。
劇場アニメ化の際の改変に唯一の正解なんかないので、どちらが正しいと決められるものではない。ただ、作品については読者より原作者の方が詳しいのだから、原作者の主張の方が的確である可能性が高い。
実写版「秒速5センチメートル」見に行って来たら、昔の電車なのに付いてないはずのVVVFインバータの音を付けていた。鉄道監修をつけるべきだったのに、つけていなかった。けしからん
結局アニメ作る人次第なのよね。原作者がアニメ作るわけじゃないから。
DQ5の映画について堀井雄二はその辺どーなんだろ。
からくりサーカスはアニメの尺に無理やり収める為に原作者の意向で話を削りまくった結果、ファンはほぼ納得しない代物になったぞ。BUMP OF CHICKENの主題歌の月虹が最高に良い曲だからそれだけは良かったけど。
からくりサーカスのアニメがファンはほぼ納得してないとか主語を大きくして言うのはやめてくれ。削りすぎた感は否めないけど、尺が決まってる中、名シーンはちゃんと作ってくれてそういうものとしてみればよかったよ
どのような意見や考えがあろうとも、「セクシー田中さん」やNHKスペシャルの総力戦研究所のドラマのようなことが起こってはいけないのは変わりない。結局のところはリスペクトの有無に尽きるのだよ。
読者は「俺が大好きなこのシーンが省かれたのが残念」と言えばいいのであって、そこに正解とかセンスとかを導入しようとするからややこしくなる。消費者の分際で勝ち負け競ってどうすんの?
チェンソーマンは原作者は方向性に期待するコメントだしてたし望み通りB級っぽくなってたけど求められてたのはそのままの一流アニメだった。けどそれがハマる可能性もあったし99.9点でなく200点目指す挑戦も大事
大抵、読者が「正しい」とは思う。
センスとは何か
『惡の華』のアニメは散々に叩かれたけど、原作者のその後の作品を見ているとアニメ版惡の華の影響を感じる
「作品は原則作者のもの」なんてことはなく、解釈や鑑賞は開かれているから、というしかないと思う。原作者は自分の作品のことを完全に理解できているわけではない。
俺は、アニメを見る時は、原作者の意向は気にしないな。逃げ上手の主題歌とか、なんだこりゃ!と思ったし。
創作に「圧倒的な間違い」はあっても「絶対的な正解」はないので、作り手も受け手も各々の正解を語るしかないしそれでいい
ちょっと前まで劇場版といえば本編に関わりがない番外編が主だったけど、最近はそうでもないから大丈夫じゃね?
「メディアの違いを理解せよ!」
原作者に動画のセンスがない場合も当然あるし、ファンが原理主義者化してる場合もある。ものによるとしか言えん。/世には「原作と同じことやっても(自分が)つまらないから」と変えたがる御仁だっているので。
実写版進撃の巨人は紛うことなきクソ映画だが、原作者の期待には応えてるのでファンは受け入れて楽しむべきか?
その場合、「原作者は自分の作品のどこが読者にウケてるか分からず作っている」と言う意味でセンスがないとなる。ただし分かった上で無視しているならその限りではない。
SNSは俺が先に気づいた、俺だけは知っているって承認欲求マンの知識自慢大会になってて収拾がつかない気がする。何の予備知識もなしに見てストーリーだけ追って面白かったが許されない雰囲気まである
つ「実写版進撃の巨人」 / 原作者のオーダーで町山が脚本担当になり出来た作品は原作者以外は頭を抱えたが原作者はゲラゲラ笑って大満足だった。らしい。 / https://guiscard-hauteville.hatenablog.com/entry/2024/02/04/201729
進撃の巨人の悪口はよせ
実写映画進撃の巨人みたいな例が有るよな
絶賛ばかりだと勘違いして堕落していくので適度に批判があったほうが良いのかも。しかもそれが劇場アニメとか実写版とか自分が原作だけど書いてるわけでない作品ではね。いや自分が全部やったわけないしと
なにが読者にウケるのか原作者が100%わかるのなら編集者なんていらないわけで。
原則、劇場アニメ作品は製作費を出した人のモノです。原作者は使用料/補償金を受け取っているので特別な契約がない限り権利はありません。監督もアニメータも声優も同様です。脚本だけはちょっとだけ権利があります
この増田のいう「読者」が「全読者の総意」だとするならそんなものはない。増田の「読者」を「私」と読み替えれば、「正しい」のは原作者だとわかるんだけど、正しさ関係なく「私の好きな見せ方」は誰も否定しないよ
作品は発表された時から受け手のものでもあるから作者が思ってる解釈が唯一絶対の解ではないよ(それとは別に作者がこれは絶対曲げてほしくないテーマ!みたいなのがあったらそれは尊重すべきって流れはあるよね)
そういうギャップが生じるのが創作(を公表すること)の面白さじゃない?
作者の「技量」と「センス」を語る時に、意図した通りに感動させた場合は技量、意図せずさらっと書いた部分で感動させたような場合にこそセンスが評価されるような気がする。言葉遊びかもしれないが。
作者が自分の作品の熱心なファンとは限らんことがあるからなあ
作品は発表された瞬間に鑑賞者の数だけ解釈が生まれるということで一つ。
オリジナルでコンテから漫画化もした「プラネット・ウィズ」と
読者とは総意のことなので興行収入見たらわかるんではないの
ジブリはちゃんとやろうと思ったら全部長編すぎるからね
ひらこーはHELLSING OVA版が好きらしいけどわたくしはTV版が好きです。あとるーみっくがあんまり好きそうじゃないビューティフル・ドリーマーが好きです。
印象的であるとか象徴するとかは作品の話であって、作者の意図とは関係がない。そのうえで作者には(というか権利者には)そこを改変する自由がある。いずれにせよセンスの話ではないと思う。
どういうわけか実写の方が4期まで伸びてしまった居酒屋のぶは異例なのか
関係ないがチェンソーマンのレゼ編、家族が先に観て、すごく良かったから一緒に観ようと誘われて皆んなで観た。すごく良かった。みんな観てくれ。10本に1本の方の心に残る映画だった。
感想は感想でバトルする必要無いと思う
そもそも漫画やアニメは何かを伝える手段であってクイズではない
原作者は原作を読めと言われたガンスリンガーガール2期ってのがあってね
グノーシアアニメが始まったがOPでもう全キャラネタバレレベルで紹介されてて未知の新キャラとの出会いから特記事項を埋め徐々に理解したり感情が変化したりする事があのゲームの喜びのひとつでそれをアニメ勢にも味
ゆうきまさみの「作品は嫁いだものだと考える」と、書いてはいたがよく考えたら押井守との悶着してる点はどうなのか?バーディーについても多く語ってないんだよなあ。
コロコロで育ってきた俺達には無用な修正なんていらんのよ。
不満でも不満とは言えないんよ
感想は人それぞれ。原作者と言えど、それに文句はつけられない。ってか、自分はアニメは原作とは別物なので見ない派だ。
原作者がアニメにあれこれ口出して良い結果になった話はあまり聞かないので、「原作者の主張が的確」という意見にはダウト。意外に自分では自作の長所ってわかんないものだよ。
*"諫山せんせいに聞いてみればいいよ"
作品をどう感じるかは読み手の自由、と思うのだが、例えば「ブラックジャックの守銭奴な所が好き」とか言われたら、ムムッと思ってしまうな
この増田の言う意味での『センス』を、特に創作するでも無い一介の読者・観客が持ってても、誰かが楽しんだ作品に難癖付けるだけの性格が悪く生産性の無い人にしかならんわけで、そんなもん持ってない方が良くない?
よくわからんけど、増田にとっての「正解」はどっちなんだろう。増田は原作者側の人なのだろうか
それは映画監督の領分だろ。オレは原作付き作品の場合、それが原作に厳密に忠実なものであっても、映像化作品は監督・脚本家のものと考えるので。(漫画原作だと)彼らに作家性を一切認めない勢もいるようだが。
原作者と読者で明確なズレが出た事例として「食戟のソーマ」最終章がある。主人公のソーマがヒロインのえりなに美味いと言わせる、という1巻あたりで出た話の回収のためにあるのだが、読者的にはクソつまらんという
作者のメインテーマのシーンが無視されることなんて普通だよ
そもそも作者もそこまで考えてない。作者が一番詳しいって前提が間違ってる。尾田栄一郎でさえ自分で描いた設定を忘れてる
士郎正宗かな、スティーブン・キングかな
「作品は原則作者のもの」と考えない作者もいるはず。作品がどう受容されるかを作者はコントロールできない。作品として発表した時点で、作者も一読者に過ぎなくなる。正解探しでない鑑賞スタイルもある。
今回はちょっと外れそうだけど、こうした問いに惑う話を聞くたび「無記」という概念のありがたさを感じる。哲学も仏教もそう好きではないけど…
作品は原則作者のもの ← これが間違いなんだよな。作品を発表したら作者も一読者に過ぎない。
個人として感想を述べるのは自由だが「原作者も不満なはずだ!」とか言い出したらただのクズなので自ら腹切って人生に終止符を打って天に召されてください。
原作者からするとアニメスタッフに熱心なファンであることを伝えられたりして、それだと出来がどうであれ愛しい存在になってもおかしくないよなあと思う(からくりサーカスのことを思いながら)
たとえば人気マンガが劇場アニメ化したとして 原作者は劇場アニメの出来に..
「客」もそうなんでしょ?だから、チェンソーマンのTV版やあんスタの最近は「ちがう」の嵐なんでしょ?サンキューピッチの阿川先生もまだいろいろ試してほしい。
「センスの有る無し」ではなく「センスの差異があった」と考えるべきでは。あと原作者の漫画表現のセンスが素晴らしくてもアニメ表現のセンスが素晴らしいとは限らないし、人間だから贔屓目で見ないとも限らない
各自が好き勝手に「好きなシーンが無いから期待外れだった」と言えばいいじゃん。原作を改変するという絶対的な悪行をしたから とか 原作者が同意しているから とか主語をでかくしないと感想を言えない方が問題だよ
そのパターンは進撃くらいしか寡聞にして知らない。他にもあるかしら
諫山先生の話?
FFTの話かな。
「こんなの私の好きな●●じゃない!!」って人は二次創作同人やれ。間違っても作者や関係者に干渉しようとするな。
漫画は個人技寄りでアニメはチームワーク寄り。媒体の特性が違うんだから100%は無いでしょ
これを思い出した。『筆者、“筆者の考え”を正確に読み取れず 立命館大准教授の著書が名門中学校の入試に→本人が挑戦も不正解に』 https://nlab.itmedia.co.jp/cont/articles/3301212/
原作者がどうしたいかによるので一概には言えない。
お前の気持ち、感じ方はお前だけの物だ。原作者がどれだけ気に入っていようがお前がつまらなければそれは駄作。原作者にとっては酷い改変で許しがたいものでもお前が面白ければそれは傑作。それ以外には何もない。
劇場アニメ化の際の改変に唯一の正解なんかないので、どちらが正しいと決められるものではない。ただ、作品については読者より原作者の方が詳しいのだから、原作者の主張の方が的確である可能性が高い。
実写版「秒速5センチメートル」見に行って来たら、昔の電車なのに付いてないはずのVVVFインバータの音を付けていた。鉄道監修をつけるべきだったのに、つけていなかった。けしからん
結局アニメ作る人次第なのよね。原作者がアニメ作るわけじゃないから。
DQ5の映画について堀井雄二はその辺どーなんだろ。
からくりサーカスはアニメの尺に無理やり収める為に原作者の意向で話を削りまくった結果、ファンはほぼ納得しない代物になったぞ。BUMP OF CHICKENの主題歌の月虹が最高に良い曲だからそれだけは良かったけど。
からくりサーカスのアニメがファンはほぼ納得してないとか主語を大きくして言うのはやめてくれ。削りすぎた感は否めないけど、尺が決まってる中、名シーンはちゃんと作ってくれてそういうものとしてみればよかったよ
どのような意見や考えがあろうとも、「セクシー田中さん」やNHKスペシャルの総力戦研究所のドラマのようなことが起こってはいけないのは変わりない。結局のところはリスペクトの有無に尽きるのだよ。
読者は「俺が大好きなこのシーンが省かれたのが残念」と言えばいいのであって、そこに正解とかセンスとかを導入しようとするからややこしくなる。消費者の分際で勝ち負け競ってどうすんの?
チェンソーマンは原作者は方向性に期待するコメントだしてたし望み通りB級っぽくなってたけど求められてたのはそのままの一流アニメだった。けどそれがハマる可能性もあったし99.9点でなく200点目指す挑戦も大事
大抵、読者が「正しい」とは思う。
センスとは何か
『惡の華』のアニメは散々に叩かれたけど、原作者のその後の作品を見ているとアニメ版惡の華の影響を感じる
「作品は原則作者のもの」なんてことはなく、解釈や鑑賞は開かれているから、というしかないと思う。原作者は自分の作品のことを完全に理解できているわけではない。
俺は、アニメを見る時は、原作者の意向は気にしないな。逃げ上手の主題歌とか、なんだこりゃ!と思ったし。
創作に「圧倒的な間違い」はあっても「絶対的な正解」はないので、作り手も受け手も各々の正解を語るしかないしそれでいい
ちょっと前まで劇場版といえば本編に関わりがない番外編が主だったけど、最近はそうでもないから大丈夫じゃね?
「メディアの違いを理解せよ!」
原作者に動画のセンスがない場合も当然あるし、ファンが原理主義者化してる場合もある。ものによるとしか言えん。/世には「原作と同じことやっても(自分が)つまらないから」と変えたがる御仁だっているので。
実写版進撃の巨人は紛うことなきクソ映画だが、原作者の期待には応えてるのでファンは受け入れて楽しむべきか?
その場合、「原作者は自分の作品のどこが読者にウケてるか分からず作っている」と言う意味でセンスがないとなる。ただし分かった上で無視しているならその限りではない。
SNSは俺が先に気づいた、俺だけは知っているって承認欲求マンの知識自慢大会になってて収拾がつかない気がする。何の予備知識もなしに見てストーリーだけ追って面白かったが許されない雰囲気まである
つ「実写版進撃の巨人」 / 原作者のオーダーで町山が脚本担当になり出来た作品は原作者以外は頭を抱えたが原作者はゲラゲラ笑って大満足だった。らしい。 / https://guiscard-hauteville.hatenablog.com/entry/2024/02/04/201729
進撃の巨人の悪口はよせ
実写映画進撃の巨人みたいな例が有るよな
絶賛ばかりだと勘違いして堕落していくので適度に批判があったほうが良いのかも。しかもそれが劇場アニメとか実写版とか自分が原作だけど書いてるわけでない作品ではね。いや自分が全部やったわけないしと
なにが読者にウケるのか原作者が100%わかるのなら編集者なんていらないわけで。
原則、劇場アニメ作品は製作費を出した人のモノです。原作者は使用料/補償金を受け取っているので特別な契約がない限り権利はありません。監督もアニメータも声優も同様です。脚本だけはちょっとだけ権利があります
この増田のいう「読者」が「全読者の総意」だとするならそんなものはない。増田の「読者」を「私」と読み替えれば、「正しい」のは原作者だとわかるんだけど、正しさ関係なく「私の好きな見せ方」は誰も否定しないよ
作品は発表された時から受け手のものでもあるから作者が思ってる解釈が唯一絶対の解ではないよ(それとは別に作者がこれは絶対曲げてほしくないテーマ!みたいなのがあったらそれは尊重すべきって流れはあるよね)
そういうギャップが生じるのが創作(を公表すること)の面白さじゃない?
作者の「技量」と「センス」を語る時に、意図した通りに感動させた場合は技量、意図せずさらっと書いた部分で感動させたような場合にこそセンスが評価されるような気がする。言葉遊びかもしれないが。
作者が自分の作品の熱心なファンとは限らんことがあるからなあ
作品は発表された瞬間に鑑賞者の数だけ解釈が生まれるということで一つ。
オリジナルでコンテから漫画化もした「プラネット・ウィズ」と
読者とは総意のことなので興行収入見たらわかるんではないの
ジブリはちゃんとやろうと思ったら全部長編すぎるからね
ひらこーはHELLSING OVA版が好きらしいけどわたくしはTV版が好きです。あとるーみっくがあんまり好きそうじゃないビューティフル・ドリーマーが好きです。
印象的であるとか象徴するとかは作品の話であって、作者の意図とは関係がない。そのうえで作者には(というか権利者には)そこを改変する自由がある。いずれにせよセンスの話ではないと思う。
どういうわけか実写の方が4期まで伸びてしまった居酒屋のぶは異例なのか
関係ないがチェンソーマンのレゼ編、家族が先に観て、すごく良かったから一緒に観ようと誘われて皆んなで観た。すごく良かった。みんな観てくれ。10本に1本の方の心に残る映画だった。
感想は感想でバトルする必要無いと思う
そもそも漫画やアニメは何かを伝える手段であってクイズではない
原作者は原作を読めと言われたガンスリンガーガール2期ってのがあってね
グノーシアアニメが始まったがOPでもう全キャラネタバレレベルで紹介されてて未知の新キャラとの出会いから特記事項を埋め徐々に理解したり感情が変化したりする事があのゲームの喜びのひとつでそれをアニメ勢にも味
ゆうきまさみの「作品は嫁いだものだと考える」と、書いてはいたがよく考えたら押井守との悶着してる点はどうなのか?バーディーについても多く語ってないんだよなあ。
コロコロで育ってきた俺達には無用な修正なんていらんのよ。
不満でも不満とは言えないんよ
感想は人それぞれ。原作者と言えど、それに文句はつけられない。ってか、自分はアニメは原作とは別物なので見ない派だ。
原作者がアニメにあれこれ口出して良い結果になった話はあまり聞かないので、「原作者の主張が的確」という意見にはダウト。意外に自分では自作の長所ってわかんないものだよ。
*"諫山せんせいに聞いてみればいいよ"
作品をどう感じるかは読み手の自由、と思うのだが、例えば「ブラックジャックの守銭奴な所が好き」とか言われたら、ムムッと思ってしまうな
この増田の言う意味での『センス』を、特に創作するでも無い一介の読者・観客が持ってても、誰かが楽しんだ作品に難癖付けるだけの性格が悪く生産性の無い人にしかならんわけで、そんなもん持ってない方が良くない?
よくわからんけど、増田にとっての「正解」はどっちなんだろう。増田は原作者側の人なのだろうか
それは映画監督の領分だろ。オレは原作付き作品の場合、それが原作に厳密に忠実なものであっても、映像化作品は監督・脚本家のものと考えるので。(漫画原作だと)彼らに作家性を一切認めない勢もいるようだが。
原作者と読者で明確なズレが出た事例として「食戟のソーマ」最終章がある。主人公のソーマがヒロインのえりなに美味いと言わせる、という1巻あたりで出た話の回収のためにあるのだが、読者的にはクソつまらんという
作者のメインテーマのシーンが無視されることなんて普通だよ
そもそも作者もそこまで考えてない。作者が一番詳しいって前提が間違ってる。尾田栄一郎でさえ自分で描いた設定を忘れてる
士郎正宗かな、スティーブン・キングかな
「作品は原則作者のもの」と考えない作者もいるはず。作品がどう受容されるかを作者はコントロールできない。作品として発表した時点で、作者も一読者に過ぎなくなる。正解探しでない鑑賞スタイルもある。
今回はちょっと外れそうだけど、こうした問いに惑う話を聞くたび「無記」という概念のありがたさを感じる。哲学も仏教もそう好きではないけど…
作品は原則作者のもの ← これが間違いなんだよな。作品を発表したら作者も一読者に過ぎない。
個人として感想を述べるのは自由だが「原作者も不満なはずだ!」とか言い出したらただのクズなので自ら腹切って人生に終止符を打って天に召されてください。
原作者からするとアニメスタッフに熱心なファンであることを伝えられたりして、それだと出来がどうであれ愛しい存在になってもおかしくないよなあと思う(からくりサーカスのことを思いながら)