『教育が「発達障害」を作るとき 「やりとり」の社会学という視点』
「問題の個人化」から「問題の関係化」へ
興味深い。最近の「発達障害かもしれない」と言う自己評価と対をうっすら成してるかも。そして上手くやれない、やれなきゃ変、とされる社会の閾値と接続を思う。これは読む。
1980年代あたりのアメリカで自己責任が極まりすぎた結果、体調不良すべてに自己申告以外の理由が必要となってメンタルクリニックが発達した説を読んだ記憶があるので、その流れ?
子供の頃に発見されるべきだよね。少し大きくなると、発達障害であることを巧妙に隠して無理して周りに溶け込んじゃう。特に女の子。
発見するのはいいが、人手不足を理由になんもしない。ただの差別になってる学校も多い。
「当事者個人ばかりに目を向けると「できなさ」や「問題行動」がクローズアップされ、心理的・医学的な支援だけがおこなわれることになる」
日本の知能トップから植松案件まで様々なヒトに接しているが、人間関係において、アンガーマネージメントが最重要項目の一つであることは間違いない。発達だろうがなかろうが、怒りを制御できない奴は終わってる。
社会的能力が欠如していること自体は取り繕いようのない事実なんだから教育のせいにしたって意味ないだろ。成人して職場に出ればどのみち問題が発生するわけだし
社会の鏡である教育、発達障害の理解を深めることで新たな光が差し込みますの。皆で手を携えましょうですわ!
早期発見・早期支援が過剰なニードを生み出し教育現場や家族の負担を増大させている.良かれと思って作られた制度が逆に現場・家族・当事者を苦しめる./発達障害はグラデーションがあるからな.
社会学の研究としては正しいんだろうけど、困ってる当事者としては教育が発達障害を作ると言われても何の役にも立たないので・・・むしろ発達認定してもらって障害者雇用で働く方が生きやすいのでは
障害は、生活に著しい制限がある方を支援する為の概念であると思うので、教育含めあらゆる社会システムが発達障害を外から形作るというのはなんとなくイメージできる。
当事者として発達障害のない人とは根本的に脳のつくりの違いを感じる。別タイプの人類というか。少数派だから周りと合わずなじめない。発達障害ある同士は結構気が合う。
世の中が複雑化してきているせいで取り残される人々が増えている。発達障害もそれでしょう。仕事も勉強も人々の社会のために行われていることだが競争社会では誰かをふるい落とすことでしか生き残れないのだよなあ
「発達障害は本人の特性」とみなす社会の風潮を批判して「発達障害は相互行為的に作られる」と主張する書籍に(試し読みの範囲ですぐ分かります)、当たり前のように「本人の特性」の枠組みでのコメントが付く悲しさ
獅子が烏帽子をかぶる時、烏の頭の兎は三十、鼠は六十、岩戸の奥をさぐるべし
これは思うなあ。息子はLDだが学校教育や入試がこれだけ読み書きに特化していなけりゃ、普通に録音メモとかで生活には困らないし、”特別な支援”も不要なのにと。
定形・非定形以上に受験や学校での内申点取得がハックされ終わって中高生時代にマネジメント能力の高い子が有利になる一方で多くの子が学習能力以外のところで埋没し不利益を被っているのではないかと思う。
発達障害にあまり縁のない人たちが社会制度を作ったために、残余として括り出された側。社会の同調圧力・淘汰圧が高まって顕在化。当事者たちをどうこうしても解決できず、社会や学校や関わり方を変える必要ある。
社会が発達障害を作ったんだろ。みんなと違うものを排除するために。排除側のコメント→「職場のADHDのAさんが辞めてくれて嬉しい」https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240728101905
この分野はあまり知識がないけど、発達障害という言葉ができる以前は変わり者として扱われつつ、社会の中でそれなりにやっていける仕組みとかあったんじゃないかな。障害として扱うことで分離されることもありそう。
これまで「ふるい」程度の分け方だったのが「ピンセットでつまむ」ような分け方になったから増えた、みたいな側面はありそうに感じている。
「教育社会学」でこのテーマは良い。帯にある、『「やりとり」の社会学』という語感が受け入れられない。「社会学」という表記が許されるのは理論社会学だけだと思う。制度論なら制度論らしく振る舞ってほしい
発達障害にはグラデーションがあり、社会が「他者」に厳しくなればなるほど、その線引きは薄い方に上がっていく。
特性が問題にならないような多様な社会が作れる・あったはず、的な奴だろうか
授業は聞かずに落書きしてる、宿題含め忘れものが多い、友達付き合いが苦手、って小学生だった。あと20年遅く生まれてたら何らかの対処がされてた気がするけど、対処された自分は今の自分ではなかったろうなとも思う
一生面倒見られる側と一生面倒見る側という関係性で固定すると、お互い様が成立しない。好悪の感情を無視して、相性も無いものとする制度の囲いの中で、お世話係・介護要員の戦力の歩留まり、どのくらいだろう?
うちの子も現代社会がこれだけコミュニケーション力を要求する世界でなかったら、ちょっと融通の効かない変わり者くらいの位置付けで暮らせたのだろう。実際は手帳持ちで公的な支援がないとかなり生きづらいのが現状
人間を型に嵌める教育が一定量の「不適格者」を生産するのはあたりまえ。もっと言ってしまえば彼らを「病人」扱いし治療できると主張する医者が『病そのもの』を創り出してるのも当然(教育なしの治療はないので
私の子供みたいな軽度の場合は中2→中3で重大な選択を迫られるのよね。支援級だと内申が数字で出ないから行ける高校が一気に減る。友人に恵まれて普通級から大学まで進めたが世間一般では奇跡に近いケースだと思う
発達障害は人口過密と都市化が生んでいるはなんとなく感覚としてはわかる。人口が少なければ多分ここまで問題にはならないんよ。
いろんなパターンはあるとは思うけどとにかく生得性を否定しようとする趣旨には同意できないな。
発達障害はリアルにダメなのでそれを言うのはセーフなら高IQやギフテッドな発達障害エジソンやイーロンからすれば「定型発達であることくらいしか能がない指示待ちの無能w」もセーフ?分断させたいならOKだけど
マイノリティの発達特性を無視して、マジョリティの発達特性のみに合わせた社会を構築してマイノリティは障害者認定する。
現代教育の有様(日米で手法以外然程の差はなかったように思う)が、一部の子供たちにとって著しく「適応的」あるいは「非適応的」というのは、自己体験的にも頷ける部分があるワイ当事者。
学齢が1年とか2年ずれてても何も思わない世の中だったら発達障害ではなくなるという子がいるのはわかる。世の中の許容範囲が狭くなってきてはいるんだろうなぁ。
出たよ「社会モデル」。「私が生きづらいのは社会のせいで自分のせいじゃない〉という他責と、反医療の悪魔合体/治療すりゃ改善するんだから家族含めてちゃんと自助努力をしろ。他人様に要求するのはその後だ
社会性がある(今の社会に適応できる)人ほど身近な発達障害を許せなくなるのを見てると、なんだかなあという気持ちになる。
俺ン中ではホモ・サピエンス全員が発達障害です
グレーゾーンや知的障害のない発達障害児の場合が特にそうで、空気読みが必要な環境ほど本人や家族も困るし診断に進みやすい。 一方、将来就職などでその環境に移る可能性を考えればやはり早期から手を打つのが無難
じゃあ教育で「作らなくなった」ら解決するのか?というと結局社会に出るときスクリーニングされて途方にくれるだけだろ。衝撃緩和装置という現実解である以上、社会、会社が変わらないとそれを論じても意味がない
教育が「発達障害」を作るとき 「やりとり」の社会学という視点 | - 北澤 毅(編著)…他1名
『教育が「発達障害」を作るとき 「やりとり」の社会学という視点』
「問題の個人化」から「問題の関係化」へ
興味深い。最近の「発達障害かもしれない」と言う自己評価と対をうっすら成してるかも。そして上手くやれない、やれなきゃ変、とされる社会の閾値と接続を思う。これは読む。
1980年代あたりのアメリカで自己責任が極まりすぎた結果、体調不良すべてに自己申告以外の理由が必要となってメンタルクリニックが発達した説を読んだ記憶があるので、その流れ?
子供の頃に発見されるべきだよね。少し大きくなると、発達障害であることを巧妙に隠して無理して周りに溶け込んじゃう。特に女の子。
発見するのはいいが、人手不足を理由になんもしない。ただの差別になってる学校も多い。
「当事者個人ばかりに目を向けると「できなさ」や「問題行動」がクローズアップされ、心理的・医学的な支援だけがおこなわれることになる」
日本の知能トップから植松案件まで様々なヒトに接しているが、人間関係において、アンガーマネージメントが最重要項目の一つであることは間違いない。発達だろうがなかろうが、怒りを制御できない奴は終わってる。
社会的能力が欠如していること自体は取り繕いようのない事実なんだから教育のせいにしたって意味ないだろ。成人して職場に出ればどのみち問題が発生するわけだし
社会の鏡である教育、発達障害の理解を深めることで新たな光が差し込みますの。皆で手を携えましょうですわ!
早期発見・早期支援が過剰なニードを生み出し教育現場や家族の負担を増大させている.良かれと思って作られた制度が逆に現場・家族・当事者を苦しめる./発達障害はグラデーションがあるからな.
社会学の研究としては正しいんだろうけど、困ってる当事者としては教育が発達障害を作ると言われても何の役にも立たないので・・・むしろ発達認定してもらって障害者雇用で働く方が生きやすいのでは
障害は、生活に著しい制限がある方を支援する為の概念であると思うので、教育含めあらゆる社会システムが発達障害を外から形作るというのはなんとなくイメージできる。
当事者として発達障害のない人とは根本的に脳のつくりの違いを感じる。別タイプの人類というか。少数派だから周りと合わずなじめない。発達障害ある同士は結構気が合う。
世の中が複雑化してきているせいで取り残される人々が増えている。発達障害もそれでしょう。仕事も勉強も人々の社会のために行われていることだが競争社会では誰かをふるい落とすことでしか生き残れないのだよなあ
「発達障害は本人の特性」とみなす社会の風潮を批判して「発達障害は相互行為的に作られる」と主張する書籍に(試し読みの範囲ですぐ分かります)、当たり前のように「本人の特性」の枠組みでのコメントが付く悲しさ
獅子が烏帽子をかぶる時、烏の頭の兎は三十、鼠は六十、岩戸の奥をさぐるべし
これは思うなあ。息子はLDだが学校教育や入試がこれだけ読み書きに特化していなけりゃ、普通に録音メモとかで生活には困らないし、”特別な支援”も不要なのにと。
定形・非定形以上に受験や学校での内申点取得がハックされ終わって中高生時代にマネジメント能力の高い子が有利になる一方で多くの子が学習能力以外のところで埋没し不利益を被っているのではないかと思う。
発達障害にあまり縁のない人たちが社会制度を作ったために、残余として括り出された側。社会の同調圧力・淘汰圧が高まって顕在化。当事者たちをどうこうしても解決できず、社会や学校や関わり方を変える必要ある。
社会が発達障害を作ったんだろ。みんなと違うものを排除するために。排除側のコメント→「職場のADHDのAさんが辞めてくれて嬉しい」https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240728101905
この分野はあまり知識がないけど、発達障害という言葉ができる以前は変わり者として扱われつつ、社会の中でそれなりにやっていける仕組みとかあったんじゃないかな。障害として扱うことで分離されることもありそう。
これまで「ふるい」程度の分け方だったのが「ピンセットでつまむ」ような分け方になったから増えた、みたいな側面はありそうに感じている。
「教育社会学」でこのテーマは良い。帯にある、『「やりとり」の社会学』という語感が受け入れられない。「社会学」という表記が許されるのは理論社会学だけだと思う。制度論なら制度論らしく振る舞ってほしい
発達障害にはグラデーションがあり、社会が「他者」に厳しくなればなるほど、その線引きは薄い方に上がっていく。
特性が問題にならないような多様な社会が作れる・あったはず、的な奴だろうか
授業は聞かずに落書きしてる、宿題含め忘れものが多い、友達付き合いが苦手、って小学生だった。あと20年遅く生まれてたら何らかの対処がされてた気がするけど、対処された自分は今の自分ではなかったろうなとも思う
一生面倒見られる側と一生面倒見る側という関係性で固定すると、お互い様が成立しない。好悪の感情を無視して、相性も無いものとする制度の囲いの中で、お世話係・介護要員の戦力の歩留まり、どのくらいだろう?
うちの子も現代社会がこれだけコミュニケーション力を要求する世界でなかったら、ちょっと融通の効かない変わり者くらいの位置付けで暮らせたのだろう。実際は手帳持ちで公的な支援がないとかなり生きづらいのが現状
人間を型に嵌める教育が一定量の「不適格者」を生産するのはあたりまえ。もっと言ってしまえば彼らを「病人」扱いし治療できると主張する医者が『病そのもの』を創り出してるのも当然(教育なしの治療はないので
私の子供みたいな軽度の場合は中2→中3で重大な選択を迫られるのよね。支援級だと内申が数字で出ないから行ける高校が一気に減る。友人に恵まれて普通級から大学まで進めたが世間一般では奇跡に近いケースだと思う
発達障害は人口過密と都市化が生んでいるはなんとなく感覚としてはわかる。人口が少なければ多分ここまで問題にはならないんよ。
いろんなパターンはあるとは思うけどとにかく生得性を否定しようとする趣旨には同意できないな。
発達障害はリアルにダメなのでそれを言うのはセーフなら高IQやギフテッドな発達障害エジソンやイーロンからすれば「定型発達であることくらいしか能がない指示待ちの無能w」もセーフ?分断させたいならOKだけど
マイノリティの発達特性を無視して、マジョリティの発達特性のみに合わせた社会を構築してマイノリティは障害者認定する。
現代教育の有様(日米で手法以外然程の差はなかったように思う)が、一部の子供たちにとって著しく「適応的」あるいは「非適応的」というのは、自己体験的にも頷ける部分があるワイ当事者。
学齢が1年とか2年ずれてても何も思わない世の中だったら発達障害ではなくなるという子がいるのはわかる。世の中の許容範囲が狭くなってきてはいるんだろうなぁ。
出たよ「社会モデル」。「私が生きづらいのは社会のせいで自分のせいじゃない〉という他責と、反医療の悪魔合体/治療すりゃ改善するんだから家族含めてちゃんと自助努力をしろ。他人様に要求するのはその後だ
社会性がある(今の社会に適応できる)人ほど身近な発達障害を許せなくなるのを見てると、なんだかなあという気持ちになる。
俺ン中ではホモ・サピエンス全員が発達障害です
グレーゾーンや知的障害のない発達障害児の場合が特にそうで、空気読みが必要な環境ほど本人や家族も困るし診断に進みやすい。 一方、将来就職などでその環境に移る可能性を考えればやはり早期から手を打つのが無難
じゃあ教育で「作らなくなった」ら解決するのか?というと結局社会に出るときスクリーニングされて途方にくれるだけだろ。衝撃緩和装置という現実解である以上、社会、会社が変わらないとそれを論じても意味がない