「多様性を受け入れられない人を受け入れるのも多様性」< 「受け入れる」の認識が違うんですよ。「存在していること自体が許せない」のと「積極的には付き合いたくない」は、次元が全く異なるじゃないですか。
0か1かでしか考えられない人間同士が話をすると、すぐに成り立たなくなる。定義やあるべきバランスを聞く耳持たないのならば、やっていることはあるべき姿の議論でなく自分の欲望の押し通しだろう。
多様性を受け入れられない人=最近やたらとゴキブリのように増殖している、日本ファースト外人〇ね!ガス室〇け!と、川口の場所も知らないのに騒いでいる働いてもいない連中のことですね。わかります。
「受け入れられない」人も「他者の多様性に干渉しない限りは」多様性として受け入れられるべき。ただ行動の制限が市民権の侵害になる以上両立は困難。
寛容のパラドックスだから、解決策は不寛容には不寛容で良い。多様性を受け入れられないなら自分が受け入れられないのも覚悟してんだろうからなんの問題もないし因果応報になってる。
そうだよ。自分は人としての文化的成熟を是とするから多様性を受け入れない人・成熟を拒否する人を多様性として受け入れるし、他者に強要はしてない。こういう「言ってやったぜ」みたいなのも微笑ましく受け入れる。
sigotojouhouとかはちょっと受け入れられないなとは思う
少なくとも、黒人が隣の席に乗ってきたら、席を離れるような人を「ヤクザを超える極悪人」のように扱うのは間違ってるかな。
おきれいなこと言って他人には押し付けるのに、自分はその範囲に入らないってお左翼様のいつものやつじゃん。自分には適用されない(と勘違いして)他人を叩くための便利な棍棒でしかないんだよね。
寛容のパラドクスですわね
いいえ 認める認めないは多様性ではありません そこが間違ってるからループするんです
日本でよく問題になるのはマイノリティを社会で平等に扱うために制度を変更しようとすると、途端に反発が起きる。これは無関心なだけで受容じゃないと国際的には思われるってことだね。
"見たくない表現に触れない権利" https://posfie.com/@atochi_kanri/p/fG2KcS9 って初めて聞いた時はビビった。あと都民ファーストも驚いた(金持ってる東京でこれを言うのか?と)
受け入れる受け入れらないのラインを探るのは永遠に終わらないので、まずは「自分とは異なる人たちは世の中に存在していて、その状態は普通のことだ」というところから始めようよ。。。
仏教とかはここら辺強そうだけどアブラハム系だとどんな理屈になるんだろう?
多様性ってのは全員にとって不快なものが少しずつある世界と聞いたことがある。特定の属性に不快を押し込めるのではなく、不快を全体でシェアしようということ。シェアされたくない人がいると多様性を維持できない。
「もし俺が多様性を受け入れられない人を認めたくない人を受け入れたとしたら、絶対に認められてたと思うか?」
だからエリナおばあちゃんが言ってたでしょう。「(差別する人の)主義主張は個人の自由。しかし、公然と友人を侮辱するのは許さん!」って。
多様性を受け入れろって奴ほど、自分たち以外の党派性や思想への許容度が著しく低く、攻撃的で排他的な全体主義者だからな。前提条件すら間違っているから話が噛み合うわけがないし、拒否感を出されるのは当然。
ここで四の五の言う人は毎度毎度「正しさを選別する側」としてやたら尊大だからまぁ一般的に支持されないだろう
「多様性を受け入れられない人」がその心情に基づいて行動を起こすと必然的に他者への攻撃・排除となる。自分が認めていない論理で自己の保身を図ろうというのはフリーライドとかハックの類でしかない
抑圧者ムーブかましてるかどうかで、世間の受け取り方が変わってくるので皆んな気をつけような
寛容のパラドックス。 / 現実の話で言うなら、パレスチナ国家を認めないイスラエルを国際社会が受け入れないのは多様性からして問題だ!なんてほざいても、アメリカ以外はお前イカれてるのか?と反応される訳で。
多様性の実現には適度な無関心と他者の尊重が肝要だと思うが、何にでもいっちょかみできて叩き合いで承認欲求を満たせる現代のSNSの設計と相性が悪い。
道徳とか理念についての議論だったらいろんな回答がありうるけど、制度設計の観点から語るのであれば一切受容しない人間の存在も前提としなければ成立しないと思う
「寛容のパラドックス」哲学者カール・ポパーが1945年『開かれた社会とその敵』で発表した概念。簡単な説明→無制限の寛容は寛容の消失を導く、ゆえに寛容な社会を維持するには不寛容には不寛容であらねばならない
スローガンに拘らないで、共存(≠単一化)等に改めれば良いのに。/ネーミングの妥当性を疑うべき(PG脳)
京都大学大学院准教授「国籍や国境をなくすグローバルな制度の統合をハーモナイゼーション(調和)と呼んでいるが、事実上の画一化でしかなく結果的に世界全体での多様性が失われている」https://youtu.be/1DErfYEACvY?t=1530
「排外主義者を排除せよ」はおかしいことは一目瞭然。排外主義的意見を無視できるような環境を作る、排外主義的意見を変えられるか試みる、融和点を探す、などが多様性だろう。多様性はコスト高くクソマッチョなのだ
差別する側が差別されて文句を言うことがそもそもおかしい。いじめっこを仲間外れにするのはいじめだから止めましょう、いじめっこのいじめも受け入れましょう、が通らないのと同じ。多様性は選択肢じゃなくて前提。
多様性って侵略者に都合の良い美辞麗句だな。その土地にはその土地のやり方がある。宣教師のように入り込んで上から目線で押し付けるのは愚かなこと。
未だに「寛容のパラドックス」なんて持ち出してるのは思考が残念。多様性は手段であって目的ではない。多様性が必要なのは「価値観の自由競争市場」という手段。その「競争」の結果まで多様である必要はない。
多様性って「まったく共感できない相手をどうにか理解する努力」では。まあ、場合によっては調子に乗った馬鹿を全肯定し、更に調子づかせることになるから、多様性の提示はしっぺ返し戦略とセットでやるべき。
ならないね。「『人権を侵害する権利』も人権として認めよ」というのと同じ。それは認められない。
ヘイトや差別は多様性に含まれない。許容する必要はない
拒否権がなく全体が受け入れねばならない思想であるならそれは言葉を変えたファシズムでしかない。
"不寛容には不寛容でなくてはならないが、(中略)多様性を否定する人を否定してはいけないとなる"パラドックス。人の感情やそれぞれの正義には定義と限界があるんで、押し付けや無理強いが一番の悪やと思います。
不寛容に不寛容って、自分たちの考え方と違う連中には不寛容って感じで、お前らよくそれで寛容を自認していられるなと思う
実際にはループはおきない。英国のように性犯罪グループが組織化しても、政府も警察も多様性の側につき民を犠牲にする。
寛容のパラドックス
寛容のパラドックスの不寛容認定が恣意的すぎて全く当てにならないのが現状なんだよね。それを自覚できていないリベラルが錦の御旗にしてるけど
自分達こそ正しく違う考えなど一切受け入れないという狂信的な人間ほど多様性を持ち出すけど、所詮お為ごかしだってバレちゃってますからね。
「多様性」「受け入れる」「認める」の指してる範囲が全然違うからこのあたりの議論は無限に拡散する。
多様性を受け入れられない人が存在するの認めた上で意見は飲み込まないってのが「多様性を認める集団」じゃないんか。多様性NG集団はそっちでやりなよ/ならポリコレ潰せよwは、あなたはそうすればいいし、私は知らん
「多様性を受け入れられない」と思っているだけなら許容できる。ただそれを表明する時、差別的な表現になるなら、その振る舞いは許容できない。
個人と個人の関係なら「私はいい」「私は嫌」で済むが、それを社会に敷衍すると、たとえば無限のカテゴリの公衆便所が必要になる。全員気持ちが満足できる仕組みなどつくれない、ということこそが第一歩なんじゃね?
行き着く先は寛容ではなく無関心。多様性により細分化が過度に進み、相互理解や共感が失われ、緩やかな分断が起きているとしたら…。人類は滅亡に向かってるんだろうね。
うんうん、教条に照らして瑕疵を審査するような人間にとっての多様性という言葉の単純化って、万能の排斥ツールになるよね、1ミリでもそれに背くと排外主義者め黙れ!的な。白か黒かしかない中学生理論。
多様性という言葉が一般的になって逆に生きづらい世の中になっている気がする。
公共の福祉って判断基準はあるけど難しい問題だよね。
“他者に迷惑をかけてまでそれを認めろ、は多様性じゃなくて侵略と言う”
もともと生物かなんかの学問上の言葉でしょ?しかも多様であればあるほど良いってものでもなかったでしょ?何とか指数っつって。シャロンとかシャノンとか。ただの言葉を絶対正義みたいな前提にするなよバカども。
多様性を認められない人は多様性の庇護を得られない。アウトローとして放逐される。/多様性という概念はそんなに生優しいものではない。
人権が守られる社会を作るためには、他者の人権を侵害する者に対しては刑罰という形で人権を制限する必要があるからな。
寛容のパラドックス自体は道理だから、次は誰が寛容と不寛容を判断するのかの議論だね。正義たるブクマカ諸君には自明のことなのだろうが、浅学蒙昧な我らにはむつかしいので、ぜひ講釈していただきたいものだ。
寛容のパラドクスを説く人は自分を不寛容側におく説明はせず自己認識も寛容側なんだろうけど、その人たちの普段の言動は極端な不寛容側の場合が多すぎるのよ。
目指す方向が違うのに共存を強要すればどこかでトレードオフなり許容できないところが出てくるよ。例えば宗教なんて戦争になるほどなんだから。戦争するのも多様性とは言いたくない。だから多様性は難しい。
「寛容のパラドックス」は、自分たちが絶対の正義だと信じることができた幸せな時代の産物だと思う。
これは誤解で、米国のダイバーシティっていうのは「色んな属性が混ざってる状態を目指す」であって、意見の多様性は認めていないんだよね。わかるかな、新しい宗教なのこれ。「差別」も向こうでは単方向なの。
「多用な意見集まる」「様々な意見集まる」ってもうタイトルの常套句なのか。以前からなのか知らないけど。
こういう人達は今まで何度も寛容のパラドックスの話をされているだろうに、それでもまた同じ話をするのは、理解できないのか、それとも受け入れたら敗北を認めることになるからリセットしてニューゲームしてるのか
元春風ちゃんで反差別言ってたここの人間が些事をあげつらい自分達に逆らった罪でガキを粘着叩きしてて「差別主義者認定」って「朝鮮人認定」ぐらいの恣意的な軽さと露呈した二枚舌差別大好きピーポーの皆さ〜ん?
寛容のパラドックスは不寛容な人が「寛容のパラドックスを持ち出す」不寛容な人を排除して良い
俺は自由だからお前を縛りつけても俺の自由みたいな論理だな
不寛容には徹底した不寛容を。基本中の基本ですよ。
内心の自由はさておき、多様性を認めないが故にマイノリティに攻撃をするような考えは認めなくていいだろ。それは加害行為を容認しないのは当然という話で、多様性とは話しが変わる。
そういうこと言ってるから「じゃあ多様性なんてクソ喰らえだ」っていう連中が出てくるのよ
みんなと違うから、は排斥の理由にならない。 もちろんそれ以外の理由はあり得る。
初手で終わっててループになりようがない
「多様性を受け入れる入れないとかどうでもいいから、法律守ってくれ」でしかない。多様性を担保する正義もまた政治であるとニーチェなら言いそうだし
寛容のパラドックスを認めたくない人を受け入れるのだって多様性でしょ!
今の日本など「先進国」にとっては「イスラム復興運動」そのものが最大で、すでに思想的、社会的困難を極める「多様性を受け入れられない人を認めたくない人を受け入れるのだって多様性でしょ」問題。逃げないように
多様性の対になるものって受け入れられない人というより旧来のままでいいと思っている人たちでしょ。さらにいうと多様性を主張している人たちのいう多様性はいわゆる統一された多様性なのにこれを認めようとしない。
差別主義者認定できれば問答無用で排除してよいを逆手に取ってえせ同和行為。
“そうはならない”が多勢のようだけど、受け入れるところまではしなければならないとおもってる。攻撃性に転換する前に察知して対処する、ことが理想。難しいが。
この手の議論、先制攻撃仕掛けた方が圧倒的に有利になるからイチャモンをつける被害者ポジ確保に走るのが最優先になるのほんま不毛だと思う。
多様性を受け入れたくないなら自分の価値観だって他者に否定される覚悟をしなきゃいけないのに、なんで多様性って相手の価値観に都合よく逃げ込むの?相手もダブスタだってんなら、てめぇらも十分ダブスタだよ
前提として従来多様性=少数派が受け入れられてこなかったというのがあって、多様性を受け入れられない人=多数派はすでに受け入れられてる側だから、変な要求なんだよな
インターネットで寛容のパラドックス持ち出す人、大抵自称寛容なだけの不寛容な気がしてならない。人権は尊重するが黒人はそもそも人間ではないみたいな。
多様性は多様性の存在を認めることが重要であって多様性を許容したり賛同したりするかどうかは別だと思っている。誰が何を否定しようが多様性は存在している。
認めたくない人も受け入れてるからループしてないよ。ただ認めたくない人は多様ではなく一様っていうだけで
自由を認めない自由などない
まあ、ぶっちゃけると皆の心にあるのは多神教の日本が一神教徒を受け入れられるかという命題。50年もすれば、世界は宗教離れして、一神教教徒も軟化するだろうとは思うが、まさに今の問題だから難しい
世界史から日本の特異性はキリスト教とは無関係なことだけど仏教の宗派でも浄土宗に近いものがあるんだけどな。
多様性を受け入れられない人を多様性として受け入れる寛容さは、多様性側にしかないのだ…
思想信条の自由は憲法19条で保障されているのだから。個人が受け入れても受け入れなくてもいいよ。それも思想信条の自由。国家や社会が思想信条の自由を損なってはいけないだけ。
身近にいる自己主張の強い頑固なジジイ 周りからどう扱われてるか、周りからどう見られるか 分かった上で、偏屈な主張をすればいいじゃん 嫌われるのも、距離を置かれるのも分かっててやるなら、好きにすればとしか
多様性(※ただし私が認めたものに限る。保守思想、男性、資産家、権力者は排除するべき)だからな。保守側の主張はシンプルで、「犯罪者が日本人なら罰しろ。外国人なら居住も許すな」ってだけだよ。
そもそも「多様性を受け入れない」ってどういう状態?「多様性なんかない!」なのか「多様性はあるけど自分に不都合なことは拒否」なのか。
大事なのは多様性よりも差別しないことと他人の自由を尊重すること。多様性は内心認めなくても別に構わないが、多様性を認めないことを差別の理由にするのがダメ
「寛容」とか「受け入れる」にグラデーションありそう。「迷惑をかける」の強度とか
こういうのはAIと対話したらいい
多様性多様性と言う人ほど、人の意見や表現にとやかく言って潰しにかかってる印象
何事にも例外があるのよって話。他者の人権を阻害するようなポリシーは多様性からは排除される
多様性至上主義は痛い妄想でしかない。合う合わない存在がいるという現実から目を逸らしているか見識が狭いだけ。例えばイスラム原理主義と日本人が狭い同じ土地で仲良くできるわけないのは分かるでしょ
選択的夫婦別姓論者「同姓でもいいよ」、夫婦同姓論者「別姓は認めない」、選択的夫婦別姓論者「では戦争だ」。
「公共の福祉」っていう概念の話なのでは
元々この言説は、お前らは多様性を謳いながら気に入らないものを排除してる(だから普遍の正義でもなんでもない)の意味なので、ループは無意味。「寛容のパラドックス!」(ドヤァ)とか、よく恥ずかしくないな。
不寛容への不寛容💢ってやってる連中の多くがTERFや男性排斥に親和的・同調的な顔ぶれだったりするので、多様性ってのはつまり「俺にとって都合の悪く無い属性に限定した多様性」の事なんですよ。
残念ながら「不寛容には不寛容(多様性を受け入れられない人間に一切の人権はない」こそ対テロ戦争のロジックでありイスラエルは同様の理屈でパレスチナ人を皆殺し(女子ども含め)にしてるので(何ら解決には繋がらない
受け入れるのではなく受け止めるんだよなあ。「いる、ある」を否定しても消えてなくなることはないので。そのうえで受容でも拒絶でも好きにすればいい。
多様性って難しいにゃ〜。みんな違ってみんな良いのに、仲間外れは寂しいにゃ。ボクはみんなと仲良くしたいから、猫パンチは最後の手段にゃ!平和が一番にゃ!
要するに「例外のない多様性は実現不可能」って話だよね。で、なにを例外とするの?って話をせずに「多様性は素晴らしい!」ってのは欺瞞。てかこれ「反差別!(でも何が差別かはウヤムヤ)」ってのと同じだな。
そんなわけないじゃん、で終わる話。これは散々議論になってたやつで寛容と不寛容のお話でよく見かける
ナチスやイスラエルで考えるとわかりやすい。彼らを多様性として受け入れると多様性が失われる。多様性を失わせようとする多様性は受け入れられない。
俺は多様性尊重のメッセージの多くが人種宗教性差などの特定領域に偏向していることに無自覚なことに疑念を感じてる。この問題に関してちゃんと考えてる人はたくさんいるのだろうけどSNSでは確認できない。
だとすれば、女性が自由に服装を選べないイスラム教徒や、自民族を愛する民族主義の少数者に寛容であることは多様性と矛盾するのでは? マイノリティにも多様性を強制するべきでは?
小学生の屁理屈。言うまでもなくあらゆる社会は一定の価値観の上に築かれており、自由主義国家においても全てが許容されるわけではない。例えば殺人の自由や差別の自由は多様性の枠内に入らない。
「多様がよい」という考えと、「多様ではない方が良い」という考えは対立しているので、内包できないのは当たり前だ。
「受け入れない事を受け入れない」で止まるからおかしくなるわけで「受け入れないけど認める」ことが多様性なのでは。認めるとは許すということではなく認識すること
「不寛容には不寛容」とか言って気に食わない相手を排除できるなら、そんなもんは多様性でも何でも無いだろ。共産国が「我国には富農も銀行家もいない(皆殺し)」ってほざいてたのと一緒/王党派にも市民権がある
多様性じゃなくて、『すべての人に、基本的人権を!』で良いんだよ。前提が間違っている。
でもなんだかんだ言って罪もない弱者男性を叩くのはセーフ
これは人権の話が大変で、どんなに嫌いで相入れない思想の人にも人権があるのだ。これは重い話。
多様性に関しては、居ても良いってだけにしか思ってもないけどなあ。邪魔する奴は属性関係なく死ね。と思っている。
まぁ、結論出なくても根源を追い求め考え続けるのは良いことだと思うよ。基本的に「他者の肯定」の追求なのだから、自己否定に陥らない限りおおよそ優しい世界につながるはず。「不寛容には不寛容」ではもったいない
不寛容な人を許してたら世界が不寛容になっていくから許してはいけない、というだけで全くパラドックスじゃないんだよな。暴力を止めるための暴力(=警察)がアリなのと同じ。
多様性には弱者ケア必須。純生物学的には多様性を維持するために外来種を排除が必要だったりする。多様性の難しいところは弱者は環境の変化に弱く無秩序な多様性に耐性がない。ケアが無いと物理的に耐えられない。
パラドックスもどきなのね。ちゃんと作り込むには論理学の素養が必要なテーマだ
他人に危害を加えない、他人の権利を侵害しない、は当然のことと思うが、それでも受け入れられないのはおかしいという主張?
表現規制派のバカフェミは社会から迫害されるべきってことだな
不寛容な考えを「価値観のアップデート」と言う名で殴る人が多いんだよな。そのアップデート正しい前提なの?
まぁこういうのは、寛容のパラドクスを持ち出すまでもなく「はいはい厨二かよ、お前はひろゆきか笑よププ」でいいような気もしないでもない昨今。
不寛容には不寛容でも良いと思う。寛容である事は対立の解決に役に立たないので最終的には戦争しかないということだ。
多様性主義者がほとんどおらず根付いていないのに「多様性はいい事」と思いこんでるのが上手くいかない原因。「世の中が自分が不快なもの嫌いなもので溢れている」状態を見て「いい世界だ」と言えるのが多様性主義者
多様性とは色で言うなら「世の中には無数の色がある」という状態を指し「多様性を認める」とはその事実を認めると言う事。その否定である「世の中には色は存在しない」はそもそも多様性ではないので詭弁でしかない
“多様性は"許容"であって"賛同"ではないのよ”→"許容"じゃなくて"放置"と思う。わからないもの、知らないもの、許せる許せないで「勝手に」決めないで、触らない、放置するという感じ。知らんくせにいっちょかみすん
今日もまた「ポパーはそんなこと言ってない」で終わってしまう一群の人気コメ達であった。
いわゆる「寛容のパラドックス」に引っ掛かる人は「目的」と「手段」を混同している。多様性を広める「目的」をもって行動している人が、そのために多様性を認めない行動を批判する「手段」を取る事は矛盾してない。
嫌ってもいいけど意地悪するな、に尽きると思うが、どこかで受けたヘイトを他に叩きつけると叩きつけられた人はまた恨み、という無限ループもあるでな
同様の例として、戦う民主主義のほうがわかりやすい。
自分を受け入れない世界は受け入れられない、という当たり前の話に置き換えると、不寛容には不寛容であれは間違いとわかる。どちらが先かわからないから。世間が特定の人たちを受け入れないための理由付けに過ぎない
多様性というのは「俺は嫌いだけど存在は認めるよ。嫌いだから関わらないけど」ということであって、「嫌いでも関わって仲良くなれ」は多様性ではなく価値観の押し付け
自由主義国家というフレームを維持する場合、不寛容な思想も自由に退出できるなら不寛容なコミュニティすらも許されるが他人への不寛容な行為はリバタリアンにも止められる。行為は特定コミュニティ内でのみ存しえる
人は繋がりが増えてくると、近い距離の人の都合がより見えてくるから、結果多様性が下がりやすい。ずっと多様性を主張している人は、その正しさに執着するしかない狭量な視点しかないため、正しいはずなのに孤独
別に受け入れなくていいし理解できなくていいよ。「全然わからないけどそういう人もいるのね」でいいの。"不快""理解できない"を理由に存在を認めない、否定する、追い出す、危害を加える、行為は否定していい。
拝外主義で言うと、「外国人は出ていけ。異論は認めない」は不寛容だけど、「善良な日本人の幸福を優先すべき。異論があるのは分かる」は寛容でしょ。結局、対話可能性の話でしかない。拝外主義は認めないも不寛容よ
「多様性を受け入れる」とはどういう状態を指しているのか、認識が合っているのだろうか。
「多様性を認める」という立場に立つなら、「多様性を認めない」という立場は認められない。言葉の定義を取り違える誤り(偽の同一視)。
解決済みパラドックスを持ち出す側は周回遅れにもほどがあるが、それはそれとしてこの「不寛容の正当化」を正しく運用するのは十分に賢く抑制的な人間でない限り難しく、容易にリベラル風味権威主義になってしまう。
所詮はどのような思想をどの程度配分するゲームでしかない、これが100%になるのが良くない
実際はグラデーションがあるよね。「犯罪を多様性とする」は受け入れられないし、「マイノリティを迫害する人」も困る。「多様性を嫌っているけど何もしない」は受け入れ可とか。
多様性とかいうぼんやりした言葉で誤魔化してるだけで、「社会的に」害のあるものを拒否するのは社会として正常な反応。多様性の中にも社会として受け入れてはいけない物もあれば、受け入れるべき物もあるというだけ
そもそもが多様なので、受け入れるも入れないもないよ。目を瞑れば目の前のものが消えてなくなるという妄言にとりあう必要はなくて、でもそう主張する自由はあるということ。
「俺は人種差別と黒人が大嫌いだ」みたいな
別に個人が全てを受け入れる必要も無いとは思う。私には理解できないけど他の誰かは理解してくれるだろう。ただし理解できないからって排除しようとするのはダメ。
指差して嫌いって言って許されると思ってるから差別野郎やキチガイフェミが出てくるんだろ。
「多様性を受け入れられない」と内心で思うのは自由(個人の多様性を尊重する)、でもそれを表現したり行動したりすることは許さない(社会の多様性を守る)。どこにも矛盾はない。
差別するニンゲンを差別するなってのと同じやつ
在特会のヘイトスピーチは表現の自由ではないと裁判で結果がでてるだろ。自由権が誰かの人権を侵害するとき公共の福祉で自由権は制限される。パラドックスでもなんでもなく日本国憲法だよ。
何周遅れのバカ議論してんの?
「〇〇性」という曖昧なのに意味が決まっていそうな用語でする言葉遊び
多様性の権化とも言われるローマ帝国が、宗教までも受け入れて結局内部崩壊してるワケで、多くの人が思ってるより多様性ってそんなにいいものじゃない。多様性も寛容もバランスが大事ってダケ。
「不寛容に対しては不寛容」を盾に、「先に相手を不寛容認定したほうが勝ち」のゲームが始まるんですね
馬鹿に馬鹿と言っても馬鹿だからわかんないみたいなこと?
結局どうしたいの?何か困ってることがあるの?議論が深まっ太郎がしたいなら帰らせてもらうね。
不寛容には不寛容でいいのだが、不寛容を社会的に抹殺しろまで行く現代は一筋縄ではいかない。この程度の疑いすら持たず言い切る人だらけで空恐ろしくなるな。
多様性って言っても、「戦争して~!人殺して~!」とか言う奴は受け入れられないんだよな
大学時代 後輩女子が それは嫌だと言ったら 同級生の男が嫌では理由にならないと言ったら 嫌いなのも正当な理由だと反論して押し切ったので スゲーと思った思いで
じゃあはてブ的にはイスラム教徒は排除ということでよろしいね?
受け入れたくない人は受け入れなければ良いだけで、それで不利益被っても本人の責任。でも多様性を叫ぶ人ほど自分の価値判断基準を最善と勘違いしているので、それを他人に押し付けてくるから争いが起きる。
寛容のパラドクス、もはやほとんどの場合寛容さの基準など無く「我々は寛容!お前らは不寛容!つまり寛容のパラドクス!」って言って都合よく不寛容を正当化する為だけにしか使われてないので人類には早過ぎた概念。
「多様性を受け入れられない」のは個人的な方針としてアリだが、それを理由に社会的な不正義を行ったり相手に社会的な不利益をもたらすことは許容しない。その逆も同じ。その線引きはしないと
FAQ的な誤謬。しかし、余裕のない不寛容を嘲笑うのはグロい。余裕があるのに不寛容なのもグロい。
多様性を謳う人達が排除しているのは「多様性を受け入れられない人」じゃなくて、「本来ならその多様性として受け入れられるべき人」なんだよ。例えば、創作物で性的要求を解消する人たちとか
権利を無制限だと思い込む人っているよね、人権だって厳密に定義されてて制限だらけなんだけど。例えば著作権なんて砂上の楼閣というか極めて曖昧で暫定的なもんなんだよ「実体」がないから。
そう、昔からそんなの単なる言葉遊びって何度も議論されてる。
ヘイトスピーチや名誉毀損は言論の自由か、につながるところはあって、多様性として認めてはならない多様性もあるとは思う
気に入らない人を任意に「不寛容」認定して攻撃する場面を沢山見てきたので「不寛容のパラドックス」はダメな運用だと思ってる。
twitter で盛り上がるような話題はすべて何年も前にとっくにすでに解決済みってことか
「から揚げの大皿にレモンを全体にかけるな!小皿にとって好きな奴は自分でかけろ!」が多様性だと思う。勝手に自分の好みを全体に押し付けるなと
どちらも受け入れられない人となり、多様性主張派の敗北となってしまう…
解決なんかしてないでしょ。いろんな学者が自説をとなえてるだけで。
杉田水脈はインターネットが生み出した糞だと思ってますが彼女は生きていて欲しいとは思いますよ、多様性なので。それを凌ぐ憎悪を向けられたって。
少し分かる。別にLGBTの人達とか自分の人生なんだから好きにしなよと思うし、同性婚とかも法的に認めてやれよとも思うが、俺自身は男は男らしくて女守れる人の方がカッコいいと思ってるので、それは差別じゃないだろ
多様性を受け入れない人が何で多様性を肯定するコミュニティに参加したがるのか。
多様性を受け入れられない、受け入れるべきだ、みたいな話をすることってなくない?普通は特定の人種嗜好性考え方を挙げた上で是非を議論するし、そんなフワッとした話は学級会くらいでしかしないよ。
多様性を寛容ではなく権利として行使してる
先人の論考を無視して気の利いた風な事言うもんじゃないな、とは思うが、こういう「素朴な疑問」を馬鹿にせずに心折れることなく応答することもまた大事なのだと思う。心の麻疹には大体みんなかかるんだから
自分の気に入らない属性の人々を不寛容集団とレッテル付けして排除しようとするのもよく見る
カール・ポパーが「寛容のパラドックス」の言い出しっぺとは知らなんだ。我々が悩むことなんてだいたいが先人の誰かが考えたことがあることであって、我々は謙虚にそれを踏み台にして進まないとよろしくないよねえ
左翼の自己認識はなぜか「寛容」のようなんだけど側から見ると不寛容なんだよな
哲学者カールポパー「寛容のパラドクス」 と呼ぶ。「無制限の寛容は、寛容そのものを破壊する不寛容に寛容であることによって、やがて消滅してしまう」よって「寛容を守るためには、不寛容には限界を設けてよい」
「不寛容には不寛容で良い」は解決策にならんのよ。なぜなら何を不寛容と判定するかが人によって全く違うから。俺からするとすぐアニメ風絵を排除しようとするフェミニストは不寛容だが、woke視点では違うんでしょ?
異質な存在の排除を指向するって、1.相手との対話を拒絶する立場 2.状況に応じて自分も排除される側になる可能性を自ら組み込んでいる これで立場の違う側のルールで対話するって仮定を成立させる理屈が思いつかない
ループはしない、矛盾は生じるように見える
戦闘的民主主義 https://w.wiki/4vGi
本物の左翼やリベラルは、その辺りは理解しとるんよ。理解しとるからこそ、アホな信者を洗脳して、不寛容な教義に閉じ込めちゃうねん。囲い込みやね。ところが洗脳済みのアホが世代交代でトップになったりすんねん。
『みんな多様性持ってていいなア!!じゃあ多様性バトルしようぜ!多様性バトル!!』(どこまでが受け入れられず排除される迷惑者で、どこまでが寛容される多様性かを競うバトル)
多様性を受け入れられない人も受け入れるけれど、ルールを逸脱したら取り締まるってことでいいのでは……。
多様性の線引きは簡単だよ。マジで簡単。「嫌う・嫌悪する」はセーフ。どんだけ悪く言ってもいい。「禁止しようとする・滅ぼす」これは言った側がやり返されても文句言えないからやるべきではない。こんだけだ
これが面白いと思えるの、せいぜい高校生までに卒業しといてほしい。
「不寛容には不寛容でなくてはならない」って話なら、今の左翼やフェミニストは不寛容のカタマリみたいな連中なんで、不寛容でいいってことですよね。
ポパーは「不寛容な態度はただちに禁止するべきではない」と言ってる「理性的に説得すべき」と。禁止してしまったら禁止され返す/「好き嫌い快不快」OKで「宗教伝統の不寛容」NGだと倫理は資本主義に飲み込まれる
トップブコメアホかよ、不寛容には不寛容で良いとか言ってる不寛容な人には不寛容で良いってことになっちゃうだろ。そもそも不寛容とか言う抽象的な言葉を自分と意見の違う人が悪いかのように使ってるのが問題
不寛容には不寛容でいいという意見があるみたいだけど、自分の意見を受け入れない人には不寛容でいいってこと?
言ってもない事、内心がわからない事もこいつはこう思ってこう言ってるんだと人物にレッテル貼って決めつけて、差別だのミソジニーだの糾弾するのは魔女裁判レベルの不寛容なんだけど、その自覚を持てない人が多い。
納税金額は経費にならない、に似ている。どこかで断ち切らないとループになるから。
多様性を認めないということは、この前のスウォッチの広告みたいに差別が横行するようになるんだよね。強者の論理が絶対的な正義になるってこと。多様性を認めない人はその辺どう思ってるんだろ
目指すところはすべての思考の人が共存できる世界なのでは
唐突だけどコミケって多様性が実現できた場なんだろうね。
ポパーの名を見たワイ、安心して眠る
多様性ったって、例えば天性のシリアルキラーを受け入れられる社会なんて、どうやっても成立しないでしょ?そりゃ、自由で寛容な社会が生んだ一種の倒錯的思考だよ。一定の規範と禁忌がないと人間社会は成立しない
認めることと受け入れることと肯定することを一緒くたにしてる人が多い気がするけど全然違うんよな
例えばLGBTを認めないというのは多様性ではない、それはLGBTに対する意見であってLGBTの多様性と関係ないからだ。 リベラルの他に日和見や右翼が居るのは多様性か?これは多様性である。 単なる意見と多様性は別概念。
塀で囲った刑務所だってNIMBY案件。塀がない刑務所を受け入れる人もいるだろうし塀があれば大丈夫な人もいる。塀の中の人はどう思うだろうか。
「皆で嫌な思いしよう」が多様性だと思っているのでそれで良いのでは
全人類が他人の性別や国籍、性的指向、容姿、障害の有無に興味がなくなるのが多様性だよ。相手が何者でもお前の人生に関係はないのだ。
ある種の伝統的な価値観に対して保守的な人々、分かりやすい例だとイスラム教徒とかは受け入れないってことになるので、こういう単純化は危険だと考える
相互主義の一言で終わる。結果的に無限の多様性ではなくなるけど、そんなのないからな
日本人ファースト支持の人達を言ってる?それこそ意固地の屁理屈だな。
合成の誤謬と同じで範囲、視野、スコープが違うため比較にならないが言葉が同じなのでまるで同じ基準に沿った変化に見せかけてるだけ。昆虫が巨大化しても想定値の荷物は引けない。
GPLの「不寛容に対する不寛容」と同じ論理が答えになる。多様性を受け入れられない人は多様性社会に受け入れられないとのオチが付く
「あるものをない」という存在の否定は多様性ではなくて、単なる事実誤認。「あるけど好きじゃない」なら交わらないよう共存はできる。社会の豊かさは、共存するための器の大きさ(貧しい社会は器が狭い)
〇〇という立場で私が生きるのをそっとしておいて欲しい(あなたの立場は関知しない)というのが多様性であって、私は〇〇だからみんな〇〇でないと不安だと思ってる人が多様性問題でゴネてる人だと思ってる
「寛容のパラドックス」は机上の空論で何の意味もない。他者に不寛容な人間が自分を正当化するために持ち出してくるバカの論理
不寛容に対して寛容になるのは不寛容。それを寛容と呼ぶのは話のすり替え。寛容な人は不寛容な人が同じ空間にいたからといってただちに抹⚪︎はしないかもだけど、単に我慢してるだけでウェルカムではないよね
他人を攻撃するための武器として「多様性」を用いるからループするのでは
間違ってるよねと思ったら一般にそう言う論があるのか
寛容のパラドックスって考え方があるからセーフっていうのはどうかな……。「どーも哲学者の○○です。今日はこんな思考を紹介します」が延々と続いたらなんでもありになりそう。人殺しの顔をしろ案件では
マイノリティの不利益を無くしていくのが多様性を大切にするということだから、不寛容な人たちを保護する話ではない
見た目で判断するなとは言うが、「この人とは仲良くしない方がいいな」というのはほぼ見た目で分かる。多様性より前に自分の直感を信じてるよ。
多様性を受け入れられないってどういう状態?雪が降ってるのに雪は存在しない!空から降るのは雨だけだ!って言い張るとか?
賛成の反対なのだ。
嫌いなものは嫌いと 言える気持ち抱きしめてたい🎵(ただ強要や扇動はダメ)
多様性は集合の名前なのでそれを知ってか傾向をもってか行動の基準にしてか、責任の所在等は場面で有り様は変わるし人が選択できる選択肢は一つなので多様の名のもとにある複数の選択に準えるのは普通にいちゃもん。
いまの多様性を追求していくとみな一様にリベラルな国家になっていって、国家レベルの多様性は間違いなく失われていく。
オレの考えていることは大体、既に誰かが考えているハズ
不寛容な人は寛容に触れたら改心するのだろうか。それとも利益だけ受け取って不寛容・排除を貫くのだろうか
私はあなたを受け入れられないという意見と、あなたが受け入れられるなんておかしいと喧伝することの違いと、受け入れるべきという理想と、見て見ぬふりをする余白と。
多様性などない別の不寛容がきただけだ
多様性のために外国人を受け入れた結果、国ごとの多様性がなくなる。
「受け入れる」ってそもそもなによ
はてブで信頼できる数少ない本物のリベラルの人のコメント待ち
利でなく正義で以って他者を動かそうとするなら、まず自身がその正義を十二分に達成してからにしてほしい。
争ってこそ多様性が保たれる。結論が出ない元記事やブコメこそが寛容と不寛容の何たるかを示す多様性。
トップブコメの奴ら、なら、言論や表現の自由を認めない奴らは、言論や表現の自由で守るべきでないので、規制派やポリコレは全て規制・言論弾圧で良いわな
全知全能の神は、全知全能ゆえにドジっ子になれない、というトンチキ話を思い出した
パラドックスではあるが、ループにはなってないよね。
ブコメ。予想通り「寛容のパラドックス」の話になってるが、誰がどういう基準をもって寛容と不寛容を分けるというのだろうか?/「寛容のパラドックス」と「他者危害原則」がごっちゃになってるヒトいないか?
本題からはズレるんたけど、多様性を大事にするなら答えは許容ではなく棲み分けになる。許容は無理。しかしその理想は戦争を始める人が存在する限り実現しない、と確定したのがここ数年。この議論はもう古い。
<多様性>を受け入れられぬ意見は多様性を否定する故,排除は正当。そうでないならむしろ不合理。論点が<自由>なら,其が文字通り徹底された先は,皆が自然権を行使する,万人の万人に対する闘争状態となるやもだが。
いやその主張はさすがに頭悪すぎ 小学生レベル
で、ムスリム女性のヒジャブは外すべき?
湯神君は友達がいないってマンガでまさにそのやりとりあったなあ
めんどくさい。以上。
id:hajakun 「規制派やポリコレは全て規制・言論弾圧で良いわな」良くない。言論には言論で批判するのが筋であって、相手の意見を否定する言論と言論統制は全然別物なんですわ。
「多様性を受け入れない価値観」を受け入れる多様性を求めるなら、逆にその人だって多様性を認めて欲しいと思っているともいえる。多様性を認めないってことは、自分の価値観も他者に合わせて捨てていいってことだよ
自分にない多様性を他人に求めている時点でなんかおかしいと思わないといけないのでは。
こういう詭弁使うやつネットでよく見る
これや非寛容に寛容になれ・差別する人を差別するなという主張をする者は、馬鹿かつ屑であると自慢しているだけ。ハテナもたくさんいるね。ほら、ここでそう主張しているのもいつもの差別主義者だろ?
多様性って全員が我慢して幸せになることだから、我慢できない人がいる時点で崩壊する
多様性の許容は、お互いの根底にある価値観や倫理観が一定以上等しいことが前提。ここが異なると認め合うどころか、会話も成り立たないので共存自体に無理がある
多様性を認めるって言葉がおかしくなる原因だな。多様性とは周りに関心を持たないことだよ。究極、人は人、自分は自分。日本だとここに壁が出来るから多様性っぽく見えないんだろうなあ。
これを不寛容に対して寛容になる必要ないで否定するのは簡単なんだが、「相手の不寛容さを主観的態度で認定するのが多様性のルール」ってことになり、もう多様性という言葉使うのやめたらってなるだけなんだよなあ
寛容や多様性を否定する立場の人間を許容するのは当たり前。多様性を否定する人間であっても、多様性を否定する人間を否定する人間であっても、人を不当に社会から排除しようとする動きは制限されるのも当たり前。。
多様性を認めたくないのはご自由だが、それを口に出すな。終了!
他人を害さない多様性なら受け入れるけど、不法移民や人口侵略、ホルモン注射による去勢、弱者ビジネス、死体遺棄、フェンタニル麻薬、凶悪犯罪の不起訴、密輸、福祉の不正受給に繋がり、国家を崩壊させる狙いも多い
多様性を受け入れられない人を認めるのも多様性!←これは自分がマジョリティ側にいるから言えること。自分がマイノリティになったらどうかっていう想像力の欠如。恥ずかしいよ。
安易に多様性を使いすぎたよね。殴りたくなったり、存在を認めたくないぐらい嫌いな人とも暮らすってことを想像しないと。
「人権は思いやりではない」と同じで、「多様性を認める」ってのは「相手と仲良くする」って意味じゃなく「相手の存在を否定しない」って意味だよ
これ思ってたんよね。寛容のパラドックス知らんかった。不寛容には不寛容。結局一方的な関係じゃなくて、双方向の関係が前提やもんな。
「寛容のパラドックス」初めて知った
不寛容には不寛容を、排除には排除を。ということ自体は正しいんだが、問題は誰もが自身を「寛容な側」だと思ってることなんだよね。
中二病だと思う。どちらを選んでもいいんだよ。さらに言うと、他人が多様性を受けれることを受け入れないことも自由。ただその他人の意思を強制的に変えようとするのが人権侵害。現代では殺人につぐ重罪。
多様性を受け入れない人も認めるのが多様性では、という屁理屈は、多様性を戒律だと思ってる人が言うまぜっ返しである。
「詭弁」だね。
多様性を認めるなら日本の伝統や文化も認めるのが筋だと思うんだけど、それは認めない人たちが多様性を声高に謳ってるんだよな。正直欺瞞に満ちてると思う。
「ひとの自由を制限する自由はない」みたいな。(ただし法に定めのある場合を除く)
多様性という全てを包括してしまえる言葉を都合よく利用しすぎ。受け入れ不可能なものは誰にでも存在するに決まってるじゃん。NGワードにしてくれ。
「寛容のパラドックス」
議論が抽象的すぎる。不寛容であるべきだという意見表明であっても言論表現であるうちはなるべく認められるべき(民主主義の枠組みの中で議論されるべき)だろう。ただ、多数の専横に気を付けないといけない。
ドイツの「戦う民主主義」ってやつだ / この類の「多様性を認めない人」って、自分自身の属性が「多様」の中に含めてもらえてないっていう被害者意識が根底にありそう
迷惑行為や犯罪行為を適切に取り締まれるなら何でも受け入れるよ。多様性を隠れ蓑に良からぬことをする輩がいる限りは慎重になっちゃうかな。
なりません。他人の権利を侵害する権利みたいなもんでしょそれ。
多様性を認めない人が多様性を認めないことを広めようとしていたらそれは認めないのが多様性を認めることである。解決済みの問題である。
今の世の中はてブくらいは「こんな基本的なことも知らんのか」とバカにしつつ教えてやるいやらしい存在であってほしい。
寛容のパラドックスぐらいは抑えておかないと、この程度の思い付きをさもこの世の真実を発見したかのように得意げに吹聴してしまう。生き恥。そもそも他人を自由に殴る自由なんてありえないだろ。
寛容のパラドックスみたいな何の解決にもならん話を振り回すなよ。ではムスリムはほぼ全力で拒絶していいが、本当にできるか?人や態度は常に0/1じゃない。性善説運用にはあてはめれねんだよ。簡単に切って落とすな。
「多様性を受け入れられない人を認めたくない人を受け入れるのだって多様性でしょ」多様性ループを描いたマンガに多様な意見集まる
「多様性を受け入れられない人を受け入れるのも多様性」< 「受け入れる」の認識が違うんですよ。「存在していること自体が許せない」のと「積極的には付き合いたくない」は、次元が全く異なるじゃないですか。
0か1かでしか考えられない人間同士が話をすると、すぐに成り立たなくなる。定義やあるべきバランスを聞く耳持たないのならば、やっていることはあるべき姿の議論でなく自分の欲望の押し通しだろう。
多様性を受け入れられない人=最近やたらとゴキブリのように増殖している、日本ファースト外人〇ね!ガス室〇け!と、川口の場所も知らないのに騒いでいる働いてもいない連中のことですね。わかります。
「受け入れられない」人も「他者の多様性に干渉しない限りは」多様性として受け入れられるべき。ただ行動の制限が市民権の侵害になる以上両立は困難。
寛容のパラドックスだから、解決策は不寛容には不寛容で良い。多様性を受け入れられないなら自分が受け入れられないのも覚悟してんだろうからなんの問題もないし因果応報になってる。
そうだよ。自分は人としての文化的成熟を是とするから多様性を受け入れない人・成熟を拒否する人を多様性として受け入れるし、他者に強要はしてない。こういう「言ってやったぜ」みたいなのも微笑ましく受け入れる。
sigotojouhouとかはちょっと受け入れられないなとは思う
少なくとも、黒人が隣の席に乗ってきたら、席を離れるような人を「ヤクザを超える極悪人」のように扱うのは間違ってるかな。
おきれいなこと言って他人には押し付けるのに、自分はその範囲に入らないってお左翼様のいつものやつじゃん。自分には適用されない(と勘違いして)他人を叩くための便利な棍棒でしかないんだよね。
寛容のパラドクスですわね
いいえ 認める認めないは多様性ではありません そこが間違ってるからループするんです
日本でよく問題になるのはマイノリティを社会で平等に扱うために制度を変更しようとすると、途端に反発が起きる。これは無関心なだけで受容じゃないと国際的には思われるってことだね。
"見たくない表現に触れない権利" https://posfie.com/@atochi_kanri/p/fG2KcS9 って初めて聞いた時はビビった。あと都民ファーストも驚いた(金持ってる東京でこれを言うのか?と)
受け入れる受け入れらないのラインを探るのは永遠に終わらないので、まずは「自分とは異なる人たちは世の中に存在していて、その状態は普通のことだ」というところから始めようよ。。。
仏教とかはここら辺強そうだけどアブラハム系だとどんな理屈になるんだろう?
多様性ってのは全員にとって不快なものが少しずつある世界と聞いたことがある。特定の属性に不快を押し込めるのではなく、不快を全体でシェアしようということ。シェアされたくない人がいると多様性を維持できない。
「もし俺が多様性を受け入れられない人を認めたくない人を受け入れたとしたら、絶対に認められてたと思うか?」
だからエリナおばあちゃんが言ってたでしょう。「(差別する人の)主義主張は個人の自由。しかし、公然と友人を侮辱するのは許さん!」って。
多様性を受け入れろって奴ほど、自分たち以外の党派性や思想への許容度が著しく低く、攻撃的で排他的な全体主義者だからな。前提条件すら間違っているから話が噛み合うわけがないし、拒否感を出されるのは当然。
ここで四の五の言う人は毎度毎度「正しさを選別する側」としてやたら尊大だからまぁ一般的に支持されないだろう
「多様性を受け入れられない人」がその心情に基づいて行動を起こすと必然的に他者への攻撃・排除となる。自分が認めていない論理で自己の保身を図ろうというのはフリーライドとかハックの類でしかない
抑圧者ムーブかましてるかどうかで、世間の受け取り方が変わってくるので皆んな気をつけような
寛容のパラドックス。 / 現実の話で言うなら、パレスチナ国家を認めないイスラエルを国際社会が受け入れないのは多様性からして問題だ!なんてほざいても、アメリカ以外はお前イカれてるのか?と反応される訳で。
多様性の実現には適度な無関心と他者の尊重が肝要だと思うが、何にでもいっちょかみできて叩き合いで承認欲求を満たせる現代のSNSの設計と相性が悪い。
道徳とか理念についての議論だったらいろんな回答がありうるけど、制度設計の観点から語るのであれば一切受容しない人間の存在も前提としなければ成立しないと思う
「寛容のパラドックス」哲学者カール・ポパーが1945年『開かれた社会とその敵』で発表した概念。簡単な説明→無制限の寛容は寛容の消失を導く、ゆえに寛容な社会を維持するには不寛容には不寛容であらねばならない
スローガンに拘らないで、共存(≠単一化)等に改めれば良いのに。/ネーミングの妥当性を疑うべき(PG脳)
京都大学大学院准教授「国籍や国境をなくすグローバルな制度の統合をハーモナイゼーション(調和)と呼んでいるが、事実上の画一化でしかなく結果的に世界全体での多様性が失われている」https://youtu.be/1DErfYEACvY?t=1530
「排外主義者を排除せよ」はおかしいことは一目瞭然。排外主義的意見を無視できるような環境を作る、排外主義的意見を変えられるか試みる、融和点を探す、などが多様性だろう。多様性はコスト高くクソマッチョなのだ
差別する側が差別されて文句を言うことがそもそもおかしい。いじめっこを仲間外れにするのはいじめだから止めましょう、いじめっこのいじめも受け入れましょう、が通らないのと同じ。多様性は選択肢じゃなくて前提。
多様性って侵略者に都合の良い美辞麗句だな。その土地にはその土地のやり方がある。宣教師のように入り込んで上から目線で押し付けるのは愚かなこと。
未だに「寛容のパラドックス」なんて持ち出してるのは思考が残念。多様性は手段であって目的ではない。多様性が必要なのは「価値観の自由競争市場」という手段。その「競争」の結果まで多様である必要はない。
多様性って「まったく共感できない相手をどうにか理解する努力」では。まあ、場合によっては調子に乗った馬鹿を全肯定し、更に調子づかせることになるから、多様性の提示はしっぺ返し戦略とセットでやるべき。
ならないね。「『人権を侵害する権利』も人権として認めよ」というのと同じ。それは認められない。
ヘイトや差別は多様性に含まれない。許容する必要はない
拒否権がなく全体が受け入れねばならない思想であるならそれは言葉を変えたファシズムでしかない。
"不寛容には不寛容でなくてはならないが、(中略)多様性を否定する人を否定してはいけないとなる"パラドックス。人の感情やそれぞれの正義には定義と限界があるんで、押し付けや無理強いが一番の悪やと思います。
不寛容に不寛容って、自分たちの考え方と違う連中には不寛容って感じで、お前らよくそれで寛容を自認していられるなと思う
実際にはループはおきない。英国のように性犯罪グループが組織化しても、政府も警察も多様性の側につき民を犠牲にする。
寛容のパラドックス
寛容のパラドックスの不寛容認定が恣意的すぎて全く当てにならないのが現状なんだよね。それを自覚できていないリベラルが錦の御旗にしてるけど
自分達こそ正しく違う考えなど一切受け入れないという狂信的な人間ほど多様性を持ち出すけど、所詮お為ごかしだってバレちゃってますからね。
「多様性」「受け入れる」「認める」の指してる範囲が全然違うからこのあたりの議論は無限に拡散する。
多様性を受け入れられない人が存在するの認めた上で意見は飲み込まないってのが「多様性を認める集団」じゃないんか。多様性NG集団はそっちでやりなよ/ならポリコレ潰せよwは、あなたはそうすればいいし、私は知らん
「多様性を受け入れられない」と思っているだけなら許容できる。ただそれを表明する時、差別的な表現になるなら、その振る舞いは許容できない。
個人と個人の関係なら「私はいい」「私は嫌」で済むが、それを社会に敷衍すると、たとえば無限のカテゴリの公衆便所が必要になる。全員気持ちが満足できる仕組みなどつくれない、ということこそが第一歩なんじゃね?
行き着く先は寛容ではなく無関心。多様性により細分化が過度に進み、相互理解や共感が失われ、緩やかな分断が起きているとしたら…。人類は滅亡に向かってるんだろうね。
うんうん、教条に照らして瑕疵を審査するような人間にとっての多様性という言葉の単純化って、万能の排斥ツールになるよね、1ミリでもそれに背くと排外主義者め黙れ!的な。白か黒かしかない中学生理論。
多様性という言葉が一般的になって逆に生きづらい世の中になっている気がする。
公共の福祉って判断基準はあるけど難しい問題だよね。
“他者に迷惑をかけてまでそれを認めろ、は多様性じゃなくて侵略と言う”
もともと生物かなんかの学問上の言葉でしょ?しかも多様であればあるほど良いってものでもなかったでしょ?何とか指数っつって。シャロンとかシャノンとか。ただの言葉を絶対正義みたいな前提にするなよバカども。
多様性を認められない人は多様性の庇護を得られない。アウトローとして放逐される。/多様性という概念はそんなに生優しいものではない。
人権が守られる社会を作るためには、他者の人権を侵害する者に対しては刑罰という形で人権を制限する必要があるからな。
寛容のパラドックス自体は道理だから、次は誰が寛容と不寛容を判断するのかの議論だね。正義たるブクマカ諸君には自明のことなのだろうが、浅学蒙昧な我らにはむつかしいので、ぜひ講釈していただきたいものだ。
寛容のパラドクスを説く人は自分を不寛容側におく説明はせず自己認識も寛容側なんだろうけど、その人たちの普段の言動は極端な不寛容側の場合が多すぎるのよ。
目指す方向が違うのに共存を強要すればどこかでトレードオフなり許容できないところが出てくるよ。例えば宗教なんて戦争になるほどなんだから。戦争するのも多様性とは言いたくない。だから多様性は難しい。
「寛容のパラドックス」は、自分たちが絶対の正義だと信じることができた幸せな時代の産物だと思う。
これは誤解で、米国のダイバーシティっていうのは「色んな属性が混ざってる状態を目指す」であって、意見の多様性は認めていないんだよね。わかるかな、新しい宗教なのこれ。「差別」も向こうでは単方向なの。
「多用な意見集まる」「様々な意見集まる」ってもうタイトルの常套句なのか。以前からなのか知らないけど。
こういう人達は今まで何度も寛容のパラドックスの話をされているだろうに、それでもまた同じ話をするのは、理解できないのか、それとも受け入れたら敗北を認めることになるからリセットしてニューゲームしてるのか
元春風ちゃんで反差別言ってたここの人間が些事をあげつらい自分達に逆らった罪でガキを粘着叩きしてて「差別主義者認定」って「朝鮮人認定」ぐらいの恣意的な軽さと露呈した二枚舌差別大好きピーポーの皆さ〜ん?
寛容のパラドックスは不寛容な人が「寛容のパラドックスを持ち出す」不寛容な人を排除して良い
俺は自由だからお前を縛りつけても俺の自由みたいな論理だな
不寛容には徹底した不寛容を。基本中の基本ですよ。
内心の自由はさておき、多様性を認めないが故にマイノリティに攻撃をするような考えは認めなくていいだろ。それは加害行為を容認しないのは当然という話で、多様性とは話しが変わる。
そういうこと言ってるから「じゃあ多様性なんてクソ喰らえだ」っていう連中が出てくるのよ
みんなと違うから、は排斥の理由にならない。 もちろんそれ以外の理由はあり得る。
初手で終わっててループになりようがない
「多様性を受け入れる入れないとかどうでもいいから、法律守ってくれ」でしかない。多様性を担保する正義もまた政治であるとニーチェなら言いそうだし
寛容のパラドックスを認めたくない人を受け入れるのだって多様性でしょ!
今の日本など「先進国」にとっては「イスラム復興運動」そのものが最大で、すでに思想的、社会的困難を極める「多様性を受け入れられない人を認めたくない人を受け入れるのだって多様性でしょ」問題。逃げないように
多様性の対になるものって受け入れられない人というより旧来のままでいいと思っている人たちでしょ。さらにいうと多様性を主張している人たちのいう多様性はいわゆる統一された多様性なのにこれを認めようとしない。
差別主義者認定できれば問答無用で排除してよいを逆手に取ってえせ同和行為。
“そうはならない”が多勢のようだけど、受け入れるところまではしなければならないとおもってる。攻撃性に転換する前に察知して対処する、ことが理想。難しいが。
この手の議論、先制攻撃仕掛けた方が圧倒的に有利になるからイチャモンをつける被害者ポジ確保に走るのが最優先になるのほんま不毛だと思う。
多様性を受け入れたくないなら自分の価値観だって他者に否定される覚悟をしなきゃいけないのに、なんで多様性って相手の価値観に都合よく逃げ込むの?相手もダブスタだってんなら、てめぇらも十分ダブスタだよ
前提として従来多様性=少数派が受け入れられてこなかったというのがあって、多様性を受け入れられない人=多数派はすでに受け入れられてる側だから、変な要求なんだよな
インターネットで寛容のパラドックス持ち出す人、大抵自称寛容なだけの不寛容な気がしてならない。人権は尊重するが黒人はそもそも人間ではないみたいな。
多様性は多様性の存在を認めることが重要であって多様性を許容したり賛同したりするかどうかは別だと思っている。誰が何を否定しようが多様性は存在している。
認めたくない人も受け入れてるからループしてないよ。ただ認めたくない人は多様ではなく一様っていうだけで
自由を認めない自由などない
まあ、ぶっちゃけると皆の心にあるのは多神教の日本が一神教徒を受け入れられるかという命題。50年もすれば、世界は宗教離れして、一神教教徒も軟化するだろうとは思うが、まさに今の問題だから難しい
世界史から日本の特異性はキリスト教とは無関係なことだけど仏教の宗派でも浄土宗に近いものがあるんだけどな。
多様性を受け入れられない人を多様性として受け入れる寛容さは、多様性側にしかないのだ…
思想信条の自由は憲法19条で保障されているのだから。個人が受け入れても受け入れなくてもいいよ。それも思想信条の自由。国家や社会が思想信条の自由を損なってはいけないだけ。
身近にいる自己主張の強い頑固なジジイ 周りからどう扱われてるか、周りからどう見られるか 分かった上で、偏屈な主張をすればいいじゃん 嫌われるのも、距離を置かれるのも分かっててやるなら、好きにすればとしか
多様性(※ただし私が認めたものに限る。保守思想、男性、資産家、権力者は排除するべき)だからな。保守側の主張はシンプルで、「犯罪者が日本人なら罰しろ。外国人なら居住も許すな」ってだけだよ。
そもそも「多様性を受け入れない」ってどういう状態?「多様性なんかない!」なのか「多様性はあるけど自分に不都合なことは拒否」なのか。
大事なのは多様性よりも差別しないことと他人の自由を尊重すること。多様性は内心認めなくても別に構わないが、多様性を認めないことを差別の理由にするのがダメ
「寛容」とか「受け入れる」にグラデーションありそう。「迷惑をかける」の強度とか
こういうのはAIと対話したらいい
多様性多様性と言う人ほど、人の意見や表現にとやかく言って潰しにかかってる印象
何事にも例外があるのよって話。他者の人権を阻害するようなポリシーは多様性からは排除される
多様性至上主義は痛い妄想でしかない。合う合わない存在がいるという現実から目を逸らしているか見識が狭いだけ。例えばイスラム原理主義と日本人が狭い同じ土地で仲良くできるわけないのは分かるでしょ
選択的夫婦別姓論者「同姓でもいいよ」、夫婦同姓論者「別姓は認めない」、選択的夫婦別姓論者「では戦争だ」。
「公共の福祉」っていう概念の話なのでは
元々この言説は、お前らは多様性を謳いながら気に入らないものを排除してる(だから普遍の正義でもなんでもない)の意味なので、ループは無意味。「寛容のパラドックス!」(ドヤァ)とか、よく恥ずかしくないな。
不寛容への不寛容💢ってやってる連中の多くがTERFや男性排斥に親和的・同調的な顔ぶれだったりするので、多様性ってのはつまり「俺にとって都合の悪く無い属性に限定した多様性」の事なんですよ。
残念ながら「不寛容には不寛容(多様性を受け入れられない人間に一切の人権はない」こそ対テロ戦争のロジックでありイスラエルは同様の理屈でパレスチナ人を皆殺し(女子ども含め)にしてるので(何ら解決には繋がらない
受け入れるのではなく受け止めるんだよなあ。「いる、ある」を否定しても消えてなくなることはないので。そのうえで受容でも拒絶でも好きにすればいい。
多様性って難しいにゃ〜。みんな違ってみんな良いのに、仲間外れは寂しいにゃ。ボクはみんなと仲良くしたいから、猫パンチは最後の手段にゃ!平和が一番にゃ!
要するに「例外のない多様性は実現不可能」って話だよね。で、なにを例外とするの?って話をせずに「多様性は素晴らしい!」ってのは欺瞞。てかこれ「反差別!(でも何が差別かはウヤムヤ)」ってのと同じだな。
そんなわけないじゃん、で終わる話。これは散々議論になってたやつで寛容と不寛容のお話でよく見かける
ナチスやイスラエルで考えるとわかりやすい。彼らを多様性として受け入れると多様性が失われる。多様性を失わせようとする多様性は受け入れられない。
俺は多様性尊重のメッセージの多くが人種宗教性差などの特定領域に偏向していることに無自覚なことに疑念を感じてる。この問題に関してちゃんと考えてる人はたくさんいるのだろうけどSNSでは確認できない。
だとすれば、女性が自由に服装を選べないイスラム教徒や、自民族を愛する民族主義の少数者に寛容であることは多様性と矛盾するのでは? マイノリティにも多様性を強制するべきでは?
小学生の屁理屈。言うまでもなくあらゆる社会は一定の価値観の上に築かれており、自由主義国家においても全てが許容されるわけではない。例えば殺人の自由や差別の自由は多様性の枠内に入らない。
「多様がよい」という考えと、「多様ではない方が良い」という考えは対立しているので、内包できないのは当たり前だ。
「受け入れない事を受け入れない」で止まるからおかしくなるわけで「受け入れないけど認める」ことが多様性なのでは。認めるとは許すということではなく認識すること
「不寛容には不寛容」とか言って気に食わない相手を排除できるなら、そんなもんは多様性でも何でも無いだろ。共産国が「我国には富農も銀行家もいない(皆殺し)」ってほざいてたのと一緒/王党派にも市民権がある
多様性じゃなくて、『すべての人に、基本的人権を!』で良いんだよ。前提が間違っている。
でもなんだかんだ言って罪もない弱者男性を叩くのはセーフ
これは人権の話が大変で、どんなに嫌いで相入れない思想の人にも人権があるのだ。これは重い話。
多様性に関しては、居ても良いってだけにしか思ってもないけどなあ。邪魔する奴は属性関係なく死ね。と思っている。
まぁ、結論出なくても根源を追い求め考え続けるのは良いことだと思うよ。基本的に「他者の肯定」の追求なのだから、自己否定に陥らない限りおおよそ優しい世界につながるはず。「不寛容には不寛容」ではもったいない
不寛容な人を許してたら世界が不寛容になっていくから許してはいけない、というだけで全くパラドックスじゃないんだよな。暴力を止めるための暴力(=警察)がアリなのと同じ。
多様性には弱者ケア必須。純生物学的には多様性を維持するために外来種を排除が必要だったりする。多様性の難しいところは弱者は環境の変化に弱く無秩序な多様性に耐性がない。ケアが無いと物理的に耐えられない。
パラドックスもどきなのね。ちゃんと作り込むには論理学の素養が必要なテーマだ
他人に危害を加えない、他人の権利を侵害しない、は当然のことと思うが、それでも受け入れられないのはおかしいという主張?
表現規制派のバカフェミは社会から迫害されるべきってことだな
不寛容な考えを「価値観のアップデート」と言う名で殴る人が多いんだよな。そのアップデート正しい前提なの?
まぁこういうのは、寛容のパラドクスを持ち出すまでもなく「はいはい厨二かよ、お前はひろゆきか笑よププ」でいいような気もしないでもない昨今。
不寛容には不寛容でも良いと思う。寛容である事は対立の解決に役に立たないので最終的には戦争しかないということだ。
多様性主義者がほとんどおらず根付いていないのに「多様性はいい事」と思いこんでるのが上手くいかない原因。「世の中が自分が不快なもの嫌いなもので溢れている」状態を見て「いい世界だ」と言えるのが多様性主義者
多様性とは色で言うなら「世の中には無数の色がある」という状態を指し「多様性を認める」とはその事実を認めると言う事。その否定である「世の中には色は存在しない」はそもそも多様性ではないので詭弁でしかない
“多様性は"許容"であって"賛同"ではないのよ”→"許容"じゃなくて"放置"と思う。わからないもの、知らないもの、許せる許せないで「勝手に」決めないで、触らない、放置するという感じ。知らんくせにいっちょかみすん
今日もまた「ポパーはそんなこと言ってない」で終わってしまう一群の人気コメ達であった。
いわゆる「寛容のパラドックス」に引っ掛かる人は「目的」と「手段」を混同している。多様性を広める「目的」をもって行動している人が、そのために多様性を認めない行動を批判する「手段」を取る事は矛盾してない。
嫌ってもいいけど意地悪するな、に尽きると思うが、どこかで受けたヘイトを他に叩きつけると叩きつけられた人はまた恨み、という無限ループもあるでな
同様の例として、戦う民主主義のほうがわかりやすい。
自分を受け入れない世界は受け入れられない、という当たり前の話に置き換えると、不寛容には不寛容であれは間違いとわかる。どちらが先かわからないから。世間が特定の人たちを受け入れないための理由付けに過ぎない
多様性というのは「俺は嫌いだけど存在は認めるよ。嫌いだから関わらないけど」ということであって、「嫌いでも関わって仲良くなれ」は多様性ではなく価値観の押し付け
自由主義国家というフレームを維持する場合、不寛容な思想も自由に退出できるなら不寛容なコミュニティすらも許されるが他人への不寛容な行為はリバタリアンにも止められる。行為は特定コミュニティ内でのみ存しえる
人は繋がりが増えてくると、近い距離の人の都合がより見えてくるから、結果多様性が下がりやすい。ずっと多様性を主張している人は、その正しさに執着するしかない狭量な視点しかないため、正しいはずなのに孤独
別に受け入れなくていいし理解できなくていいよ。「全然わからないけどそういう人もいるのね」でいいの。"不快""理解できない"を理由に存在を認めない、否定する、追い出す、危害を加える、行為は否定していい。
拝外主義で言うと、「外国人は出ていけ。異論は認めない」は不寛容だけど、「善良な日本人の幸福を優先すべき。異論があるのは分かる」は寛容でしょ。結局、対話可能性の話でしかない。拝外主義は認めないも不寛容よ
「多様性を受け入れる」とはどういう状態を指しているのか、認識が合っているのだろうか。
「多様性を認める」という立場に立つなら、「多様性を認めない」という立場は認められない。言葉の定義を取り違える誤り(偽の同一視)。
解決済みパラドックスを持ち出す側は周回遅れにもほどがあるが、それはそれとしてこの「不寛容の正当化」を正しく運用するのは十分に賢く抑制的な人間でない限り難しく、容易にリベラル風味権威主義になってしまう。
所詮はどのような思想をどの程度配分するゲームでしかない、これが100%になるのが良くない
実際はグラデーションがあるよね。「犯罪を多様性とする」は受け入れられないし、「マイノリティを迫害する人」も困る。「多様性を嫌っているけど何もしない」は受け入れ可とか。
多様性とかいうぼんやりした言葉で誤魔化してるだけで、「社会的に」害のあるものを拒否するのは社会として正常な反応。多様性の中にも社会として受け入れてはいけない物もあれば、受け入れるべき物もあるというだけ
そもそもが多様なので、受け入れるも入れないもないよ。目を瞑れば目の前のものが消えてなくなるという妄言にとりあう必要はなくて、でもそう主張する自由はあるということ。
「俺は人種差別と黒人が大嫌いだ」みたいな
別に個人が全てを受け入れる必要も無いとは思う。私には理解できないけど他の誰かは理解してくれるだろう。ただし理解できないからって排除しようとするのはダメ。
指差して嫌いって言って許されると思ってるから差別野郎やキチガイフェミが出てくるんだろ。
「多様性を受け入れられない」と内心で思うのは自由(個人の多様性を尊重する)、でもそれを表現したり行動したりすることは許さない(社会の多様性を守る)。どこにも矛盾はない。
差別するニンゲンを差別するなってのと同じやつ
在特会のヘイトスピーチは表現の自由ではないと裁判で結果がでてるだろ。自由権が誰かの人権を侵害するとき公共の福祉で自由権は制限される。パラドックスでもなんでもなく日本国憲法だよ。
何周遅れのバカ議論してんの?
「〇〇性」という曖昧なのに意味が決まっていそうな用語でする言葉遊び
多様性の権化とも言われるローマ帝国が、宗教までも受け入れて結局内部崩壊してるワケで、多くの人が思ってるより多様性ってそんなにいいものじゃない。多様性も寛容もバランスが大事ってダケ。
「不寛容に対しては不寛容」を盾に、「先に相手を不寛容認定したほうが勝ち」のゲームが始まるんですね
馬鹿に馬鹿と言っても馬鹿だからわかんないみたいなこと?
結局どうしたいの?何か困ってることがあるの?議論が深まっ太郎がしたいなら帰らせてもらうね。
不寛容には不寛容でいいのだが、不寛容を社会的に抹殺しろまで行く現代は一筋縄ではいかない。この程度の疑いすら持たず言い切る人だらけで空恐ろしくなるな。
多様性って言っても、「戦争して~!人殺して~!」とか言う奴は受け入れられないんだよな
大学時代 後輩女子が それは嫌だと言ったら 同級生の男が嫌では理由にならないと言ったら 嫌いなのも正当な理由だと反論して押し切ったので スゲーと思った思いで
じゃあはてブ的にはイスラム教徒は排除ということでよろしいね?
受け入れたくない人は受け入れなければ良いだけで、それで不利益被っても本人の責任。でも多様性を叫ぶ人ほど自分の価値判断基準を最善と勘違いしているので、それを他人に押し付けてくるから争いが起きる。
寛容のパラドクス、もはやほとんどの場合寛容さの基準など無く「我々は寛容!お前らは不寛容!つまり寛容のパラドクス!」って言って都合よく不寛容を正当化する為だけにしか使われてないので人類には早過ぎた概念。
「多様性を受け入れられない」のは個人的な方針としてアリだが、それを理由に社会的な不正義を行ったり相手に社会的な不利益をもたらすことは許容しない。その逆も同じ。その線引きはしないと
FAQ的な誤謬。しかし、余裕のない不寛容を嘲笑うのはグロい。余裕があるのに不寛容なのもグロい。
多様性を謳う人達が排除しているのは「多様性を受け入れられない人」じゃなくて、「本来ならその多様性として受け入れられるべき人」なんだよ。例えば、創作物で性的要求を解消する人たちとか
権利を無制限だと思い込む人っているよね、人権だって厳密に定義されてて制限だらけなんだけど。例えば著作権なんて砂上の楼閣というか極めて曖昧で暫定的なもんなんだよ「実体」がないから。
そう、昔からそんなの単なる言葉遊びって何度も議論されてる。
ヘイトスピーチや名誉毀損は言論の自由か、につながるところはあって、多様性として認めてはならない多様性もあるとは思う
気に入らない人を任意に「不寛容」認定して攻撃する場面を沢山見てきたので「不寛容のパラドックス」はダメな運用だと思ってる。
twitter で盛り上がるような話題はすべて何年も前にとっくにすでに解決済みってことか
「から揚げの大皿にレモンを全体にかけるな!小皿にとって好きな奴は自分でかけろ!」が多様性だと思う。勝手に自分の好みを全体に押し付けるなと
どちらも受け入れられない人となり、多様性主張派の敗北となってしまう…
解決なんかしてないでしょ。いろんな学者が自説をとなえてるだけで。
杉田水脈はインターネットが生み出した糞だと思ってますが彼女は生きていて欲しいとは思いますよ、多様性なので。それを凌ぐ憎悪を向けられたって。
少し分かる。別にLGBTの人達とか自分の人生なんだから好きにしなよと思うし、同性婚とかも法的に認めてやれよとも思うが、俺自身は男は男らしくて女守れる人の方がカッコいいと思ってるので、それは差別じゃないだろ
多様性を受け入れない人が何で多様性を肯定するコミュニティに参加したがるのか。
多様性を受け入れられない、受け入れるべきだ、みたいな話をすることってなくない?普通は特定の人種嗜好性考え方を挙げた上で是非を議論するし、そんなフワッとした話は学級会くらいでしかしないよ。
多様性を寛容ではなく権利として行使してる
先人の論考を無視して気の利いた風な事言うもんじゃないな、とは思うが、こういう「素朴な疑問」を馬鹿にせずに心折れることなく応答することもまた大事なのだと思う。心の麻疹には大体みんなかかるんだから
自分の気に入らない属性の人々を不寛容集団とレッテル付けして排除しようとするのもよく見る
カール・ポパーが「寛容のパラドックス」の言い出しっぺとは知らなんだ。我々が悩むことなんてだいたいが先人の誰かが考えたことがあることであって、我々は謙虚にそれを踏み台にして進まないとよろしくないよねえ
左翼の自己認識はなぜか「寛容」のようなんだけど側から見ると不寛容なんだよな
哲学者カールポパー「寛容のパラドクス」 と呼ぶ。「無制限の寛容は、寛容そのものを破壊する不寛容に寛容であることによって、やがて消滅してしまう」よって「寛容を守るためには、不寛容には限界を設けてよい」
「不寛容には不寛容で良い」は解決策にならんのよ。なぜなら何を不寛容と判定するかが人によって全く違うから。俺からするとすぐアニメ風絵を排除しようとするフェミニストは不寛容だが、woke視点では違うんでしょ?
異質な存在の排除を指向するって、1.相手との対話を拒絶する立場 2.状況に応じて自分も排除される側になる可能性を自ら組み込んでいる これで立場の違う側のルールで対話するって仮定を成立させる理屈が思いつかない
ループはしない、矛盾は生じるように見える
戦闘的民主主義 https://w.wiki/4vGi
本物の左翼やリベラルは、その辺りは理解しとるんよ。理解しとるからこそ、アホな信者を洗脳して、不寛容な教義に閉じ込めちゃうねん。囲い込みやね。ところが洗脳済みのアホが世代交代でトップになったりすんねん。
『みんな多様性持ってていいなア!!じゃあ多様性バトルしようぜ!多様性バトル!!』(どこまでが受け入れられず排除される迷惑者で、どこまでが寛容される多様性かを競うバトル)
多様性を受け入れられない人も受け入れるけれど、ルールを逸脱したら取り締まるってことでいいのでは……。
多様性の線引きは簡単だよ。マジで簡単。「嫌う・嫌悪する」はセーフ。どんだけ悪く言ってもいい。「禁止しようとする・滅ぼす」これは言った側がやり返されても文句言えないからやるべきではない。こんだけだ
これが面白いと思えるの、せいぜい高校生までに卒業しといてほしい。
「不寛容には不寛容でなくてはならない」って話なら、今の左翼やフェミニストは不寛容のカタマリみたいな連中なんで、不寛容でいいってことですよね。
ポパーは「不寛容な態度はただちに禁止するべきではない」と言ってる「理性的に説得すべき」と。禁止してしまったら禁止され返す/「好き嫌い快不快」OKで「宗教伝統の不寛容」NGだと倫理は資本主義に飲み込まれる
トップブコメアホかよ、不寛容には不寛容で良いとか言ってる不寛容な人には不寛容で良いってことになっちゃうだろ。そもそも不寛容とか言う抽象的な言葉を自分と意見の違う人が悪いかのように使ってるのが問題
不寛容には不寛容でいいという意見があるみたいだけど、自分の意見を受け入れない人には不寛容でいいってこと?
言ってもない事、内心がわからない事もこいつはこう思ってこう言ってるんだと人物にレッテル貼って決めつけて、差別だのミソジニーだの糾弾するのは魔女裁判レベルの不寛容なんだけど、その自覚を持てない人が多い。
納税金額は経費にならない、に似ている。どこかで断ち切らないとループになるから。
多様性を認めないということは、この前のスウォッチの広告みたいに差別が横行するようになるんだよね。強者の論理が絶対的な正義になるってこと。多様性を認めない人はその辺どう思ってるんだろ
目指すところはすべての思考の人が共存できる世界なのでは
唐突だけどコミケって多様性が実現できた場なんだろうね。
ポパーの名を見たワイ、安心して眠る
多様性ったって、例えば天性のシリアルキラーを受け入れられる社会なんて、どうやっても成立しないでしょ?そりゃ、自由で寛容な社会が生んだ一種の倒錯的思考だよ。一定の規範と禁忌がないと人間社会は成立しない
認めることと受け入れることと肯定することを一緒くたにしてる人が多い気がするけど全然違うんよな
例えばLGBTを認めないというのは多様性ではない、それはLGBTに対する意見であってLGBTの多様性と関係ないからだ。 リベラルの他に日和見や右翼が居るのは多様性か?これは多様性である。 単なる意見と多様性は別概念。
塀で囲った刑務所だってNIMBY案件。塀がない刑務所を受け入れる人もいるだろうし塀があれば大丈夫な人もいる。塀の中の人はどう思うだろうか。
「皆で嫌な思いしよう」が多様性だと思っているのでそれで良いのでは
全人類が他人の性別や国籍、性的指向、容姿、障害の有無に興味がなくなるのが多様性だよ。相手が何者でもお前の人生に関係はないのだ。
ある種の伝統的な価値観に対して保守的な人々、分かりやすい例だとイスラム教徒とかは受け入れないってことになるので、こういう単純化は危険だと考える
相互主義の一言で終わる。結果的に無限の多様性ではなくなるけど、そんなのないからな
日本人ファースト支持の人達を言ってる?それこそ意固地の屁理屈だな。
合成の誤謬と同じで範囲、視野、スコープが違うため比較にならないが言葉が同じなのでまるで同じ基準に沿った変化に見せかけてるだけ。昆虫が巨大化しても想定値の荷物は引けない。
GPLの「不寛容に対する不寛容」と同じ論理が答えになる。多様性を受け入れられない人は多様性社会に受け入れられないとのオチが付く
「あるものをない」という存在の否定は多様性ではなくて、単なる事実誤認。「あるけど好きじゃない」なら交わらないよう共存はできる。社会の豊かさは、共存するための器の大きさ(貧しい社会は器が狭い)
〇〇という立場で私が生きるのをそっとしておいて欲しい(あなたの立場は関知しない)というのが多様性であって、私は〇〇だからみんな〇〇でないと不安だと思ってる人が多様性問題でゴネてる人だと思ってる
「寛容のパラドックス」は机上の空論で何の意味もない。他者に不寛容な人間が自分を正当化するために持ち出してくるバカの論理
不寛容に対して寛容になるのは不寛容。それを寛容と呼ぶのは話のすり替え。寛容な人は不寛容な人が同じ空間にいたからといってただちに抹⚪︎はしないかもだけど、単に我慢してるだけでウェルカムではないよね
他人を攻撃するための武器として「多様性」を用いるからループするのでは
間違ってるよねと思ったら一般にそう言う論があるのか
寛容のパラドックスって考え方があるからセーフっていうのはどうかな……。「どーも哲学者の○○です。今日はこんな思考を紹介します」が延々と続いたらなんでもありになりそう。人殺しの顔をしろ案件では
マイノリティの不利益を無くしていくのが多様性を大切にするということだから、不寛容な人たちを保護する話ではない
見た目で判断するなとは言うが、「この人とは仲良くしない方がいいな」というのはほぼ見た目で分かる。多様性より前に自分の直感を信じてるよ。
多様性を受け入れられないってどういう状態?雪が降ってるのに雪は存在しない!空から降るのは雨だけだ!って言い張るとか?
賛成の反対なのだ。
嫌いなものは嫌いと 言える気持ち抱きしめてたい🎵(ただ強要や扇動はダメ)
多様性は集合の名前なのでそれを知ってか傾向をもってか行動の基準にしてか、責任の所在等は場面で有り様は変わるし人が選択できる選択肢は一つなので多様の名のもとにある複数の選択に準えるのは普通にいちゃもん。
いまの多様性を追求していくとみな一様にリベラルな国家になっていって、国家レベルの多様性は間違いなく失われていく。
オレの考えていることは大体、既に誰かが考えているハズ
不寛容な人は寛容に触れたら改心するのだろうか。それとも利益だけ受け取って不寛容・排除を貫くのだろうか
私はあなたを受け入れられないという意見と、あなたが受け入れられるなんておかしいと喧伝することの違いと、受け入れるべきという理想と、見て見ぬふりをする余白と。
多様性などない別の不寛容がきただけだ
多様性のために外国人を受け入れた結果、国ごとの多様性がなくなる。
「受け入れる」ってそもそもなによ
はてブで信頼できる数少ない本物のリベラルの人のコメント待ち
利でなく正義で以って他者を動かそうとするなら、まず自身がその正義を十二分に達成してからにしてほしい。
争ってこそ多様性が保たれる。結論が出ない元記事やブコメこそが寛容と不寛容の何たるかを示す多様性。
トップブコメの奴ら、なら、言論や表現の自由を認めない奴らは、言論や表現の自由で守るべきでないので、規制派やポリコレは全て規制・言論弾圧で良いわな
全知全能の神は、全知全能ゆえにドジっ子になれない、というトンチキ話を思い出した
パラドックスではあるが、ループにはなってないよね。
ブコメ。予想通り「寛容のパラドックス」の話になってるが、誰がどういう基準をもって寛容と不寛容を分けるというのだろうか?/「寛容のパラドックス」と「他者危害原則」がごっちゃになってるヒトいないか?
本題からはズレるんたけど、多様性を大事にするなら答えは許容ではなく棲み分けになる。許容は無理。しかしその理想は戦争を始める人が存在する限り実現しない、と確定したのがここ数年。この議論はもう古い。
<多様性>を受け入れられぬ意見は多様性を否定する故,排除は正当。そうでないならむしろ不合理。論点が<自由>なら,其が文字通り徹底された先は,皆が自然権を行使する,万人の万人に対する闘争状態となるやもだが。
いやその主張はさすがに頭悪すぎ 小学生レベル
で、ムスリム女性のヒジャブは外すべき?
湯神君は友達がいないってマンガでまさにそのやりとりあったなあ
めんどくさい。以上。
id:hajakun 「規制派やポリコレは全て規制・言論弾圧で良いわな」良くない。言論には言論で批判するのが筋であって、相手の意見を否定する言論と言論統制は全然別物なんですわ。
「多様性を受け入れない価値観」を受け入れる多様性を求めるなら、逆にその人だって多様性を認めて欲しいと思っているともいえる。多様性を認めないってことは、自分の価値観も他者に合わせて捨てていいってことだよ
自分にない多様性を他人に求めている時点でなんかおかしいと思わないといけないのでは。
こういう詭弁使うやつネットでよく見る
これや非寛容に寛容になれ・差別する人を差別するなという主張をする者は、馬鹿かつ屑であると自慢しているだけ。ハテナもたくさんいるね。ほら、ここでそう主張しているのもいつもの差別主義者だろ?
多様性って全員が我慢して幸せになることだから、我慢できない人がいる時点で崩壊する
多様性の許容は、お互いの根底にある価値観や倫理観が一定以上等しいことが前提。ここが異なると認め合うどころか、会話も成り立たないので共存自体に無理がある
多様性を認めるって言葉がおかしくなる原因だな。多様性とは周りに関心を持たないことだよ。究極、人は人、自分は自分。日本だとここに壁が出来るから多様性っぽく見えないんだろうなあ。
これを不寛容に対して寛容になる必要ないで否定するのは簡単なんだが、「相手の不寛容さを主観的態度で認定するのが多様性のルール」ってことになり、もう多様性という言葉使うのやめたらってなるだけなんだよなあ
寛容や多様性を否定する立場の人間を許容するのは当たり前。多様性を否定する人間であっても、多様性を否定する人間を否定する人間であっても、人を不当に社会から排除しようとする動きは制限されるのも当たり前。。
多様性を認めたくないのはご自由だが、それを口に出すな。終了!
他人を害さない多様性なら受け入れるけど、不法移民や人口侵略、ホルモン注射による去勢、弱者ビジネス、死体遺棄、フェンタニル麻薬、凶悪犯罪の不起訴、密輸、福祉の不正受給に繋がり、国家を崩壊させる狙いも多い
多様性を受け入れられない人を認めるのも多様性!←これは自分がマジョリティ側にいるから言えること。自分がマイノリティになったらどうかっていう想像力の欠如。恥ずかしいよ。
安易に多様性を使いすぎたよね。殴りたくなったり、存在を認めたくないぐらい嫌いな人とも暮らすってことを想像しないと。
「人権は思いやりではない」と同じで、「多様性を認める」ってのは「相手と仲良くする」って意味じゃなく「相手の存在を否定しない」って意味だよ
これ思ってたんよね。寛容のパラドックス知らんかった。不寛容には不寛容。結局一方的な関係じゃなくて、双方向の関係が前提やもんな。
「寛容のパラドックス」初めて知った
不寛容には不寛容を、排除には排除を。ということ自体は正しいんだが、問題は誰もが自身を「寛容な側」だと思ってることなんだよね。
中二病だと思う。どちらを選んでもいいんだよ。さらに言うと、他人が多様性を受けれることを受け入れないことも自由。ただその他人の意思を強制的に変えようとするのが人権侵害。現代では殺人につぐ重罪。
多様性を受け入れない人も認めるのが多様性では、という屁理屈は、多様性を戒律だと思ってる人が言うまぜっ返しである。
「詭弁」だね。
多様性を認めるなら日本の伝統や文化も認めるのが筋だと思うんだけど、それは認めない人たちが多様性を声高に謳ってるんだよな。正直欺瞞に満ちてると思う。
「ひとの自由を制限する自由はない」みたいな。(ただし法に定めのある場合を除く)
多様性という全てを包括してしまえる言葉を都合よく利用しすぎ。受け入れ不可能なものは誰にでも存在するに決まってるじゃん。NGワードにしてくれ。
「寛容のパラドックス」
議論が抽象的すぎる。不寛容であるべきだという意見表明であっても言論表現であるうちはなるべく認められるべき(民主主義の枠組みの中で議論されるべき)だろう。ただ、多数の専横に気を付けないといけない。
ドイツの「戦う民主主義」ってやつだ / この類の「多様性を認めない人」って、自分自身の属性が「多様」の中に含めてもらえてないっていう被害者意識が根底にありそう
迷惑行為や犯罪行為を適切に取り締まれるなら何でも受け入れるよ。多様性を隠れ蓑に良からぬことをする輩がいる限りは慎重になっちゃうかな。
なりません。他人の権利を侵害する権利みたいなもんでしょそれ。
多様性を認めない人が多様性を認めないことを広めようとしていたらそれは認めないのが多様性を認めることである。解決済みの問題である。
今の世の中はてブくらいは「こんな基本的なことも知らんのか」とバカにしつつ教えてやるいやらしい存在であってほしい。
寛容のパラドックスぐらいは抑えておかないと、この程度の思い付きをさもこの世の真実を発見したかのように得意げに吹聴してしまう。生き恥。そもそも他人を自由に殴る自由なんてありえないだろ。
寛容のパラドックスみたいな何の解決にもならん話を振り回すなよ。ではムスリムはほぼ全力で拒絶していいが、本当にできるか?人や態度は常に0/1じゃない。性善説運用にはあてはめれねんだよ。簡単に切って落とすな。